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□「血が穢れている」覚えてます? 本棚■でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相 [踊る新聞屋−。]
・でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相 (単行本)
福田 ますみ (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4103036710/asyuracom-22
http://t2.txt-nifty.com/news/2007/05/post_7b53.html
2007年5月11日 (金)
[book][本][media][教育]「血が穢れている」覚えてます? 本棚■でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相
「アメリカ人の血が混じっているから血が穢れている」「お前は生きている 価値がない。早く死ね」といった暴言、「ミッキーマウス」と言っては体が浮きちぎれるほど耳を引っ張ったり、「ピノキオ」と言っては血が出るほど鼻をつまんで引っ張り回すような体罰。
2003年6月、朝日新聞が「曾祖父は米国人 教諭、直後からいじめ」と取り上げ火がついた福岡市小学校での「殺人教師事件」。その後、週刊誌やワイドショーが大々的に取り上げたので、覚えている方も多いでしょう。処分が停職6月で、「軽すぎる」と世論も沸騰しました。ただ、その後の経緯は、地元以外ではほとんど知られていないでしょう。
結論から言うと「事件」は、いわゆるモンスター・ペアレントの虚言と妄想に、学校やマスコミ、弁護士が踊らされて繰り広げられた茶番劇だったようです。
<教師のいじめだったのか、教師へのいじめだったのか? 保護者の虚言が「史上最悪」のいじめ教師を生んだ>=帯より。
福岡ではこのころ、中学校で生徒をイチゴやジャムに例えてランク付けしたり、暴言を吐いた教師の言動が発端で自殺したとの事件が起きたり、教師の体罰が原因で小学生が自殺したとの事件があって紛らわしいのですが、それとはまったくの別件です。
本書は、騒動の発端から、「被害者」とされる児童保護者が損害賠償を求めて市などを訴えた民事訴訟までを、主に「殺人教師」の汚名を着せられた教師の視点から検証していきます。
その点で、視点が隔たっている、主観的すぎるという批判もあるでしょうが、皮肉にも、保護者が起こした民事訴訟がある程度の客観性を担保しています。
最終的に5500万円まで膨れあがった損害賠償請求訴訟の一審判決は、2006年7月。ここで、原告の主張はほぼ一蹴されます。
この訴訟の原告側弁護士は550人。福岡県弁護士会所属弁護士の3分の1。対する被告教師はなかなか弁護士が見つからず、この模様は「第三章 550対0の不条理」で描かれています。
判決は被告福岡市に220万円の支払いを命じたものの、その他の請求はいずれも棄却。事実認定が甘いと言われる民事訴訟で、福岡地裁は人種差別発言やPTSDを否定。そもそもの前提である「アメリカ人の血が混じっている」こと自体、原告の虚偽であることが明らかとなり、途中で原告自ら削除しました。訴訟の過程で明らかになった原告主張の矛盾や変遷を、著者は的確に提示していきます。
体罰や差別的言動があったと一部認定されたものの、これは市教委が懲戒処分していたことを受けたためで、事実上、原告完敗と言っていい内容でした(本書によると、2007年1月、控訴審が始まりました)。
余談ですが最近、PTSDがやたら乱発されているような風潮に違和感を覚えていたのですけど、<東邦大学医学部佐倉病院精神医学研究室の黒木宣夫助教授(略)は、PTSD診断が拡大解釈される最近の傾向に警鐘を鳴らし、その認定に当たってはより厳密な診断が必要であると主張=p212>という論があることに少し安心した次第です。
こうした経緯を検証しつつ、本書が他のノンフィクションより際だっているのは、「偽善者たちの群れ」と題した終章です。
ここで著者は、この報道に関わった記者の実名を挙げ、逆取材します。なぜ、あんなヒステリックな報道になったのかと?
これは非常に画期的です。と言うのも個人的にいまの発表ジャーナリズムと集団リンチ、一過性検証なしの典型ような「犯罪報道」には非常な違和感を感じているのですが、もう何年も前から問題視されつつ、改善への歩みは亀のよう、もう記者個人の責任を問わないと、変わらないのではないかと思うこともしばしばだったりするからです。
かと言って、私はこうした記事を書いた記者を責めるつもりはなく、むしろいつ自分が同じことをしないか、同じことをしたことがあるのではないかと、むしろ恐怖を感じます。
冷静に振り返れば、尋常ではない差別発言や体罰を聞けば、まず「ホントかいな?」「きっちり取材しないとダメじゃない?」と思いそうなものであるのですが(もっとも、尋常ではないから大ニュースになるですけど)、仮に自分が取材者であれば、校長が体罰(程度は別として)を認めていたこと、市教委が全国で初めて教師によるいじめと認定したこと、医師が会見までしてPTSDを断定していたこと、これだけの事実があればもう十分です。
しかも、他紙が独自の形で大きく報道していれば、多少それを否定する材料が手許にあっても、「殺人教師」路線で記事を書いたのはほぼ間違いないでしょう。
冷静な目でディテールを積み重ねる、とにかく取材だ、と言うのは簡単ですが、パニック情況、思考停止情況になっている時、実はこれが一番難しいものです。大きく抜かれるとなおさらで、とかく雰囲気に流されてしまうもので、そういう意味では、記者個人の責任を問うより、これは報道の構造的な問題であるのですが。
さて、著者はこうした情況を、<子供は善、教師は悪という単純な二元論的思考に凝り固まった人権派弁護士、保護者の無理難題を拒否できない学校現場や教育委員会、軽い体罰でもすぐに騒いで教師を悪者にするマスコミ、弁護士の話を鵜呑みにして、かわいそうな被害者を救うヒロイズムに酔った精神科医、そして、クレーマーと化した保護者=p249>が寄ってたかって一人の教諭を「史上最悪の殺人教師」にでっち上げた、と総括します。
まま、「人権派」という表現に「新潮45」(著者はもともと、同誌の原稿のために取材に入った)らしさがあって、そう呼ばれる弁護士に「人権派」と自称する人はほとんどいないのですけど。
それはさておき、それだけに著者の取材力というか、冷静な視点に感嘆してしまいます。同時期、著名で立派な仕事を多く残している週刊誌記者も取材に入ったのですが、その方は「殺人教師」を煽るようなトーンの記事を書いているだけに、それはなおさらです。
本書はもう一つ、いまの教育現場が抱える問題の一つを示唆しています。それは、倒錯した事なかれ主義。
学校や教委の隠蔽体質、事なかれ主義が指摘されて久しいですが、そんな中、この教諭が訴訟の意見陳述や著者の取材に<今の時代、残念ながら、担任と保護者の関係では、担任の方がものを言えません。その意味では、学校は特殊な社会かもしれません。=p208><「保護者と教師は同等じゃないですよ。教師の方がなにごとも一歩下がって対処しないとうまくいかないんですよ」=p229>と述べているよう、一昔前の学校にあった権威主義と比べれば、いまの学校は善くも悪くも保護者の声に耳を傾けるようになったことは事実だと私も感じています。これを持って「規範意識が低下した親」が増えた、とか「モンスター・ペアレントの増殖」といった単純思考に与するつもりはありませんが、それはともかく、では、それで学校現場などの隠蔽体質や事なかれ主義が改善されたかというと、そうではないのです。
<また、こうした事件が起こるたびに問題となるのが学校や教育委員会の“隠蔽体質”だが、この点でも川上(=殺人教師にされた教師。仮名)の事件は異質である。学校や教育委員会が、実にあっさりと教師によるいじめを認定しているからだ。だがこれは、保護者やマスコミに必要以上に迎合した末の、逆の意味での真実の隠蔽である。=p253>
教育現場の体質が変わらないまま、形式だけ変えても、問題解決にはならないということでしょう。
もちろん、説得力があるとは言え、あらゆる表現が主観に依拠する以上、同書の指摘に反論もあるでしょうし、同書が提示した事実がすべてではないでしょう。ただ、当初は饒舌だった保護者は以降、ほとんど取材を受けていないようです。
ちなみに、「殺人教師事件」で踊ったのは、何も弁護士やマスコミ、医師だけではありません。
googleで「福岡 いじめ教師」と検索すれば、この有様です。
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GWYA,GWYA:2005-39,GWYA:ja&q=福岡 いじめ教師
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