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江川達也・宮台真司対談:新生『家畜人ヤプー』〜コミック版『家畜人ヤプー』 の連載開始を機に【MIYADAI.com】
【宮台】連載の第一回目を読んで、原作そのままなので驚きました。このテンポでいくと、完結までに軽く十年はかかるんじゃないですか。
【江川】何年がかりっていうのは、あまり考えてないんだけど、連載をはじめるにあたって、導入部での工夫はしてあるんですよね。やっぱり最初の出会いの場面がポイント。ふたりが出会って、この先どうなるのか。ここをどう見せるかが重要なんです。先を早く読みたい人は原作を読めばいいわけであって、物語の入り口として、この場面はきちんと描いておかないといけない。そのあと、二千年後の未来世界、宇宙帝国イースの世界に入っちゃうと、日常性がなくなるから。
【宮台】最初のシーンが、僕らの日常性との数少ないインターフェースになるからですね。
【江川】その日常性をしっかり描いておかないと、読者がその先の異常性の部分、イースの世界に入りこんでいけないから、最初は相当ボリュームを持たせて描いてるわけ。
【宮台】僕はね、主人公の麟一郎の顔が、比較的不細工に近い奇妙な顔であるところが、さすが江川さんだと思いました。「なるほど、そう来たな」と。
【江川】宮台さん偉い(笑)。俺の工夫がわかってるよね。でも、原作の沼正三さんは意表を突かれたらしい。
【宮台】原作を知ってる人は、「えっ、これが麟一郎か」って、誰もが思うかもね。
【江川】でも原作を反芻してみると、これしかないんだな。結局、石ノ森章太郎先生が描かれた麟一郎とクララは、顔のキャラがそんなに変わらないじゃないですか。今回の麟一郎とクララは『家畜人ヤプー』のために作られたキャラであって、目とか口元とか、日本のネイティブのヤプーなんですよ。沼さんも忘れられてるかもしれないけど、原作には、目が腫れぼったくて、モンゴル系の顔をしてるって書いてあって、本当はこういう顔に近いと思うんですね。
【宮台】実は、この麟一郎の顔つきに、すでに主題が出ていると思うんですよ。麟一郎はドイツに留学して、ドイツ語もぺらぺらで、ドイツ人女性と交流してるんだから、当時の日本でも確かにエリートであり、その意味では「強者」です。それが、冒頭の空間に置かれると、クララとの対比で、実は粗野な「弱者」に見えてしまう。その「弱さ」は、連載第一回目において、家畜の躾をめぐるクララとのコミュニケーションで示されてますよね。
【江川】「弱い」とは思わないんだけどね。
【宮台】いや、僕が「弱い」というのは単純な意味ではない。それについては、あとでアジア主義の問題と絡めて詳しく話したいんです。
【江川】そこが作品のひとつのテーマですからね。『ヤプー』も絶対にその流れの中にあると思う。
【宮台】それから、どう描くのかと期待してたんだけど、スツール(肉足台)がまだ一箇所しか出てきてませんよね。
【江川】スツールがどう描かれるのかも、今回の売りのひとつなんだけど、一度にたくさん出てくると、読者がよくわからないだろうと思ったんですね。結局、この原作は情報量が多いでしょう。前知識がない人の中には、読むのを途中で投げだした人も多い。ある種の歴史のパロディであり、SFのパロディであり、そういう前段階の知識をちゃんと持っている人にとっては、原作にあるひとつひとつの説明がつぼをついていて面白いんだけど、予備知識がない人には、非常に難しい説明がつづく難解な小説になっているわけですよ。だから、時間をかけて、引き延ばしながら描いていこうと思っているんですね。これぐらいのゆっくりしたテンポの説明で、ちょうどほどよい感じで読者の頭に入ってくるんじゃないかな。
【宮台】ひとつひとつのコマが大きいのにも、びっくりしました。情報量が多いから、コマが小さいと、読む側が圧倒されちゃう。その意味じゃ、よく考えられています。
【江川】台詞も一頁あたりにあまり入れない。聞いたことのない造語が山ほどあって、それが次から次へと細かいコマで出てくると、頭がパンクして、読者がついてこられないから。
【宮台】あと、スツールも健全に描かれていて、わざと猟奇的に見えないようにしてるでしょう。
【江川】猟奇的には見せないつもりでいるんです。
【宮台】僕もその方が絶対いいと思う。明治末から昭和初期にかけて「新青年」的あるいは江戸川乱歩的な「いまここ」へのニヒリズムの中で、「ここではないどこか」を呼び出す〈片輪的なオブジェ〉に向かう流れがありました。そういう系列で『ヤプー』を読む人たちもいるけど、原作のどこを読んでも江戸川乱歩の『一寸法師』とは違うよ(笑)。猟奇ドロドロじゃないし、どのオブジェも異様なものとして描かれていない。すべてが日常性の延長線上です。もちろん僕たちの日常から見ると非日常ですよ。麟一郎とクララにとっても当初は非日常です。でも彼らは一瞬後にそれを受け入れるでしょう。適応していくんですよね。この適応こそが作品の中核的なモチーフです。だから猟奇的に読むのは完全な間違いなの。その意味では非日常性の演出は一切いらない。
【江川】非常に理路整然と整理されたクリアーな世界ですよね。最初に異文化の出会いがあって、そこでは日常と日常の出会いによって非日常が生み出されるんだけど。それで日常のまま物語の中に入っていくと、いつの間にか『ヤプー』のイースの世界に入りこんでいた、と。そういう感じの方がいいと思うんですよ。
【宮台】ベースは飽くまでも日常で、そういう「異常な日常」を僕ら日本人は平気で耐えるだろうと強調されている。だからこそ、今を生きる僕たちの共通感覚にも訴えるところ大だと思うんだな。それで共通感覚の話に行く前に、この時期になぜ江川さんが『ヤプー』をお描きになろうと思われたのか。まず、そこを伺いたいんですが。
【江川】期待はずれなんだろうけど、幻冬舎の編集から電話があっただけなんですよね(笑)。結局、編集の人が、『ヤプー』を描かせるとしたら、今誰の絵が一番いいかと考えたときに、江川達也しかいないと思ったんじゃないですかね。もちろん、僕はサインをずっと出しつづけていたわけですよ。『ヤプー』を描くなら俺だと、手は挙げていた。それと自分は自分で長い間、漫画を描いてきたんだけど、実は沼さんが書かれようとしたテーマと僕自身が描こうとしているテーマが、奇しくも、比較的近いものであったということであってね。俺に仕事を持ってきた編集者の考えは正しい、今の日本で他に『ヤプー』を描ける奴はいないだろうと思いますよ。
【宮台】確かに「プライドを捨てろ!」が江川さんのゴールデン・メッセージだし。
【江川】自分が一番描きたいと思っていた世界っていうのは何か。こういうことなんですよ。やっぱり日本という国は、戦前と戦後ではっきり分断されているわけでしょう。しかも分断された後、それ以前の記憶を蘇らせようとする人たちがあまりにも少なすぎる。そういう状況に対して、僕は『日露戦争物語』(小学館「ビックコミックスピリッツ」連載中)を描いているんですね。それはデビュー作の『BE FREE!』(講談社)でも、同じことなんですよ。分断された日本の状態、言ってみれば、マインドコントロールされて情報統制されたまま長い間放っておかれた状態があって、それに対して、どうもこの世の中おかしいんじゃないかっていうことを表現したかった。僕が描きたかったテーマなんですね。実際に五五年体制も崩壊して、ソ連も崩壊してロシアになった時に、今まで作られてきた虚構の世界が音を立てて崩れてしまったわけでしょう。その後、我々はどうやって生きていったらいいのか。やっぱり歴史に学ばなければいけないと思うんですよ。あの分断された時の記憶とは何だったのか。GHQか何かに消された記憶を蘇らせて、そこからきちんと学んでいかなければいけない。あるいは、分断される前から生きていた人たちは、進駐軍が行ってきたものをどのように見てきたのか。そういうことを考えていったときに、沼正三さんの『ヤプー』が非常に参考になると思ったんですね。つまり戦前の記憶を持つ人間が、分断されてマインドコントロールされた状況を前にして、もっとも敏感に感じて書いたものが『ヤプー』であり、日本の歴史における、ひとつの特異点のような作品として、僕には感じられたわけですよ。だから、『ヤプー』を描くことによって、分断されたときのその感覚を、もう一度蘇らせたかったっていうことはあるんですね。それには非常にいい時期なんじゃないですか。
【宮台】なぜ今『ヤプー』なのか。江川さんがおっしゃった動機は僕にとってもリアルです。僕は社会システム理論家だから、歴史そのものには興味がなく、世界がどのようなパターンの反復によって成り立つのかに興味があるわけですよ。今日はその観点から考えてみたいんです。たとえば現在、グローバリゼーションが世界中を覆いつくしています。そんな時代に『ヤプー』を読むことの意味は何か。つまり『ヤプー』から何を学べるか。そこを考えてみたいんだな。『ヤプー』に描かれているのは、僕の言葉で言えば、「アジア主義的な共通感覚」です。これは、GHQの占領政策で忘却癖の進行した戦後の日本人にとって知恵になるだけではない。現在、世界中の人たちが突き当たっている問題を考える上でも、大きな知恵になると思っているんですね。
【江川】アメリカやアラブにとっても知恵になり得るということですか。
【宮台】その通りです。そこで出てくるキーワードが、意外に聞こえるかもしれないけど、岡倉天心の言う「力と美」。でもそこに行く前に、今の日本で若い連中が突き当たっている問題に触れておきたいんです。僕は9月8日の東京レズビアン&ゲイパレードに参加しました。九四年に始まったこのイベントは、当初「行動するゲイ&レズビアンの会」のようにメッセージを表現することに力点があった。中断を挟んで、最近ではその側面に替わって〈祭り〉的な側面が上昇し、参加者とともにノンケのギャラリーも増えて大盛況です。そこには〈祭り〉を組織できるゲイに対するノンケの憧れやリスペクトが見られます。さて、なぜゲイだけが〈祭り〉ができ、ノンケができないのか。僕と一緒にいた伏見憲明氏は、ゲイには「快楽の共同性」があるからだと言います。差別される弱者として強いられた状況から生まれた共通感覚で、それがあるから〈祭り〉ができると。強者であるノンケの連中は、性的嗜好の分散度が上がって共通感覚どころの話じゃない。とすると重要な逆説が出て来ます。ゲイが「力」を獲得し、ノンケと同じようなポジションを獲得した場合、〈祭り〉はどうなるか。もちろんできなくなる。それでいいのか。そういう問題ですね。
【江川】抑圧がないところには、何も生まれないっていうことだな
【宮台】そう。「力」を獲得すると「美」が消えてしまう。そこで岡倉天心の話になるんだけど、『東洋のめざめ』における「アジアはひとつ(The Asia is one)」という観念はそういう「美」に関わるんだね。「力」は文字通り列強の軍事力。それに屠られる弱者らの共通感覚が「美」。アジアを歴訪して多様性を知り尽くしていた彼のこと。我が師・廣松渉の「西洋的アトミズム」に対する「アジア的関係主義」と同じで、天心のonenessは「力」の脅威を前提にしたネタで、さほど積極的なものじゃない「列強の力に抑圧されたる弱者は、美によって連帯し、力の獲得に向けて頑張れ」みたいなアジだと思えばいい。 でも「美」がその程度のものでしかあり得ないからこそ、「力と美」の逆説が生まれる。逆説は二つあって、両方ともアジア主義の顛末に表われてる。第一に、「力」を獲得したら「美」はどうでもよくなるんじゃないか。石原莞爾的に言えば日露戦争後の堕落への道であり、三島由紀夫的に言えば戦後復興以降の堕落への道だね。これは先のゲイの〈祭り〉の問題に関わるだけでなく、在日コリアンや沖縄の人たちも、単に日本人化・本土並み化して「力」を獲得するだけでは、「力」なきことと表裏一体の共通感覚、すなわち「美」を失うのではないかという問題を、意識するようになって来ているわけよ。 じゃあ「力」の獲得にもかかわらず「美」を維持する道はないか。ある。「力」を獲得した後も自分を「弱者」として規定し続ければいい。でもそれこそ、岡倉天心的な「弱者の思想」だったアジア主義が、帝国主義的大陸進出の翼賛思想に成り下がるプロセスだよ。出発点では日本は弱かったから、「力」なき存在たるがゆえの「美」を押し立てて自己鼓舞して良かった。しかし欧米列強に肩を並べる「力」を獲得するに至っても、相変わらず自らを弱者と規定して「美」を主張。五族共和から大東亜共栄圏へと変質する。そこでは「美」が、「力」だけ求める田舎者の帝国主義者を、翼賛する装置として機能しちゃった。これはアジア主義の本義と異なる。松本健一や廣松渉は、この顛末がアジア主義の思想的弱点に基づくものだと解釈してて、アジア主義が戦後タブーになって思想的弱点を究明できなくなったと言う。僕はそうは思ってない。そこにあるのは、特定思想の弱点ではなく、「力と美」をめぐって歴史的に反復する逆説の構造的パターンだ。だからパターンは国境を越えて反復されている。イスラエルとアメリカを見よ。アメリカは百四十年前までは家族友人同士で殺し合いをしていた国。そんな彼らが、なぜ星条旗の元に結束するのか。
【江川】自分たちは弱者だと思っていると。
【宮台】そう。そこには「強国になった弱者」の問題が露わだよ。もう一つアメリカには、黒人やマイノリティーが挙って星条旗に忠誠を誓う「強国の中の弱者」の問題もある。こちらも水平運動と国粋主義的動員・アジア主義的動員の関わりとして、馴染み深い問題だ。いずれにせよアメリカはアングリカンチャーチや独立戦争や米英戦争や米西戦争を思い出して「自分たちはやられる」と思い込む。イスラエルも似てる。イスラエル人は、第一次中東戦争を、ホロコーストを、キリスト教徒のユダヤ迫害を思い出して「自分たちはやられる」と思ってる。でもイスラエルもアメリカも今やダントツの「力」を持つ強者じゃん。にもかかわらず弱者だった時代の感情的な共通前提の下、結束して立ち上がっちゃうの。
【江川】弱者である記憶が、死を恐れない「美」的行動に向かわせると。
【宮台】そうです。それが今、世界中で大きな問題を引き起こしているわけです。
【江川】人間の弱さが、問題を起こすということですか。でも、要するに、精神の弱さを美化しているだけでしょう。
【宮台】勘違いを、精神の弱さと言うならね。でも維新後三十年間の日本は実際にヨワヨワだったし、アメリカもイギリスやスペインに対して弱かったし、イスラエルだって第一次中東戦争までは弱かったわけですよ。だから弱者としての共通感覚には根拠があるよ。
【江川】その後強くなっても、まだ自分たちは弱いんじゃないかと勘違いしている、その精神の弱さはありますよね。太平洋戦争の時の日本だって、ある意味では、本土だけで防衛する方法だってあったけど、あえて大陸に進んだのは、やっぱり自分たちがまだ弱いと思っているから、出先で戦わないと危ないと思ってしまった。その自信のなさがどんどん拡張していったっていうのはあるでしょうね。
【宮台】実は運動組織にもありがちなパターンでね。社会問題を解決するべく弱者が結束して組織体を作る。社会問題が解決したら運動組織をバラせばいい。でも寂しいからできない。そこで組織の共同性を継続するべく、自分たちは弱者だとの意識を正当化する問題を是が非でも探そうとする「逆立ち」が起こる。自称フェミニストにありがちな(笑)。そこには「自分たちは弱い」という意識なくして継続できない共通感覚や、それに基づく共同性の問題があるわけ。それを自覚できない頭の悪さを、精神的弱さと言ってもいい。
【江川】俺は、頭の悪さと精神的な弱さって表裏一体なところがあると思うんですよ。強くなると頭がよくなる。その強さは、実は、普通にいう強さではない。怖いっていう恐怖感のない、いつも冷静に物事を考えられる強さっていうことなんだけど、その強さを持っていれば、頭もよくなるわけであって、裏表なんですよ。強ければ頭がよくなるし、頭がよければ強くなる。
【宮台】だからこそ僕は、自分たちが強者になった現在に引き付けて「力と美」の問題を考えていきたいわけ。ゲイ&レズビアン運動の今後を見ても、単に「力」を獲得するだけでは「美」を失うでしょう。そこで考え方が二つある。一つは「美」のためには永久に「力」を獲得しないでおこうという考え方。でもこれは「力」の弱い者に「美」というガラガラを与えて「これで満足しとけ」という抑圧思想と表裏一体で、選択肢として現実的じゃない。少なくとも誰が言うかが問題で、「本土並み化は間違ってるよ」は沖縄人が言えても僕が言えば抑圧になる。もう一つは、「力」を獲得したにもかかわらず「美」的共同性を維持できる工夫をしようという考え方。反面教師になるのがアメリカやイスラエルやアジア主義の顛末。すでに強くなったのに、弱者妄想にこだわる悪い例が目の前にあるわけですよ。「力」を獲得しても下手に「美」にこだわると、アメリカになってしまう。
【江川】「美」にこだわるっていう言葉は紛らわしくないですか。
【宮台】だったら「美」という言葉を使わなくていい。身を立てる精神的よすがと言ってもいい。それがなければ自分たちは正当性を失い、物語を失い、他と入れ替え可能になってしまうもの。そういったものを弱者は絶えず要求する。たとえばアメリカでムスリムによるテロが起きたよね。モハメド・アタは語学堪能でハイテクに通じ、近代の恩恵を享受できた。にもかかわらず、西欧近代化の過程で屠られ、グローバライゼーションの中で屠られつつあるムスリムの共同性の側に身を置いて立ち上がる。主観的には明らかに美学的な振る舞いとして解釈されていたはずだよ。オウム信者たちだって同じです。そういう美学的解釈は、弱者としての自己規定と一体なんだな。かつて日本にだってそういう時代がありました。ただ日本の場合、強者になった旧弱者が、アジア主義から国粋主義という似而非ナショナリズムへと転じました。黒龍会も玄洋社もそう。そこでは思考停止的な万歳突撃の「国粋」と、子々孫々の繁栄を極限まで考える「愛国」との乖離も生まれたわけ。そこで『ヤプー』に戻れば、沼正三さんはまったく逆のパターンなんだ。強者が「力」を獲得しようという志向を自発的に放棄したらどうなるか。その帰結を肯定しようということじゃん。こりゃ強烈。江川さん的に言うと、真の「強さ」とは何かということでもある。
【江川】『ヤプー』には、真の「強さ」が書かれていると思いますよ。
【宮台】その通り。「負けても詩があればいい」と言った保田與重郎の敗北主義とは違う。負け「ても」じゃなく、負け「ろ」だもん(笑)。振り返れば、なるほど、弱者でありつづけないと「美」的共同性を失ってしまう。だからといって単に「力」のなさを正当化すれば、先の「弱者慰撫思想」になってしまう。とはいえ、「力」の獲得後も「美」を保全するべく弱者としての自己規定を存続すれば、アメリカのようなアホになってしまう。だとすれば、どうすればいいか。それを考えるために今こそ『ヤプー』が読まれるべきです。
【江川】第三の選択が考えられるということですか。
【宮台】そう。「弱者慰撫思想」に陷らず、アメリカのようにもならず、「美」を保全するにはどうすればいいのか。そのヒントが『ヤプー』を読むことで得られると思うんだ。
【江川】つまり自分でわかりつつ、あえて自分から弱者になろうと。しかも自分が消えてしまわないだけの存在感を強者に与えながら、弱者として存在する。強いのにわざと弱い振りをする。
【宮台】本当は強いのに「自分は弱い」と思い続けるのでなく、逆に「自分は強い」と確信しながらあえて弱い振りをする。やっぱり僕は、沼正三が『ヤプー』を書きはじめた時代もあるんだけれど、『ヤプー』をアジア主義の陥穽を克服するための重大なる思想的なヒントとして読んでしまうわけよ。そんなことを言った奴は他にはいないけどさ(笑)。
【江川】この前僕も、共同通信の記者に、そういった話をしましたよ。
【宮台】江川さんや僕がわかっているのに年長世代はどうしたんだ。もちろん、戦後タブーになったものが多すぎ、健忘症が「病膏肓に入」ったのが大きい。アジア主義も人物研究を除いてタブーになったままだし、岡倉天心の「力と美」と言っても「はー?」ってな感じでしょ。でも今、なぜ『ヤプー』を読まなければいけないのかを考えると、どうしてもそういった問題に突き当たる。アジア主義の本義とは何か。第一に、このままじゃ列強にやられるから近代化は必須である。第二に、単に近代化するだけでは従属的かつ入れ替え可能な場所になる。第三に、列強にやられず、かつ入れ替え可能な場所にならないためには軍事経済ブロック化する必要がある。とりわけ第三の点に関わって、弱者の結束をめぐる「力と美」の逆説が問題になり、これに無頓着だとアジア主義は悪魔の思想になるわけ。これはアジア主義の弱点というよりも、アメリカやイスラエルを見ても分かるが動機形成をめぐる構造的パターンなんだな。それを考えるヒントが『ヤプー』の中にある。江川さんも言ったけど、強者が主体的に弱者でありつづけるっていうのは、すごい選択でしょう。
【江川】最も弱き者が最も支配する世界なわけですよね。ヤプーが、この物語の世界の中では支配者であって、最も大人なんですよ。その大人が一番下のところでウンコを食って生きている、それがマゾヒズムの究極なわけですよ。
【宮台】確かに究極なんですが、魯迅の『阿Q正伝』のように単なる「弱者の精神的勝利法」だと揶揄されないためには、現に強者であることを証明できなければいけない。
【江川】でも、この作者は日本人であり、その世界をあえて作って見せているわけだから、強者ですよね。
【宮台】歴史的にも、当時の日本を考えたって、現に強者でしたしね。
【江川】結局、作品自体の中での「強者―弱者」じゃなくて、この作品をあえてその時に書いたっていう事実が強者の証左じゃないですか。
【宮台】そうです。読者も「『あえてする弱者』たることこそ強者の証なり」っていう『ヤプー』的なパラドクスを理解することが、天皇制の記述への理解も含めて、重要ですよね。
【江川】マゾヒズムの究極は、実は最も心が広く、最も強くしなやかで、そして頭もいい。そういう存在だっていうことですよね。それでいて、世界を下から支えている。
【宮台】そういう存在は日本では誰だったかということです。繰り返すと、「負けても詩があればいい」といった日本浪漫派的な敗北主義はアホで、『ヤプー』から見たアジア主義の本義は「わざと負けよ」となる(笑)。それに近いことを述べた存在は誰だったか。
【江川】負けてから、「わざと負けた」って言ったら駄目なんだな。
【宮台】敗色濃厚なときに「負けても詩があればいいじゃないか」なんて、どう考えたって田吾作の糞思想でしょう。だから保田與重郎はダメなの(笑)。
【江川】宮台さんの使う用語は、俺のいつも使う言葉と違うから、話をどう噛み合わせたらいいんだろうって思うところもあるんだけど、多分言ってることは同じだと思うんだな。
【宮台】そう思う。だから最初の話に戻るけど、麟一郎の顔が強者のようでもあり、弱者のようでもあるような、微妙なあわいを感じた瞬間、「あっ、江川さんはすべてわかってるな」って思って、僕は嬉しくなったんですよ。これがハンサムな強者だったりしたら台無しだもん。日本性のシンボルじゃなくなっちゃって、絵が主題を裏切っちゃうからさ。
【江川】それは当然意図してますよ。今の日本人とか一九六〇年代の普通の日本人ではなくて、明治時代、あるいは幕末にいた勤皇の志士あたりからひっぱってきてるから、この顔は。
【宮台】そこまで研究してるんですね。本当に感服しますよ。
【江川】『日露戦争物語』でも、高杉晋作の顔を見ながら描いてるし、明治の人の顔つきは、頭にすごくインプットされているんですよ。しかも麟一郎は柔道をやっているわけじゃないですか。まさに広瀬武夫がロシアに行って、柔道で相手を投げつけたっていう話とシンクロしていて、江戸に生まれて明治に生きた人たちの気概を残している麟一郎であるべきだと思っているんですね。
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