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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu147.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来た
のであり、場合によっては西洋史よりも早く姿を現わしている。西尾幹二
2007年7月9日 月曜日
◆江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 西尾幹二(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4163688307.html
ヨーロッパというものの正体が何であったか、今にしてわれわれにはやっと分るわけですが、どうやって江戸時代の日本人にそれが分ったでありましょうか。しかし本能的になにかが分っていたのかもしれない。家康だけではなく先立つ秀吉にも分っていた。日本人の知恵、直感が働いていた。だからキリシタンの拒絶と、ポルトガル、スペイン船を近づけないという蛮族打払いの政策を実行することが可能であったわけでしょう。
まあ、それはともかくとして、先の引用からも、ヨーロッパにだって未来は見えていなかったということを申し上げておきたい。
◆聖書と神道
江戸の日本はヨーロッパをほんの少し知っていたけれど、しかしながらそれとは無関係に、自分の独自の価値観念を、閉ざされた江戸の空間のなかで追求していたのです。ヨーロッパも自らがどこへ向かうか分っていないと今申し上げましたが、日本は日本で、ヨーロッパはヨーロッパで、それぞれが独自の道を歩んでいたのであります。
いいでしょうか、読者の皆さん。江戸時代は明治のための手段ではありません。それがまず最初に言いたかったことであります。
明るい近代的なもののイメージを江戸時代に投影して、江戸を「初期近代」と呼ぶのも、みんな西洋からきた観念です。江戸を初期近代と言うといって、英語の研究書の中にそういうことが書かれてあるものだから、最近日本の国史学者たちは一部で、ああ、アメリカ人がそう言っている、イギリス人がそう言っていると慌てて近世の概念を疑うとか言いだしたり、江戸時代は初期近代だと言ったりしていますが、遅いんですよ。
やっとそのレベルのことを言いだしていますが、遅いんです。遅いというのは、私はその逆を今言っているからです。つまり、江戸時代は近代明治のための手段ではなかった、と。江戸時代の人は明治を目的にして生きていたわけではない。
徳川体制が壊れて、再び「朝廷の時代」がやってくるとは、江戸の人たちは想像だにしなかった。幕末になるまで、誰も考えていなかった。その時代にはその時代に閉ざされた特有の価値観があると、ランケが言いました。「各時代には各時代に特有の神がある」と。われわれは江戸時代を「近代的なるもの」の実現のプロセスの目盛りの程度で解くようなことをやめましょう。江戸の人が生きた、閉ざされた固有の価値観の内部でこれを評価しなくてはなりません。そこで第三の命題です。
日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来たのであり、西洋史とは関わりなしに、場合によっては西洋史よりも早く姿を現わしているということ、そしてそれが先進的であるのは西洋の場合と同様に深く自らの過去の歴史に遡って、そこから養分を取り、そこへ戻り、そこをばねとしていること、そしてまた各時代の閉ざされた固有の内部の価値観を通じて確立されていったということであります。
それならその閉ざされた江戸の空間の固有の内部での価値観とは何か。一口で申しますが、それはとりあえずはまず儒教であります。室町から戦国時代にかけて成立したいわゆる神の国この神の国はいつごろできたかと正確にいうのは難しいけれども、江戸時代になると、ここに明らかに儒教が入ってまいりまして、この国のかたち、まとまりといったものを考えだす。儒教が日本という国のまとまりを初めて自覚するきっかけになるのです。
ここでいう"儒教"とは、もとより西洋とは無関係であり、また中国の儒教とは現われ方が違うものでありまして、日本的な儒教でありますが、しかしながら儒教は儒教ですから、おしなべて中国研究であることには変わりはないのであります。そこらへんが非常に難しいのですが、同時代の中国では考えられないような方向へ日本の儒教は展開し、そこでは予想外に巨大なスケールの仕事がなされたのであります。
日本という国は、いつどのようにして、この国の国家的まとまり、国のかたちというものを自覚するようになったのでしょうか。通例は江戸の儒教とは関わりなく、元寇のときに、北条時宗の鶴の一声でまとまり、あれが神の国の始まりだという説もありますが、すると平安時代のいわゆる国風文化はどう考えたらよいのでしょうか。ともあれ、神の国の自己認識がいつ始まったか、文献学的に議論しても仕方がありません。そうではなく、私どもによく知られている明らかないくつかの道標を思い出してみましょう。
例えぱ、豊臣秀吉は、スペインのフィリピン総督に宛てた手紙で、日本は神の国だからバテレンの布教はまかりならぬと応答しております。さらに秀吉は、日本で初めて自ら求めて神社に祀られるこおくとを希望し、日本で最初に「神」となり、朝廷からは「豊国大明神」の号を贈られております。家康も自ら神になることを求め、日光東照宮において「権現様」となっている。どうも神の国は、戦国から江戸にかけてのこの前後ですでに確立していることは間違いがないようです。
今、「明神」とか「権現」という言葉を申しましたけれども、本来的には神道は偶像を持たないものです。が、神仏習合という仏教の影響であの美しい仏像彫刻を見せつけられているうちに、神道のほうでも明神様とか、権現様とかやってみようということでそうなったようです。これは、仏教が神道に与乏た影響です。
江戸の二百五十年のこの国の枠、国のまとまり、それをつくったのは、秀吉と家康の知恵です。秀吉がバテレンの禁止と中華秩序からの離脱を実行した。中国何するものぞという、秀吉の態度をそのまま、そっくり内向きに引き受けたのが、二百五十年間の江戸幕藩体制の外交政策です。
この方針を決定したのは、精神的には神の国を言っているけれども、実は神道でもなければ、仏教でもなく、中国研究でもあったところの儒教であったという逆説を申し上げなければならないのであります。というよりも神道と合体した儒教というか、垂加神道というふうな名前で呼ぱれるものです。日本には、「外来の思想を厚化粧のごとくまとった神道」と「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」との二種類があります。
「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」のほうが、どちらかというと純粋な神道で、「外来の思想を厚化粧の、ことくまとった神道」は複合したものということなのですが、私の直感では、日本の歴史に二度大きな宗教が外から入ってきています。古代に仏教が先ず入ってきた。儒教も入ってきていますが、影響力はまだそれほど大きくない。そうして次に、室町時代以降に儒教、つまり朱子学が流入しています。
その「外来の思想を厚化粧の.ことくまとった神道」は、最初は「本地垂迹の思想」という。垂迹というのは仏が本地、仏教が本体で、神としてそこに現われるというものであります。つまり両部神道といいまして、仏教と習合したということですが、やがてそれに対する反発が起こりまして、「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」のほうへ行く。これが、本来の神道であり、伊勢神道、または度会神道とも言いますが、反本地垂迹思想です。
つまり仏教から脱するということで、神様が、本体で仏教がむしろ垂迹なんですから、仏教が外に現われるということになる。.神様が本体で仏教が外に現われる。いや、反本地垂迹といっても、脱仏教といっても、仏教を完全に離れるのではなくて、要するに薄くなるだけです。
室町時代になりますと、こんどは道教、儒教、仏教合わせて全部一緒にしたごた混ぜのものになる。ある人に言わしめると、「錦織りの綴れ織りを鎧に纏ったような神道」となる。ここに「吉田神道」という巨大な伝統を持つ神道が生まれます。これもやはり反本地垂迹思想で、神が本体ということになる。ただ、神が本体であっても、ごたごた、こたといろんなものを身に纏っておりますので、こんどはそれを否定する、脱吉田神道が出てくる。再び、伊勢神道がもう一度、吉田神道の厚化粧を脱ぎ捨てて登場してくる。
そこへ朱子学がどっと入ってまいります。そうしますと朱子学と神道がくっつきまして、それは林羅山、山崎闇齋などが代表する、儒教と習合した「垂加神道」や「理当心地神道」が生まれてくる。これらに対してしぱらく経ってから、いや、こんどは儒教も仏教もだめだ、『古事記』の神話に立ち戻れと言ったのが本居宣長の「古学神道」ということになります。彼の弟子の平田篤胤は、厚化粧のほうに回り、幕末になってキリスト教と習合するというおかしな話になってしまう。もっとも宣長も「聖書」を読んでいたという説もあることはあるので、キリスト教の影響もあったかもしれません。
明治になると、厚化粧の神道は「国家神道」に向かい、戦後の神道は、憲法の規定などによって、存在するための根拠を失い、薄化粧というか、可哀相な神道となってしまった。森喜朗元首相の「神の国」発言でぐらつくほど頼りなくなっている。なぜそうなったかというと、たった一人、津田左右吉という人物が現われただけで、そうなってしまった。
別に、津田左右吉が悪いのではなくて、自然科学というものに対して神道は防衛力を持っていなかったためでしょう。日本の神遺は何にでもまといついて、何にでも自然なかたちで習合する思想ですけれども、自已の存立のために戦う理論武装が弱く、本格的に思想家として自己防衛をしたのは本居宣長一人であったのではないかと思われます。
過日、中西輝政氏と対談して、『日本文明の主張』という本を出しました。この中で、中西氏が、キリスト教にはたくさんの護教論(教義を護る議論)があるのに、日本の神道を守ろうとしたのは本居宣長一人だけだった、だから神道は脆いんだという指摘をなさいました。それはそうだと私も合点し、次のように付言しました。ヨーロッパの思想は、アンチクリストの思想まで実は「護教論」なんです。
ドストエフスキーの『罪と罰』、二ーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』はみんなアンチクリストの流れですが、これらとても、結局は「聖書」のパロディです。カントの『純粋理性批判』は、自然科学を基礎づける書であると一方では言っていいわけですが、実は「信仰の領域」と「自然科学の領域」は別物だと指摘し、信仰の領域を守ろうとしている。
そういう意味ではカントの『純粋理性批判』も「聖書」のパロディかもしれない、とあえて言ってみたくなるのが西洋の宗教世界なのです。何を論じても全部「護教論」に通ずるものすごい世界なのです。それに比べると、目本の神道には防衡思想があまりにもないということは認めざるを得ません。
◆仏教の堕落
もっとも、今お示しした二系列の神道の図式[図@]に関しては、素人の考えであって、余りに便宜的で、いささか大雑把な捉え方なので、私としては内心忸怩たるものがあるのですが、それはお許しいただくとして、神道はなにか外来のものにまといついて自らを守る、そういう不思議な力をもっていることをこの表でむしろ言いたかったのです。
江戸時代になって日本の国のかたちを意識させたのは、先述のとおり儒教でした。しかしその儒教を背後からささえたのは神道でした。通例は神仏儒のイデオロギーの連合が強く出ているというふうに言われ、神仏は一体で祀られていましたけれども、しかしながら日本の国の全体の統一のまとまりを意識させたのは儒教だということを、今私はこれから少し説明します。
神道は単一体としてみれば、江戸時代に入ると旗色が悪くなる。それはなんといっても天皇家と結びついておりますから、神道が盛んになると幕府の存在がそれだけ相対化されます。時の幕府からは疎んじられていました。一方、仏教は国教化して、幕府に保護される。幕府はとにかく一向一撲もいやだったし、もう坊主どもやキリシタンが荒れ狂ったら手に負えないのを知っていたので、宗教をいかにして自分たちの保護監督下に置いて管理するかということに力を入れた。政治の知恵ですが、それ故に保護された仏教は堕落します。
たとえば檀家制度は民衆をお寺の管理下にくり入れるものであり、本末制度はお寺を本寺と末寺に分けて、住職の任命権を本山に限定するなどの制度ですが、どこまでも幕府がお寺を管理する制度です。これで政治による宗教の序列化がはっきりしましたが、ただ民衆の立場から言いますと、十六世紀まではろくなお弔いもしてもらえなかった。
偉い人たちはちゃんとお墓も持てたけど、庶民にはお墓もなかった。ですけれども江戸時代になると、とにかくいろんなことが現在のわれわれの生活に近くなってきて、庶民もまたお弔いをしてもらえるし、戒名が頂戴できるようになった。これはありがたいことであって、広い意味での庶民の救いにつながづたと考えることはもちろんできるだろうと思います。
お寺が民衆の日常の救いの場となり、ともあれ仏教が国民的宗教とレて確立した。現在残っているお寺の九〇パーセントは十六世紀、十七世紀の二百年問に創立されたと言われております。そのうち約八○パーセントは寛永二十年(一六四三年)までに成立しているということです。
江戸学者の尾藤正英氏が、この事実からすれぱいわゆる本寺、末寺の制度などとか、あるいはまた檀家制度などというものは、権力による人為的なものではなく、それ自体としては自然発生的に成立し、江戸幕府はただそれを政治的に利用しただけであったと見るのが妥当であろうと、大変お寺さんに好意的な評価を下しています。そういう一面もたしかにあったと思いますが、お寺が庶民にとってありがたい一方の存在であったかどうかはまた別の問題です。
というのは、お寺は、庶民に対してキリシタンでないことの証明をするかわりに、次々と彼らからカネを巻き上げるなどのことが多かった。庶民はそんな体質にウンザリして、お祈りの場としては山伏や占い師だとかに救いを求め、必ずしも仏教寺院を頼りにしないようになってしまった。つまり現在と同じような「葬式仏教」に堕ちてしまったのは事実のようであります。
なにしろ葬式を行う資格は、幕府によってお寺にのみ与えられたために、当然お寺は傲慢になり堕落します。民衆は民衆で、お寺とはべつのところの信仰に走る。姓名判断とか、家相を見るとか、お祓い、お浄めとか、陰陽道だとかが盛んになります。これは現代にまでずっと続いている民衆宗教の流れです。今と変わらない同じ構造ですね。江戸時代の民衆の心のかたちは現在とあまり変化がないと私は見ています。現代の仏教不信は、むしろ江戸時代に始まっている。
だから神仏分離が明治の初期に行われたときに、廃仏段釈(仏像破壊)が起こりましたが、政治的弾圧ということだけでは説明できません。政府の関与があったにせよ、民衆自らが率先して協力した側面もあったわけです。それだけ、お寺が憎まれていたということでしょう。(P30〜P38)
(私のコメント)
日本の教育は憶える事にばかり重点が置かれて考える事に対する教育があまり行なわれていない。もちろん低学年においては憶えなければならないことに重点が置かれますが、高校大学においてもその傾向は変わらない。歴史教育も何年に何があったという事ばかりであり、そこからの価値観や意味づけなどは教育の場では避けている。
もっとも歴史教育は、入学試験からも排除されているから高校のカリキュラムからも排除されて、世界史などは学ばないまま卒業してしまう学生もいる。しかし毎日の政治や経済を見る上では世界史などが分からないと現代の政治や経済も理解する事ができなくなる。日本の教育は一番大切な科目を排除して教育しているのだ。
西尾幹二氏の「江戸のダイナミズム」という本は、江戸時代に対する歴史的解釈において、西洋よりも先に近代の芽が出てきた事を指摘している。西洋に近代の芽が出てきたのは、宗教戦争の後からであり、それまでは政治と宗教の区分けが出来ていなかった。
西洋における16世紀から17世紀におけるカトリックとプロテスタントの宗教戦争は、政治の世界に宗教が持ち込まれると凄惨な結果をもたらすことになり、政治と宗教は明確に区分けされるようになった。しかし日本では信長や秀吉や家康が宗教勢力と一線を画して政治を行なうようになったのであり、近代的日本が中世的ヨーロッパを排除したのがキリシタン禁令だ。
そのような意味で言えばアメリカははたして近代国家といえるのだろうか? アメリカはヨーロッパと違って宗教戦争を経験していない。だから今頃になっても第九次十字軍遠征軍をイラクやアフガニスタンに送っている。その目的はイスラエルの支援であり、ユダヤ・キリスト教の聖地エルサレムの恒久的な確保がその目的だ。
アメリカがキリスト教原理主義の国家であることは、福音派の信者の数からも明らかなことです。中には聖書を絶対視するファンダメンタリストに至っては進化論を否定して神が7日間で世界を作ったと信じて、ハルマゲドンの戦いが近いうちに起こってキリストの降臨を信じている人がブッシュ大統領の有力な支援団体になっている。
日本やヨーロッパの人から見れば、このようなアメリカはバカバカしく思える。しかし非キリスト教徒に対する無慈悲な扱いが時々出るのであり、日本に原爆を投下できたのも日本がキリスト教国家ではなかったからだ。ハルマゲドンの戦いではキリスト教徒だけが生き残ると書いてあるそうだから、非キリスト教徒は死んでもかまわないとも解釈できる。
近代人である日本人は、信仰の領域と自然科学の領域を一緒くたにすることはありませんが、アメリカのキリスト教の一派は聖書の絶対性を信じている。そして旧約聖書の中の預言された世界を実現させようとしている。そのようなアメリカ人を近代人であると見ることが間違ってる。
日本には7世紀に仏教が入ってきて、その後から儒教や朱子学などが次々入ってきましたが、神道をベースに仏教や儒教や朱子学などが地層のように積み重なっている。秀吉や家康がキリスト教を禁令にしたのも、キリスト教の教義に疑念を抱くだけの信仰の基盤がすでにあり、キリスト教の背後に隠された侵略的な意図に気がついたからだ。
家康は宗教勢力を東西に分裂させることで宗教が政治に口出しをすることを排除することが出来た。このような結果が葬式仏教といわれるほどに骨抜きにされてしまったのですが、明治になって基盤にあった神道が国家神道となりました。日本人は基本的に仏教も信じていなければキリスト教も受け付けていない。
しかし神道には教祖も経典も無い古代宗教であり多神教だ。アメリカ人にはこのような日本人が野蛮人に思えたことだろう。しかし実際の日本は戦国末期には宗教と政治とは分離された近代国家であり西洋よりもそれは早かったのだ。日本の歴史教育ではそのようなことは教えられず、鎖国によって近代化に遅れた日本を教えている。
先日はアメリカの高官が原爆の投下が100万人の日本人を救ったと述べていましたが、やはり原爆を投下したことに対する後ろめたさがあるのだろう。しかし投下を決断したルーズベルト大統領は選民思想から非キリスト教徒である日本人を抹殺しようとしたのだ。
このようなアメリカ人の精神的な発作はキリスト教の選民思想が原因であり、ブッシュは”神の声”を聞いてイラクに侵攻した。宗教戦争を経験していないアメリカ人だからこそこのような”神の声”を信じてしまうのでしょう。
◆神のお告げでイラクに侵攻=ブッシュ大統領語る
http://oiradesu.blog7.fc2.com/blog-entry-738.html
【ロンドン6日】英BBCテレビは中東和平をテーマに今月3回に分けて放送するドキュメンタリー番組で、ジョージ・ブッシュ米大統領が「アフガニスタンとイラクへの侵攻は神から命じられた」と語った事実を公表する。
ブッシュ氏は2003年6月にエジプトのシャルムエルシェイクでパレスチナ自治政府のアッバス首相(現議長)とシャース外相(現情報相)と会談した際ににそのように語ったという。
シャース氏によれば、ブッシュ大統領は「私は神に与えられた使命によって行動している。神は『ジョージよ、アフガンのテロリストと戦え』と命じた。そのようにすると、神は今度は『ジョージよ、イラクの圧制に終止符を打て』と命じた。私はそのようにした」と語った。
ブッシュ氏は、パレスチナ国家の創設も神から命じられたことを明らかにしたという。
BBCは、ブッシュ氏の神のお告げ発言についてホワイトハウスに問い合わせたが、私的な会話には論評できないと断られたと述べている。BBCの番組は今月10日、17日および24日に放映される。
〔AFP=時事〕
時事通信社:2005年10月07日
”神の声”を聞いたブッシュ・アメリカ大統領
(私のコメント)
9.11テロ事件以降のアメリカは、明らかに発狂しているように思える。日本人やヨーロッパ人ならあの程度のテロ事件は戦争被害から見れば取るに足らない被害だ。しかしアメリカにはあのような攻撃を受けた経験が無いから、気が動転してしまっているのであり、眠っていたキリスト教の選民思想が呼び起こされて、中東で世界核戦争を起こそうとしている。まさにハルマゲドンを実行しようというのだ。
アメリカ人がもし悲惨な宗教戦争を体験していれば”神の声”などありはしないと分かるはずだ。秀吉や家康の時代のスペイン人やポルトガル人はまさに”神の声”を聞いて世界征服に乗り出したのですが、秀吉や家康は彼らの狂気に気がついて鎖国に踏み切ったのだ。
だからこそ、狂気にとりつかれたアメリカとは”鎖国”も覚悟しなければならないのかもしれない。
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