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「木之本興三・Jリーグへの遺言」に見る川淵の人間性 [川渕企画.com]
http://www.asyura2.com/07/bd48/msg/552.html
投稿者 white 日時 2007 年 4 月 24 日 00:24:54: QYBiAyr6jr5Ac
 

□「木之本興三・Jリーグへの遺言」に見る川淵の人間性 [川渕企画.com]

■川渕企画とは?
弊社は、”なでしこJAPAN”に選ばれた若い女の子達が日本代表に選ばれて試合をしても収入が安定しないから、海外遠征の後もアルバイトのレジ打ちに精を出しているってのに、JFA会長・川淵三郎の嫁というだけで代表取締役になれ、な〜〜〜んにもしなくても日本サッカー協会をスルーした多額の講演会報酬が振り込まれてくるという素晴らしい会社とは関係ありません。

 http://kawabuchi-kikaku.com/2006/08/j.html

「木之本興三・Jリーグへの遺言」に見る川淵の人間性
日刊ゲンダイに連載された木之本興三氏の暴露的回顧録の転載です
長いですが必見の内容です。

■日刊ゲンダイ 2006.11.21付★1
木之本興三・Jリーグへの遺言?
労いの言葉もなく鈴木チェアマンから突然「辞めろ」と恫喝された  
日刊ゲンダイ 2006.11.21付35面

木之本興三、57歳。ドン底にあえぐ日本サッカーをプロ化することでよみがえらせ、Jリーグを成功に導いた男である。
これまでに2度、「死刑宣告」を受けている。26歳で難病にとりつかれ、将来を悲観して担当医に「殺してくれ」と叫んだ。
2度目は03年7月、53歳の時に愛してやまないサッカー界から「抹殺」されることになった――。
古河電工に入社して3年目、75年3月に運命の日を迎えた。26歳で「99%助からない。よくて余命5年」と宣告された。
「突然だった。朝起きたら強烈なめまいで起きられない。千葉大付属病院で“グッドパスチャー症候群”と診断された」 

〜《グッドパスチャー症候群》 肺と腎臓の基底膜に反応する抗体が血中につくられ、肺出血と腎炎が同時に起こる。国内症例は13例目。過去12例はすべて死亡している。〜 

「肺か腎臓のどちらかを摘出することになり、発症して3ヵ月後、6月25日に6時間に及ぶ腎臓摘出手術を受けた。その日から週に3回の透析を一生、続けることに。透析の前後の体の激変に耐えられず、数歩で極度の貧血。これで生きていると言えるのか。いつもそう思った。あの頃、好きだった作家・安部公房の本の一節に“夢のない明日よりも絶望の今日”とあった。当時の心境をピタリと言い当てていた」

腎臓摘出から5年が経った。
透析機器の精度が飛躍的にアップし、効果的な増血剤のおかげもあって、何とか日常生活が送れるようになった。

(つづく)


600 :U-名無しさん :2006/11/29(水) 06:24:20 ID:TONWfOhx0
■日刊ゲンダイ 2006.11.21付★2

発病して8年。83年12月、JSL(日本サッカーリーグ)事務局長に就任。
プロ化を協力に推し進め、Jリーグの常務理事としても辣腕を振るった。
02年4月にはNHKの人気番組「プロジェクトX」に「わが友へ 病床からのキックオフ」というタイトルで半生が取り上げられた。
02年の日韓W杯決勝トーナメント1回戦(6月18日)。トルシエ日本がトルコに0-1で敗れた日だった。
「右足の血管が“爆発”した。足先などの血行が悪くなり、壊死する難病『バージャー病』に襲われた。後日、担当医から“最悪、脚を切ればいいから。車椅子もある”と言われたが、さすがに難病に慣れていてもショックだった。入退院を繰り返し、03年7月24日に退院した翌日、Jリーグ理事長に鈴木チェアマン(当時=元鹿島球団社長)を訪ねた。突然、“今月いっぱいで辞めろ”と言われた。病気のことは何も聞かれず、ねぎらいの言葉もない。辞めろと恫喝された。元気だったら戦っていただろう。しかし、闘病生活に疲れ果て、体もガタガタで抵抗する気力もなかった」

結局、「自暴自棄になって辞表を提出した。こんな冷酷な仕打ちを受けるのはなぜなのか?辞表を出さざるを得ない状況に追い込まれた。もっとサッカー界のために働きたかった。無念の気持ちは消えない」

木之本は、鈴木チェアマンの背後に「大きな力を感じた」と話す。それは何を指すのか――。(つづく)

601 :U-名無しさん :2006/11/29(水) 06:24:57 ID:TONWfOhx0
336 : :2006/11/29(水) 00:08:31 ID:zQjmlzaW

■日刊ゲンダイ 2006.11.22付★1

木之本興三・Jリーグへの遺言?
一生逆らえない――心底尊敬した川淵さんから受けた冷たい仕打ち  
日刊ゲンダイ 2006.11.22付33面

75年3月。26歳で難病グッドパスチャー症候群に倒れ、両腎臓を摘出した。順風満帆の人生が大きく狂った。東京教育大学(現筑波大)サッカー部主将として古河電工に入社。サッカー選手としての未来もあった。サラリーマンとして仕事も順調だった。「新しい命」も芽生えていた。1月に同じ職場の広美と結婚。
妊娠3ヵ月だった。これまで国内で12例しかなく、罹患者全員の命を奪った難病が壁となって立ちふさがった。
捨て鉢になって「中絶させる。離婚する」「いっそ死んだ方がまし」と口走ることもあった。
「6月に手術を受けて1週間ほどして、川淵さん(三郎、日本サッカー協会会長)夫妻がお見舞いに来てくれた。川淵さんは古河電工に入社した時のサッカー部監督。あまりに変わり果てた姿を前に会話が進まなかった。すると『女房と一緒にドナー登録をしてきたぞ』って。びっくりした。当時ドナー登録を知っている人は少なかった。親も兄弟も思いつかなかったことを赤の他人がやってくれた。涙が出た。尊敬できる人に出会った、と思った。もう一生、逆らえない。心の底からそう思った」

それから28年後。今度は自分自身が、過酷な現実の前に立ち尽くした。
(つづく)


602 :U-名無しさん :2006/11/29(水) 06:25:29 ID:TONWfOhx0
■日刊ゲンダイ 2006.11.22付★2

02年6月、足先などが壊死する難病「バージャー病」にかかり、入退院を繰り返す。
ようやく職場復帰のめどが立ち、03年7月25日、Jリーグ事務局に鈴木チェアマン(当時)を訪ねた。
いきなり「今月で辞めろ」と言い放たれた。「鈴木さんの背後に“大きな力”を感じた。
すぐ日本サッカー協会のトップ、川淵さんに会いに行き、泣きながら“サッカー界で頑張りたい”と懇請した。
しかし、冷たい返事しか返ってこなかった。“許さない”。ただこれだけだった」
80年代にプロ化の先鞭をつけ、Jリーグを成功させた、という自負もあった。これが功労者に対する仕打ちなのか――。
Jリーグ映像、Jリーグフォト、Jリーグエンタープライズの社長を務め、6年の任期中に3社から総額1020万円、年間170万円を給与として受け取った。

「鈴木さんから“勝手に自分で自分に給料を払った。株主からの了承を得ておらず、不明朗だ”と言われた。これが“辞めろ”の理由だった。役員の給与に関しては、それぞれの会社の取締役会および総会で承認をされていた。それなのに……。法的にやましいところはないし、株主に報告する義務もない。03年8月末、1020万円はそれぞれの会社に返した。その当時は、抵抗するだけのパワーも精神力もうせていた。元気になった今、本当に納得できない」

「川淵さんとはプロが出来る前から助け合い、支え合ってきた。一生懸命にもり立ててきたつもりだし、
何回かは窮地から救ったこともある。木之本を辞めさせるということを川淵さんは鈴木さんから報告を受け、承諾していたはず。そのことが残念でたまらない」(つづく)

木之本興三・Jリーグへの遺言?
トップに権力が集中しすぎて気遣いの川淵さんも人が変わった
日刊ゲンダイ 2006.11.23付33面

93年に開幕したJリーグは、日本中で熱狂的な支持を集め、一大ブームを巻き起こした。

「合言葉は“走りながら考えよう”だった。とにかくガムシャラに突っ走った。当時、『事業委員会』『運営委員会』『商品化委員会』の委員長になり、Jリーグを主に経済面から支えた」

Jリーグの最前線で紆余曲折も経験した。横浜Fが消滅したり、深刻な経営難で清水も解散寸前に陥った。その一方で10クラブで開幕したJリーグは98年に18に増え、翌99年にはJ2(2部)もスタートした。

「たとえば?Jリーグエンタープライズの社長を務めたが、年間売り上げ7億円を02年には32億円にしたし、内部留保も3億円を確保した。それなりの業績を残してきたと思っているが、03年7月にJリーグを追われた」

02年6月、足先などが壊死する難病「バーチャー病」にかかり、何度も病院に担ぎ込まれた。03年7月、復職すると鈴木チェアマン(当時)から「すぐに辞めろ」と言われた。
当時の状況を「まるで極悪人扱い。あまりに冷たい仕打ちだった」と振り返る。


619 :U-名無しさん :2006/11/29(水) 23:15:08 ID:qW6rf2dS0
■日刊ゲンダイ 2006.11.23付★2

日本サッカー協会・川淵会長との付き合いは72年春にさかのぼる。
東京教育大(現筑波大)卒業後に古河電工に入社。サッカー部の監督だった。
「川淵さんは、木之本が辞めさせられることを聞いて承諾したはず。ただただ残念としか言いようがない。昔はあんな人ではなかった。もっと他人を思いやれる人だった。26歳で両腎臓を摘出してから、我慢、我慢の人生だった。それでもサッカーに全霊をかけてきた。なのにあっさり放り出された。Jリーグのチェアマン時代に“権力が集中し過ぎた”ことが、川淵さんを変えてしまった」

Jリーグの定款に「通常総会は理事長(チェアマン)が招集する」「議長は理事長とする」<第5章 総会>とある。

「総会をチェアマンが仕切るのではなく、専務理事とかにしておけばよかった。チェアマンが独断でコトを進めるのではなく、いい意味で“互いに牽制し合う”チェック機能が働いたと思う。川淵さんは、誰よりも早く“チェアマンには強大な権力が集中している”ことに気づいたはず。いつの頃からか、川淵さんを“引きずり降ろそう”なんて考えている者はひとりもいないのに、逆に自分で“考えの違うヤツは追い出した方がいい”となった。プロ化に向けて奮闘し、Jリーグを立ち上げた仲間たち、“一緒に井戸を掘った人”を遠ざけるようになってしまった」
(つづく)


620 :U-名無しさん :2006/11/29(水) 23:15:35 ID:1KOJfLiI0
■日刊ゲンダイ 2006.11.25付★1

木之本興三・Jリーグへの遺言?
川淵さんの“オシム失言”は確信犯であり茶番だと思う  日刊ゲンダイ 2006.11.25付39面

02年日韓W杯でトルシエ日本は決勝トーナメントに進んだ。
しかし、ジーコ日本はドイツW杯1次リーグで一勝も挙げられずに敗退した。
4年前のベスト16でテングになっていた日本サッカーの鼻がポキンと折れた。

「日本は強い。私もそう勘違いしていた。(1次リーグ3戦目の)ブラジル戦を見ながら、4年前の日韓W杯ベスト16は《真夏の夜の夢》、そんなフレーズが浮かんだ。世界はまだまだ遠い。日本は弱かった。ドイツでの惨敗を今後、どう生かしていくか。日本サッカーの将来も変わってくる」

ドイツW杯後の帰国会見の席上、日本サッカー協会・川淵会長の“失言事件”が起きた。

「あっ、オシムって言っちゃったね」。

世論はオシムが日本を強くしてくれるという雰囲気が高まり、川淵会長は2期4年を務めた後、さらに「1期2年」とどまることになった。

「私は、ドイツW杯の総括がなされていないことが疑問だ。総括した上で次の4年間、誰に代表監督を託すのか、選考基準は何か、日本サッカーにふさわしい監督は誰か、吟味して選考すべき。失言問題にかんしては、川淵さんともあろう人が何をあんなに焦ったのか?」


621 :U-名無しさん :2006/11/29(水) 23:15:48 ID:aIAXq6gL0
■日刊ゲンダイ 2006.11.25付★2

川淵会長は「史上最大の失言」と釈明した。

「個人的には“茶番”だと思っている。川淵さんがJリーグのチェアマン時代、そばで言動を見てきたが、
その場でズバッと発言しているようで、実はとても用意周到な人です。メディアの前で何をどんなふうに言えばいいのか、すべて計算してやられている。私の考えが間違っていたらゴメンナサイと謝るしかないが、川淵さんの失言問題は確信犯だと思っている」

4年前のジーコ監督もそうだったが、今回も独断専行でオシムを選ぶことで自身への非難をすり替えた。
これには大物OBも危機感を募らせた。「会長として最終決定を下すのは当然。
でも少なくとも副会長、専務理事と協議すべき」と話すのは前々会長の長沼氏(現名誉顧問)。
川淵会長に直接、「晩節を汚さない方がいい」との思いで電話を入れた。
前会長の岡野氏(現名誉顧問)は「日本サッカーの将来を見誤らないように」と警鐘を鳴らす手紙を理事会メンバーに送った。

「私は川淵さんの3選について異存はない。問題は“会長の周辺”にある。あまりにも川淵さんを神格化し過ぎてはいないか。言いたいこと、思っていることを堂々と話せない、是々非々を論じることが出来ない、そんな状況がサッカー協会にあるとするならば、組織として脆弱なものになってしまうのでは? そんな危惧を抱いている」(つづく)

木之本興三・Jリーグへの遺言?
“横浜F事件”では川淵さんについていけないと事務局4人が辞表  
日刊ゲンダイ 2006.12.9付41面

プロ化に命をかけ、幾多の修羅場をくぐり抜けながらも、Jリーグを軌道に乗せた。
少々のことでは動じない木之本だが、さすがに「二の句が継げなかった」という。98年10月29日。
朝刊各紙が「全日空と佐藤工業が出資する横浜Fが経営難に陥り、日産自動車が出資する横浜Mに吸収合併される」と報じた。当日午後、Jリーグは臨時理事会を開き、吸収合併が承認された。川淵三郎チェアマン(現日本サッカー協会会長)は、自身の著書「虹を掴む」(講談社)でこう振り返る。

《一つになった新生のクラブが力を合わせて強いチームに生まれ変わればJリーグの発展にとってはいい結果につながるかもしれない》<抜粋> 木之本が首をかしげながら、当時を述懐する

。「川淵さんの著書の中に“(98年)10月6日に横浜F、横浜Mの社長から話があった。ショックだった”とあります。しかし、8月には川淵さんから“合併話がある。オレが全部仕切る。おまえは口をはさむな”と言われた記憶がある。結局、川淵さんは企業の論理に無抵抗に従い、吸収合併を認めてしまった。なぜ専務理事の私が蚊帳の外だったのか、経営規模を縮小するなど存続の手だてを講じなかったのか。まったく理解できなかった」

Jリーグの幹部職員にも衝撃が走った。「Jリーグ事務局の部長職5人のうち4人が“川淵さんは言行不一致。ついていけない”と辞表を出してきた。“すでに理事会で決定された。今の事態をソフトランディングさせ、終焉させることが大事”と説得。思いとどまってくれた」


648 :U-名無しさん :2006/12/08(金) 18:06:13 ID:Ct+kHNC00
■日刊ゲンダイ 2006.12.9付★2

木之本は「川淵さんにとって、横浜Fの選手会とサポーターたちの抗議活動は、大きな誤算だったと思う」と話す。

「Jリーグで横浜Fのサポーターが一番少なかった。彼らは抵抗なんかしない、と思ったはずです。それがJリーグに推し掛けてきたり、騒然とした。川淵さんは体調不良などを理由に事務局に来なくなり、選手会との折衝やサポーター対応は私が担当した。しばらくすると川淵さんも元気になられ、選手会のメンバーやサポーターたちと面会して、涙を流されていましたね」

99年元日を迎えた。天皇杯決勝戦で横浜Fが優勝した。試合後のセレモニーで選手会の
会長・DF前田(浩二、現神戸コーチ)を先頭に選手がひな壇に上がっていく。
天皇杯実施委員長の木之本は、優勝メダルを渡すことになっていた。「おめでとう」と声を掛けながら、
前田の首にメダルを掛けた瞬間、「おまえ、チームを潰しやがって。覚えてろよ」――。
ドスの利いた言葉に何も言い返せなかった。「木之本がすべて仕組んだ、と誤解している人も多い。
言い訳はしませんが、親会社が結論を出す前に、Jリーグが手を貸していれば横浜Fは存続できたと思う。
何度思い出しても痛恨の極みです」(つづく、敬称略)

川淵さんから“極悪人扱い”を受けたことが無念でならない
日刊ゲンダイ 2006.12.13付32面

98年仏W杯後、43歳のトルシエが日本代表監督に就任した。
「傍若無人」「傲岸不遜」「金の亡者」――。評判は散々だった。
持て余した日本サッカー協会は99年7月、トルシエ日本を支援する「強化推進本部」を新設した。
Jリーグ専務理事の木之本に「副本部長に就任して欲しい」という要請が届いた。
「親身になって付き合ってやれ、ということか」。木之本はそう判断した。
「幼稚な人間だった。差別主義的な言動も多かった。号令一下、日本人が従うのに心地よさを感じていた。イエローよりホワイトの方が偉い、といった感覚を肌で感じた」

たとえば、サッカー協会・川淵三郎副会長(現協会会長)は、自著の「虹を掴む」(講談社)でこう振り返っている。

《曲がったことの大嫌いな私と自分の手法を変えないトルシエが相対したら全面衝突。ケンカ別れは必至。本能的に“この男には近づかないほうがいい”と思っていたところがある》<抜粋>

トルシエと付き合うのは、サッカー協会・岡野俊一郎会長(現協会名誉会長)と木之本の2人くらいしかいなくなった。

「選んだ人間も連れてきた人間も、途中でトルシエから逃げ出してしまった。サッカー協会で反トルシエの急先鋒は川淵さんだった。こっちは苦労の連続なのにメディアを通して川淵さんの批判が聞こえてくる。そりゃ頭にくるよ。人間トルシエではなく、監督トルシエに“これは仕事だから”と割り切って付き合った。

666 :U-名無しさん :2006/12/13(水) 14:15:10 ID:ZYJupyyq0
■日刊ゲンダイ 2006.12.13付★2

いずれにしても彼は1次リーグを突破して日本開催のW杯を盛り上げてくれた。
結果的にサッカー協会の財政に大きく寄与した。そのことを忘れてはならない」

日韓W杯後、岡野会長夫妻とトルシエ夫妻がお別れ食事会を催すことになり、岡野会長が「会っておきたい人はいるのか?」と尋ねた。

「赤坂の囲炉裏のある店に家内と2人で出向いた。トルシエからチタン製のサッカーボールがあしらってある置物を贈られた。ボールに“Merci(ありがとう)”と書いてあった。最初の頃、互いに敵対心みたいな感情があった。何度も怒鳴りあった。でも、少しずつでもこっちの思いが通じたのかな。分け隔てなく付き合ってくれた、と」 トルシエは02年8月に離日した。

木之本は、足先などが血行不良で壊死する「バージャー病」に侵され、入退院を繰り返していた。
見送りのサッカー協会職員に「キノモトさんに“LONG LIFE(長生きして)”と伝言して欲しい」。
こう言い残して機上の人となった。

「人を人とも思わなかったトルシエが私の体を気遣ってくれた。それだけに鈴木チェアマン(昌、06年7月で退任)、川淵さんから極悪人扱いを受けたことが無念でならない」

木之本は、読売新聞が次期チェアマンに木之本氏、と報じた日から「川淵さんは変わってしまった」と振り返る。
(つづく、敬称略)

ω (2006-12-12 18:00:09)


667 :U-名無しさん :2006/12/13(水) 14:17:19 ID:ZYJupyyq0
■日刊ゲンダイ 2006.12.12付★1
木之本興三・Jリーグへの遺言?
鳥栖救済に奔走したら川淵さんにえらい剣幕で怒鳴られた  
日刊ゲンダイ 2006.12.12付37面

「いきなり呼び付けられたと思ったら、“おまえ、オレに内証で何やってんだ!”ってどやしつけられた。
すぐに川淵チェアマンに反論した。チームがつぶれてもいいんですか?Jリーグのイメージダウンになりますよ。それでもいいんですか、と」

97年2月、当時JFL所属の鳥栖フューチャーズ(現J2鳥栖)が経営難で解散。
受け皿として新運営会社・サガン鳥栖が設立されたが、97年シーズンを前に収入のアテもなく、チーム消滅の瀬戸際に追い込まれた。

「立派な専用スタジアムを造り、その鳥栖が消滅したら九州にJリーグのチームは根付かなくなる。そこでスポーツメーカーのナイキの力を借りることにした。当時、ナイキは2002年W杯日本代表のオフィシャルサプライヤーを狙っていた。しかし、なかなか日本サッカー協会上層部に食い込めずにいた。“まずは手始めに年間1億5000万円を2年間。ユニホームのサプライヤーの形で鳥栖を支援して欲しい。そうすれば協会幹部も考慮してくれるだろう”と提案した」

ナイキは木之本の申し出を受けた。
JFLの主管団体、日本サッカー協会の重松専務理事(良典、元プロ野球・広島球団社長)の了解も取り付けた。ところが、川淵チェアマンには、身勝手なスタンドプレーに映ったようだ。

木之本を呼びつけて「どうして鳥栖なんかに1億5000万円なんだ」と激怒した。

ω (2006-12-11 17:39:21) [コメント記入欄を表示]


668 :U-名無しさん :2006/12/13(水) 14:18:21 ID:ZYJupyyq0
■日刊ゲンダイ 2006.12.12付★2

「川淵さんは当時、クラブがなくなるのは経営が悪い、つぶれるところは甲斐性がない――というニュアンスの発言をされていた。個人的には、どんな弱小でも、消滅したらサッカー界にとって大きなマイナスになると考えた。なんとしても鳥栖を救いたい。それでナイキに話を持ち掛けた」

鳥栖救済はJリーグのため、ひいては川淵さんのためにもなる。そう思って一生懸命やった。
事情を説明したら、最後は渋々ながら「そうか、分かった」と言ってくれた。
ナイキが参入してくる前、日本サッカー協会はプーマ、アシックス、アディダスと契約を結んでいた。
1社当たり年4000万円(計1億2000万円)。各社のユニホームを日本代表、五輪代表、
ユース代表と1年ごとに“持ち回り”で着用した。02年W杯を前にオフィシャルサプライヤーのコンペが行われた。
ナイキの提示額に協会幹部は腰を抜かした。「アシックスはコンペから離脱し、プーマが3億円、デサント(アディダス)が4億円だった。ナイキはというと大台の10億円だった。すると、デサントが6億5000万円を再提示した。最終的に日本サッカー協会は“これまでの付き合いを考慮する”という理由でデサントに決めた。あくまで結果論だが、ナイキのおかげでデサントの“1社で6億5000万円”という数字が生まれて
、他企業との交渉で有利なカードになった。デサントの契約を機に協会の財政基盤はより一層強固なものになった」

(つづく、敬称略)


■日刊ゲンダイ 2006.12.16付★1
木之本興三・Jリーグへの遺言?
日本サッカー協会は、決して川淵さんの“個人商店”ではない  
日刊ゲンダイ 2006.12.16付38面

日韓共催となった02年W杯。木之本は日本代表団長を務めた。
開幕2日目の6月1日に、選手に「Jリーグ10年の歴史の重みを背負って頑張れ」と激励した。
プロ化の先鞭をつけ、Jリーグを立ち上げた男の痛切な願いだった。
日本はベルギーと引き分け、ロシアを1-0で下した。14日のチュニジア戦当日は、午前6時から人工透析を受けた。その後、空路試合会場の大阪に駆け付けた。
2-0の完勝で決勝トーナメント進出が決まった。スタンドで涙した木之本は
その日の夜、宿泊先のホテルで昏倒した。難病に襲われる“前兆”だった。
4日後の18日に、仙台で行われたトルコ戦でトルシエ日本は0-1の敗戦。
この直後、「右足先の血管が爆発したと思った」と振り返る。

「焼き火箸を押し付けられる――。こんな感じなのだろうと思った。耐え難い激痛だった。足先などの血行が悪くなって壊死する難病、バージャー病に侵された。病気に苦しめられるために生まれてきたのか。運命を呪うしかなかった」

26歳で両腎臓を摘出した。週3回の透析を受けないと生きられない。
さらなる難病が追い打ちとなった。バージャー病で入退院を繰り返し、職場復帰のメドが立ったと思った矢先、03年8月に「ボロぞうきんのようにサッカー界から追い出された」。
Jリーグ専務理事、Jリーグ関連3社の社長、日本サッカー協会常務理事など一切の役職を奪われた。
だが、「明日、死ぬかもしれない」と恐怖しながら命をかけたサッカーに対する愛情は人一倍、強い。


690 :U-名無しさん :2006/12/16(土) 17:30:20 ID:FqXbEElK0
■日刊ゲンダイ 2006.12.16付★2

「岡野前会長(俊一郎、現名誉会長)、長沼前々会長(健、現名誉顧問)時代には人事を巡るゴタゴタが起きたり、“会長スキャンダル”が週刊誌上を賑わすことはなかった。ところがドイツW杯後の人事では、野村さん(尊敬、前協会副会長)の平理事降格の理由が明らかになっていない。川淵さんとは早大サッカー部の先輩後輩の関係であり、趣味のゴルフなどを通して蜜月時代もあったが……。
また、川淵さんが経産省から引き抜いた平田さん(竹男、前協会専務理事)の退任理由も明確ではない。不可解な人事が協会の風通しを悪くしているのではないかと、懸念している」

ドイツW杯開催中に一部週刊誌が「川淵会長が協会を私物化」
「講演料収入を94年に設立した個人会社・川淵企画に全額振り込み」と報じた。

「川淵さんは会長就任以来、講演料収入は年間平均743万円と反論した。だが、いまだにチェアマン時代から年間数千万円の収入がある、という話は関係者の間では根強い。そんな“疑惑”を払拭するためにも、情報を開示されるべきと思う。日本サッカー協会は、絶対に川淵さんの“個人商店”であってはいけない。“阿蘇シーエーション=協会”として、サッカーを愛する仲間でもり立てていかなければならない。メディアの責任も大きい。何も聞かない、たださないではだめだ。是々非々の報道姿勢を期待している」

ω (2006-12-15 17:51:34)


691 :U-名無しさん :2006/12/16(土) 19:06:39 ID:hAv+kpS90
■日刊ゲンダイ 2006.12.18付★1
木之本興三・Jリーグへの遺言?【最終回】
川淵さんは長く組織のトップに立っているうちに別人になってしまった  
日刊ゲンダイ 2006.12.18付30面

千葉駅から歩いて10分。ビルの7階に企画会社「エス・シーエス」がある。
04年6月に設立した会社だ。社長室の壁に小さな額が掛けられている。「絶望の次は希望」――。
木之本自身の筆によるものだ。古河電工に入社して3年目。同じ部署で働いていた広美(旧姓・小川)と結婚した。新婚旅行から帰った75年1月の練習中に血痰を吐いた。3月のある朝、強烈なめまいに襲われて起き上がれない。
国内発症例がわずか12件の難病グッドパスチャー症候群に侵され、26歳で両腎臓の摘出手術を受けた。
その時、広美は妊娠3ヵ月だった。週3回、1日4時間半の透析の苦しさに耐え切れず、医師に「殺せ」と何度も叫んだ。
広美と生まれてくるわが子が不憫で「中絶しろ。離婚だ」と口走ったこともある。
「家内の母(故人)に言われた。“サッカーに酒にたばこに麻雀。気ままに生きてきた。
これからは四季折々、庭にどんな花が咲くのか、静かに見守りながら生きていきなさい”と。
過酷な闘病生活ですさんだ心がスッと和らいだ。昨今、イジメ問題がクローズアップされている。
当事者の悩みは深い。しかし、明けない夜はない。絶望の次には希望がある。
苦悩する子供たちに“未来を信じて欲しい”と伝えたい」 83年に日本サッカーリーグ事務局長に就任した。
サッカーは冬の時代を迎えていた。日本代表はW杯にも五輪にも縁がなく、日本リーグの試合会場は閑古鳥が鳴いた。
「日本サッカーを救うにはプロ化しかない」 愚直に信じた。毎日は働けない。その分、人よりも激しく生きた。
「プロリーグ? 頭がおかしくなったのか」。陰口が耳に入る。だが、プロ化に奔走している時、生きている実感に包まれた。
ω (2006-12-16 17:49:27)


692 :U-名無しさん :2006/12/16(土) 19:07:55 ID:hAv+kpS90
■日刊ゲンダイ 2006.12.18付★2

「目標があったから生きられた。サッカーがなかったら、とっくにこの世から消えていただろう」
03年8月にサッカー界を追い出された。「仲間だと思っていた人に罪人同然に扱われた」。
無念は今でも晴れない。出身地・千葉市の「サッカー専用球技場(蘇我球技場=フクアリ)の
運営を手伝って欲しい」という話が来た。
木之本は会社を立ち上げ、「フクアリを老若男女が楽しめる環境にしたい」と考えた。
ホスピタリティーを社是に掲げた。10月から厚労省の推進する「老人保健健康増進事業」が
フクアリで実施されることになり、その運営にも携わることになった。

川淵チェアマンと木之本専務理事――。
Jリーグを隆盛に導いた2人だが、今では会話を交わすこともなければ、視線が交わることもない。

「潔癖で正直な人。正義感もある。しかし、組織の長を務めていくうちに別人になった。本来の自分と今の自分、そのギャップに川淵さんは思い悩んでいるのではないか。本来のご自分にかえり、サッカー界をさらに活性化して欲しい」

「私はこの連載で“真実”を書いてきた。無論、私にとっての真実であり、“木之本、勘違いもあるぞ。思い上がるな”とお叱りを受けるかもしれない。もし川淵さんから指摘を受けたら? その時は2人でヒザを交え、じっくり話し合いたいと思う。Jリーグ前夜の頃のように……」

(おわり、敬称略)

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