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某ベンチャービジネスを経営している社長が、当方の著作である、『国民性変革のために、「思い切って日本語を捨てる日」−日本人の国民性では駄目だ!』に多大な関心を示してくれた。彼は三菱重工などと入札で競争して負けないアイデア企業で、政府の役人根性、国民性と戦ってきた歴戦の勇士である。その彼が賛同するのも当然だろうし、そうした経験者しか理解できないのも真実であろう。その中で、彼が「日本人の国民性では駄目だ!」に関して、最も同意・賛同し共感・共鳴した点は次の箇所だった。
「 多くの日本人有識者が言うように、西洋式の善悪二元論や中国式の陰陽二元論を誤りだとして否定、排除し、二者択一式に日本的な曖昧さが良いとするのは、根本的におかしな論理であり行き過ぎでしょう。両者が何時までも対立概念でいくという考えは是正すべきであり、今後は、両者の融合、調和の概念でいくべきであるのは当然であり、当方もそれに共鳴するものです。しかしここはやはり、両極端の二元論を明確に分析した上での融合や調和でなければなりません。最初から両者を否定し排除しては、結果的には曖昧模糊になってしまい、正しい中庸、中庸の真理が分からなくなろうというものです。
融合とはあくまでも、両極端を対立・対峙させて理解し把握した上での統合なのであります。即ち、両極端が如何なるものかを認識し理解せずに、曖昧模糊として明瞭厳密に判断区別しないうちは、真の中庸・中道の理解も有り得ないだろうと思います。従って、単純な二元論否定や排斥の論理では、正しい結論が導かれないのではないでしょうか。日本人が哲学的論理の組み立て思考が出来ないのも、案外、こういう点にその原因があろうかと思います。」
以下はその箇所の項目の全文である。
● 曖昧な日本語では真理に迫れない
日本語には、西洋的善悪二元論を排し、また東洋的陰陽二元論を排し、融合や調和の日本精神を醸成しているのだという見解もありますが、これは換言すれば、白黒や善悪、是非、諾否などを曖昧模糊にして、あらゆる対立概念を封印して捨象し、一見して和の精神を強調するものであり、ある意味では一切の批判を封じて、今日の横並びの画一的で無責任体制を形成してきたと言えるでしょう。由らしむべし、知らしむべからずの役人根性の源泉でもあり、批判しない、批判出来ない、批判させない、の日本人の国民性が、「まあまあ、なあなあ」の、白黒や勝敗をはっきりさせない喧嘩両成敗の社会を形成して来たと言えるでしょう。これまでの日本人同士の社会においては、あまり問題も表面化することもなく来たものでしょうが、当方から見れば、その考え方が、怨念や嫉妬や妬みが鬱屈し潜伏し隠蔽されて、卑屈で卑怯且つ無責任な国民性を形成してきたように思います。
多くの日本人有識者が言うように、西洋式の善悪二元論や中国式の陰陽二元論を誤りだとして否定、排除し、二者択一式に日本的な曖昧さが良いとするのは、根本的におかしな論理であり行き過ぎでしょう。両者が何時までも対立概念でいくという考えは是正すべきであり、今後は、両者の融合、調和の概念でいくべきであるのは当然であり、当方もそれに共鳴するものです。しかしここはやはり、両極端の二元論を明確に分析した上での融合や調和でなければなりません。最初から両者を否定し排除しては、結果的には曖昧模糊になってしまい、正しい中庸、中庸の真理が分からなくなろうというものです。
融合とはあくまでも、両極端を対立・対峙させて理解し把握した上での統合なのであります。即ち、両極端が如何なるものかを認識し理解せずに、曖昧模糊として明瞭厳密に判断区別しないうちは、真の中庸・中道の理解も有り得ないだろうと思います。従って、単純な二元論否定や排斥の論理では、正しい結論が導かれないのではないでしょうか。日本人が哲学的論理の組み立て思考が出来ないのも、案外、こういう点にその原因があろうかと思います。
さて、本来の日本語には、意思の伝達における正確さや迅速性には問題が多いことは確かでしょう。今や、問題分析や自己主張における日本語の語彙の少なさや、主語のないこと、以心伝心で事足りるとする曖昧さが最大の欠点、欠陥でありましょう。後述するように、今や口と心を違えて、言った言わないの二枚舌の言動が蔓延し横行する無責任時代でありますが、世界的には、正に意志や意見、見解や立場を表明する際に、正確明瞭性や迅速的確性、自己責任性などが重要視される時代です。情緒的な曖昧模糊とした言動では、もはや、グローバル化時代の要請に合わなくなってきたことも否めません。
後で指摘するように、当方の恩師であられた聖心先生も、今や日本語の有する柔らかい語感は曖昧さに繋がる、これが意思伝達の不備や無責任になり、国際的な外交交渉にも著しく支障や弊害をもたらし、個人間の対話にも障害を及ぼしつつあると言っておられました。聖心先生は、身命を賭して深淵で崇高な大宇宙の真理を解明され会得されたものですが、それを後世に伝えるべく言葉に表現して書き残していくに際しても、実に漢字・漢語でこそ、初めて真理を正確に表現することが可能であると話されており、厳密な意味内容を表現できる漢字や漢語の偉大さを強調しており、その言葉からも、平仮名和語の本来の日本語に比べて、漢字・漢語の厳密性は高く評価できるものであります。
例えば、「いのり」でも、打算や売名、利欲の願望や欲望の結果である魔と通じる「祈願」と、自己の心魂を無心、無我、無欲の境地で発信する「祈念」とを厳密に区別されたり、また「われ」でも、我欲、我執、我慢に満ちた「我」と、解脱、悟覚、悟道に達した「吾」とを厳密に区別したり、更に「しる」とは言っても、「知、識、織」などのように、通常一般的事象の「知る」と、現世における現象の「識る」と、更には肉体を離脱し大宇宙に挑然(目的意識を有した挑戦ではなく、自然の心で挑むという意味)した際の事象である「織る」との差違に際しても、漢字により厳密に区別されていたのであります。平仮名大和言葉の「いのり」「われ」「しる」などでは曖昧性をもたらすものであり、大和言葉では真理の正確な表現には不適切であったようです。
また聖心先生は、かつて歴史上、何処にも存在しない漢字を創造されて、真理の意味を厳密に区別し解明されていたのであります。例えば、神仏の概念を区別するために、真と神や仏(佛)とを組み合わせた文字や、犭(けものへん)に神や仏(佛)とを組み合わせた新たな文字を創造し、また身と心との組み合わせなどの文字で、実に真理を解明し表現するために様々な造語も生み出しております。また、大宇宙の法則、真理、哲理、摂理などを表現するためにも、正しい意味を現すべく、注意深く漢字、漢語を使用しておられます。これらを考えても、実に漢字や漢語には、大和言葉では表現できない奥深い意味合いを感じさせるものであり、漢字や漢語は不可欠であるように思います。因みに、「つくる」でも、作る、造る、創る、工作、建造、創造などがあり、「思う」や「考える」を見ても、実に省察、考察、推察、洞察、思考、思惟、思想などがあることでも解るでしょう。なお英語でも、漢字に相当する語彙が一言一句に対応してあるようですが、それでも哲学的な語彙に関しては、漢字の世界ほどではないようです。万一、漢字・漢語の深遠で高邁な意味を英語で表現するとしたらとても不可能でありましょう。例えば、空、無、色、識、阿吽などは、英語ではなかなか表現できにくいものであるのも確かです。
それでも、聖心先生は、自ら肉体を超絶して体験された大宇宙の絶対的な摂理や哲理、真理に関しては、どうせ誰も関心や興味すら示さないどころか全く理解できない故に、また日常生活においてもさほど必須でもなく、そのような意味、内容の崇高さや深遠さ、高尚で高邁な意味は、概略的に理解できれば良いのであって、その為の漢字や漢語、そして日本語である必要もない、むしろ現在や将来における言語の価値は、世界性、意思伝達性、迅速性、正確性、明瞭性などの要請の方が優っているのだとも言われました。
実際に、精神、意識、心、霊、魂などは、有識者を始め日本人の多くが、概念的にも理念的にも何も理解できていないように思われます。英語でも同様に、spirit、mentality、consciousness、perception、mind、spirituality、soul、heartなどの様々な表現がありますが、同様に詳細な区別は理解できていないように思います。そうならば、新しく定義した真の意味を、日本が世界に向けて表明していけばよいのではないのかと思います。それに深遠で崇高な理念や理想などは、哲学や思考、思索、研究のものであり、日常会話や意思伝達には無縁であり、大して役立たないことも確かです。聖心先生も、崇高な理念や理想よりも、意思伝達手段の道具としての正確で明瞭、迅速な言葉の根本的在り方として、また正邪、勝敗、白黒、善悪、真偽を明瞭にする、信義、正義、責任を有した国民性を形成するものとしての言語の在り方として、日本語の限界、不備、欠陥などを指摘していたものです。
万一、日本語を手放したら、日本の良い文化が全て消滅してしまうというものでもないように思います。あたかも、着物や下駄を捨てたら、日本人ではなくなってしまうのではないかという見解にも似ているものと思います。日本文化とはあくまでも本質的な精神的な真髄的なものを言うのであり、服装や言語などの外見的なものではありません。オペラの蝶々夫人も、外国語でやったのでは、日本文化ではなくなるものではないでしょう。日本文化の本質とは何であるのかを、今一度、根本に立ち返って考えてみることでしょう。
当方自身は何も平仮名の本来の日本語、そして漢字や漢語を導入した後の、改良発展した日本語の長所を全く否定するものではありません。ただ問題とするところは、その長所が別の面では短所となってきたということです。正に長短が表裏一体であることはよくあることであり、当方もその辺の調和をどうするかで大いに迷走していたものです。当方自身も色々と文章作成の感覚を身に付けていくと、周囲と対話の曖昧さで摩擦を引き起こすことも度々発生しております。日本語に関しては、その曖昧さ故に柔軟さもありますが、これは逆に見れば、意味不明、不鮮明、曖昧、無責任に繋がっていくものです。
今や国民性形成の背景や原因に、あらゆる法制度が関係していたり、西洋物質文明や東洋中華文明に犯された狂信的一神教や無神論、そして肉食などの食事にも大きく関係していると思われます。しかし他方では、日本式住居や日本食自体は大いに評価できるとは言うものの、日本人自身が古来使用してきた日本語自身が、漸くグローバル化時代を迎えて、欠点が露呈し限界に来ており、日本人自身の国民性の堕落崩壊に拍車を掛けつつあるということでしょう。即ち、環境の変化により、長所を大きく逸脱・脱線して、その良識の範囲を大きく越えて欠陥が表面化してきたということでしょう。特に日本人社会は、指導者階層から国益観や国家観、そして公共道徳心が欠乏し、無責任で利己的に堕落して腐敗してきているのも、往々にして、曖昧で意味不明で無責任性を醸成し、迅速性に欠ける日本語の感覚を駆使して国家社会を指導し、世界と対峙しているからでありましょう。
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