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ゆきゆきて、神軍/人は人を裁けるか 【言語学研究室日誌】2005年01月27日
原一男監督『ゆきゆきて、神軍』を観ました。ドキュメンタリー映画ですが、カメラワークを見ていたら、『仁義なき戦い』シリーズを思い出しました。マイケル・ムーアも観るべきドキュメンタリー映画として推奨していたというのですが、私の見方では、マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』よりもインパクトがあります。神軍平等兵こと奥崎謙三の自己愛が圧倒的です。また経歴が凄い。昭和天皇パチンコ玉狙撃事件、皇室ポルノ写真ばらまき事件はともかく、不動産業者の傷害致死で懲役10年の刑を喰らい、それにもめげず、映画の撮影終了後には、殺人未遂等を犯し、懲役12年の刑をつとめあげて最近出所したそうですが、こんな男にまわりをうろつかれたら、竹村和子や上野千鶴子も(私は言うに及ばず)生きた心地がしないでしょう。奥崎が運転する車には屋根に取り付けた看板らしき物の上に「田中角栄を殺す」という文字が躍り、尋常な人物ではないことが窺えます。
ストーリーは第2次世界大戦の末期のニューギニア戦線です。補給路を断たれ、飢餓に苦しむウェワク島の日本陸軍独立工兵第36連隊に所属する2名の兵士が処刑されたことを復員後に知った奥崎謙三(彼もニューギニアから生還)が真相究明のため、当時の第36連隊に所属して残留兵のトップにいた残留隊隊長古清水(当時)を始め、その指示に従って処刑を実行したと思しきその下士官達に、一体何があったのか、処刑は敗戦後21日も経ってからなぜ行われたのか、執拗な追求を続けます。ニューギニアで原住民の毒矢を受けて狂死した兵士の墓参りをするシーンもあり、これは奥崎にとって慰霊の旅であることがわかります。当初は口をつぐんでいた彼らに対して、時には馬乗りになって殴打しながら少しずつ当時起きたことを聞き出し、矛盾があった場合には対質尋問で追求していきます。その過程で、通常、銃殺は軍法会議での所定の手続きを踏んだ上で行われるのですが、それが行われなかったこと、黒肉(原住民の人肉)と白肉(白人の人肉か)の区別があり、後者は食べてはいけないが、前者は食べても良かったこと、そして、最後に、銃殺は、軍規違反ではなく、空腹を満たすために一番立場が弱く、また役にも立たなさそうな兵士2名(俺は川がどこにあるとか地形を読むのが巧かったから殺されなかったんだという当時の下士官の述懐が出てきます)を狙って行われたこと、銃殺の後に処刑した日本人兵士の人肉を残りの兵士が空腹を満たすために食べたことが明らかにされていきます。
明らかにこれは犯罪ですが、法律的にはもちろん時効です。ただし、奥崎は「私はこれは『神』の立場からすれば、永久に許されないことだと思うんです」とあくまで処刑を命じた残留隊隊長古清水の責任を追及、最後のシーンにテロップで実際に拳銃で古清水の殺害をくわだて、その息子に発砲したことが示されます(結局、殺人未遂で懲役12年の判決を受けて刑務所で服役)。マイケル・ムーアのドキュメンタリー物でも、彼が追いかけているのは普通の市民や政治家で、暴力を公然とふるう本物の確信犯を追いかけていないので迫力が違います。マイケル・ムーアの『華氏911度』を観て物足りないと思った人はこれを観ることを薦めます。
さて、この映画が「反戦映画」かと問われれば、そうかもしれません。戦争中でない限り、人が人を殺して食べるというカニバリズムは確かに一部の精神異常者でない限りは滅多に行われないでしょう(このような文化を持つ部族もあるそうですが)。ただ、人が生き延びるために他人を殺さざるを得ない極限状態に追いつめられる事態は平時でも発生することがあります。たとえば、船が沈没して、生存者が二人海に投げ出されたとします。そこに流木が一本流れてきます。この流木につかまれば、一人は助かるが、後の一人は助からないという状況下で、一方が他方を殴るか絞めるかして殺害して流木を確保したとしても、これは確か法律上無罪の筈です(その後、飢えを満たすために、魚ではなく、殺害した人の人肉を食べる行為が犯罪〜死体損壊〜になるか否かは私には分かりません)。ただ、戦争という極限状況で、このような「万人の万人に対する闘争」が表面化する確率が高いことは確かですが、戦争でなければ絶対に起きないかと問われれば、答えはノーです。戦争に行っても、自軍の兵士を処刑し、その新鮮な人肉を調理して食して飢えをしのぐという極端な経験を持つ人は多くはありません。この点で、戦争と平和はあくまで延長線上にあるのです。戦争と平和をあくまでも切り離して考える人にとっては、この映画は「立派な反戦映画」になるでしょう。その意味で、戦争と外交の連続性〜「戦争は外交の継続である」〜を指摘したクラウゼヴィッツは正しいと思います(しかし、クラウゼヴィッツの『戦争論』ではあまりに古いので、西谷修『戦争論』講談社学術文庫を読みましょう)。古清水のすぐ背後に天皇を見ているかのような奥崎の戦争責任追求論は今ひとつ飲み込めません。天皇が二人の兵士の処刑命令を下したわけではないですから。
それでも、戦争というと非常に勇ましい側面だけを強調する著作に対しては、免疫を作ってくれる映画だったとは思います。役者として見た奥崎謙三は素晴らしいです(彼はどこかで自分を「人生劇場の大根役者」にたとえています)。「神」の名の下に、一方的に元上官の家に突然押しかけ、処刑された二人の兵士の遺族(居なくなってからは、奥さんや知人のアナーキストに代役を依頼して)を伴って、病人も含む元下士官や隊長を問いつめ、必要な時には些かも躊躇わず、元下士官や隊長の家族の制止も振り切って暴力を行使して自白に追い込んでいく「神の法廷」は痛快です。奥崎謙三だけがなぜ「神」の代理人として振る舞う資格があるのかを彼に尋ねても無駄でしょう。あるいは、深読みをすれば、人が人を裁くということの本質を極端に戯画化して描いた映画かもしれません。
最後に、彼は12年の懲役を務め終えて1998年に府中刑務所を出所し、今も日本のどこかで生きていることを覚えておいた方が良いと思います。
大学生の時に話題になった映画です。なぜか足を運ばずにいたのですが、やっと見ることが出来ましたが、音楽もなく、どちらかというと単調な映画(ドキュメンタリーですから)ですが、奥崎本人の迫力で最後まで見せてしまう映画です。
http://blog.livedoor.jp/wnmtohoku/archives/13109607.html
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