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フリーメーソン作家の加治将一氏の新著 『幕末維新の暗号』
http://www.asyura2.com/07/bd49/msg/131.html
投稿者 野田隼人 日時 2007 年 5 月 13 日 16:35:29: rgym1W9ZU3nMk
 

最近刊行された加治将一氏の『幕末維新の暗号』(祥伝社)に対して、慶應義塾大学の高橋信一准教授と、ブログ[教育の原点を考える]のオーナーであるサムライさんが書評をブログに載せています。以下は高橋准教授の書評です。その他のフルベッキ写真についての記事は以下のサイトが参考になります。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/cat4229856/index.html


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小説「幕末維新の暗号」の検討結果

慶應義塾大学 准教授 高橋信一

(1) 私がブログで論じたことを出展の引用をしないで、盗用している。平成18年4月8日に加治将一氏に呼ばれて大崎のホテル・ニューオータニ・イン東京で会合し、私の資料のコピーを渡し、いろいろな説明をした。その内容が、登場人物の名前を変えて随所に使われている。それ以後更新されたブログは踏まえていない。加治氏にはブログの最新版を精読することを強く薦める。
p.32・・・「フルベッキ写真」流布の経緯。
p.39・・・「四分の一が悲劇に見舞われた」の記述。
p.46・・・ここの記述もブログを踏まえたもの。
p.79・・・「オリジナルの存在について」の記述。勝手な引用が他にも多数ある。

(2) 空想を論じるのは自由である。しかし、それをもっともらしく見せるために、記録が残っている史実をねじ曲げてよいはずがない。

(3) 偽説を唱える人たちの常として、いつも最初に出てくるのは、「写真に写っている人物がこれこれであるから、撮影はこれこれの年だ」といういい方である。この本は一貫して、その姿勢で書かれている。しかし、似ていても、別人である可能性はいくらでもある。主観に基づく人物の同定は極めて難しく、慎重に行われなくてはならない。簡単に決め付ける前に、証拠を上げて論拠を説明すべきである。古写真を観察する際に常に必要なのは、人物如何に関係なく、その写真がいつ撮影されたかということを出来得る限り厳密に説明するべきだということである。最初から判断が間違っていれば、結論が正しいはずがない。

(4) p.47・・・「彦馬の子孫・・・」はまったく根も葉もない為にするものである。感情的な攻撃の前に上野一郎氏が間違っている証拠を一つでも上げて論証すべきであろう。それをやろうとしないのは、上野氏の研究を否定しないと偽説の立つ瀬がないからである。

(5) p.55・・・「石畳の通路・・・」は元々この場所にあった家屋を壊した名残であろう。広い写場についての記述は私の最近のブログに書いたように、昭和9年に永見徳太郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のものであることがわかる。明治4年にベアトが朝鮮出張の前後に長崎で撮った写真にもその様子が写っている。「Felice Beato in Japan」参照。この写場が上野彦馬のものであることは明治3年4月26日に撮られた「毛利元徳と木戸孝允ら」の写真から確認出来る。「写真の開祖 上野彦馬」参照。撮影日は「木戸孝允日記」に記録されている。

(6) p.60・・・「4,5歳に見える」なら、明治元年のエマでまったく差し支えない。外人の子供の男女の見分けは不可能である。

(7) p.79・・・島田隆資の論文をちゃんと読めば、「一ばん前列左はしは木戸さんか、岩倉さん」、「江副廉蔵は前列左から三人目」となっている。指している人物は木戸孝允と目される人物から数えて三人目でなくてはならない。江副家に残る若い頃の江副の写真からも、この人物の一人右隣りであることは明白である。尚、江副廉蔵は慶応3年12月29日に致遠館に入学したことが記録に残っている。慶応元年に入学した事実はない。撮影されたのは、慶応4年(明治元年)以降である。「岩松要輔 近代文明との出会い 英学校・致遠館」参照。

(8) p.81・・・「大隈重信」の対照写真は明治5年暮れから翌年初めにかけて、横山松三郎により、ウィーン万博出品のために撮影されたもので、同定に使うには後年過ぎる。中野健明の同定(p.149)に利用された慶応3年撮影の「佐賀 幕末明治500人」の口絵写真が順当なところである。それと比較すると月代が剃られていない点や、眼つき、あごの形など明らかに別人である。「フルベッキ写真」の人物は額に凹凸があるが、大隈にはまったくない。古写真研究家の森重和雄氏が指摘したように、「写真の開祖 上野彦馬」所載の人物の方がよく似ている。

(9) p.82・・・「済美館生徒とフルベッキ」写真に全員の名前が入っているというのは事実誤認である。ほとんどは広運館の教師たちであるが、一部氏名が不明になっている。長崎県立歴史文化博物館所蔵。

(10) p.107・・・「折田彦市」についても、私のブログの転用である。せめて、「一枚の肖像画 折田彦市先生の研究」を引用すべきである。尚、折田の周辺の人たちは、この人物の後ろの高杉晋作と目される人物だとしている。主観に頼る人物同定の限界である。

(11) p.133・・・「横井兄弟」の対照写真は慶応2年の留学前に上野彦馬の写場で撮られたものである。こちらも広い写場ではない。「陸奥宗光」参照。なぜ慶応元年に撮られた写真の方が月代を剃っていないのか?本物に見えるという主観の方が疑わしい。「日本のフルベッキ」でグリフィスが「フルベッキ写真」の説明をしていて、それを根拠に大隈がいると主張しているが、グリフィスはラトガース大学で長期間自分が直接面倒を見た横井兄弟や日下部太郎(p.410)が写っていると言っていない。岩倉具定兄弟以前に先ず名前が上げられるはずである。p.248に「グリフィスは大隈と入魂」と書いているが、大隈との面識や交友の記録は存在しない。「グリフィス・コレクション」を精査すべきである。

(12) p.148・・・「中野健明」に関しては、私のブログを訂正をしなければならないかもしれない。森重和雄氏の指摘によれば、明治5年ごろ米欧回覧で岩倉具視らと渡英した先で撮影された若い中野の写真(中野家寄贈になる東京大学史料編纂所 古写真データベース所蔵)を基にすると、岩倉具経の前に坐る人物の可能性がある。年齢とともに顔が大きく変化する人物の実例かもしれない。決め付けは厳に慎むべきである。

(13) p.230・・・「フリーメーソン」の関与を考えるには、もっと当時のメンバーの活動について明らかにする必要がある。名称だけを引き合いに出して何かを論じるのは妄想以外の何者でもない。幕末から明治にかけて来日した外人の内、誰がフリーメーソンに関係したかは、1864年に横浜に設立されたフリーメーソンのメンバー・リストで知れる。それによると、例えば、1867年にフェリーチェ・ベアトがフリーメーソンのメンバーになったことが知られている。「フルベッキ写真」とベアトの関係を解明してみせよ。「John Clark: Japanese exchanges in art, 1850s to 1930s with Britain, continental Europe, and the USA : papers and research materials」及び「Terry Bennett: Old Japanese Photographs」参照。

(14) p.247・・・「山中一郎」の対照写真は私のブログからの盗用である。

(15) p.249・・・「江藤新平」の名誉回復を目指した「江藤南白」のキャプションに江藤の名前がないことが、彼が写っていないことの傍証である。こちらに「フルベッキ写真」が使われたのは、江藤が関係した佐賀藩士を紹介するためでしかない。

(16) p.259・・・「フルベッキの長男」とキャプションされているのは「開国五十年史」でなく、大隈が関係していない「江藤南白」である。事情を知らない編纂者が子供を男子と見間違えたと考える。

(17) p.269・・・「鍋島直彬」の存在の仮説は私のオリジナルである。出展を明示しないのは、盗用である。彼が明治元年に長崎にいた理由は戊辰戦争に勇んで参戦しようとした直彬が鍋島直正から長崎警備を命令されたためである。通例なら、佐賀本藩の仕事であった。慶応元年の所在証明は別にする必要がある。

(18) p.274・・・勝手にトリミングされた写真に対角線を引くのは、何の意味もない。敢えてやるなら、カメラのレンズの焦点の位置を探すべきである。これはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」でも行われている。両サイドに写る板戸の水平線と、石畳のラインを延長した交点はフルベッキと子供の頭の中間に来る。イエス・キリストでも大室寅之祐の頭でもない。これは上野彦馬が撮影した集合写真全般に言えることだが、彦馬は常に中心人物からカメラの中心をずらして撮っている。むしろこの「フルベッキ写真」は中心が合っており、異常である。写場は彦馬邸であるが、撮影は他の人物を考えてもいい。

(19) p.288・・・「高杉晋作と伊藤博文」が長崎でグラバーにイギリス行きを相談し、時期が悪いと説得されて思い留まったのは慶応元年3月であり、完全な勘違いである。この間違いは後にも繰り返されている。上野彦馬の慶応元年当時の狭い写場で撮った二人を含む三名の写真が以下の文献に掲載されている。「伊藤博文伝」、「東行:高杉晋作」。

(20) p.350・・・明治政府が「天皇の写真」を囲い込み始めたのは、1872年1月に横須賀に巡幸した際にスチルフリードが撮影した写真をネガごと買い取ったことが始まりである。「John Clark: Japanese exchanges in art, 1850s to 1930s with Britain, continental Europe, and the USA : papers and research materials」参照。尚、私の最近のブログでは岩倉家に「フルベッキ写真」のオリジナルが存在したことを論証している。処分されたり、秘蔵されるようなものではなかった。単に流布しなかっただけである。「済美館生徒とフルベッキ」写真もオリジナルは流布していない。

(21) p.412・・・「森有礼」の留学記録は存在する。「森有礼全集」参照。彼は慶応元年1月に他の薩摩藩士と伴に鹿児島を出て羽島の船宿に潜伏、3月にイギリス密航を敢行した。密航者の本名と変名は分かっており、森が含まれているのは自明である。「薩摩藩英国留学生」及び「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」にそのリストと主だった密航者の慶応元年当時の写真が掲載されている。イギリスで撮影した集合写真も残っている。その写真をつぶさに検討すれば、「フルベッキ写真」に該当者がいるかどうかわかるはずである。誰もこれを検証しようとしない。

(22) p.415・・・「三条実美と岩倉具経」が写っているという写真は、明治2年8月に来日した写真家ブルガーが2週間ほどの長崎滞在中に撮影したステレオ写真の片割れであり、ステレオ写真のホルダーにはブルガーの名前が印刷されている。「サムライ古写真帖」参照。この写場で撮影が行われていたのは明治元年から明治6年の間である。それ以前の写真は存在しない。探し出すべきである。はっきり慶応元年と証明出来る写真があれば、偽説が真説になろう。明治2年のこの時期には、三条は東京におり、具経は兄具定と長崎で行動を伴にしていたはずである。なぜ三条や具経だと思い込んだのか。写真の内容も吟味せずに勝手な当て嵌めが行われた。

(23) p.416・・・下岡蓮杖にS.R.ブラウンの娘が写真術を教えたとしているが、教えたのはブラウン本人である。「S.R.ブラウン書簡集」参照。

(24) 全体として、これまで言われて来た俗説を掻き集めて来たもので、目新しい発見はない。似ている写真の当て嵌めに終始している。そのやり方も個人的な主観以外に何も明示されていない。密航者を含めた薩摩藩士の存在についてほとんど触れていないのは、可能性を論証出来ないためであろう。撮影日を絞り込むことが出来なかったことも含めて、文献調査や歴史の事実の探求が大幅に不足している。小説としているが、加治氏の意図が成功したとは言い難い作品である。


(平成19年5月5日)
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