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□「悲劇の共有」と「叙事への意志=叙情否定の意志」の関係について記しました [MIYADAI.com]
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「悲劇の共有」と「叙事への意志=叙情否定の意志」の関係について記しました
投稿者:miyadai
投稿日時:2007-04-21 - 09:45:02
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
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観客を動員できる作品ほど質が低いという日本映画バブルの逆説に抗うヒントを、
自主映画『蛆虫が飛ぶとき』と韓国映画『鰐』における「叙事への熱情」に見る。
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【質の低下による日本映画バブル】
■周知のように日本映画大バブルだ。商業映画はDVDオンリーも含めて1000本近く作られ、年間100人の新人監督がデビューする。7年前に水戸映像祭の審査員になった頃、才能ある自主映画監督を商業映画の世界にどうつなげるかを画策していたことが懷かしい。
■現在必要なのは無数の商業映画を「売れているけどいい」「売れているけどダメ」「売れてないけどいい」と宣言する仕組みだ。ヨーロッパの映画祭は元々そういうものだ。売れる売れないに関係なく、いい映画にお墨付きを与える。日本の映画祭もそうなる必要がある。
■日本映画バブルが起こっている理由は、直接にはシネコンやミニシアターの増加で様々な映画が上映されるようになったからだ。実は数年前までの私が望み、働き掛けてきたことだ。ところが逆比例的に質は下がってきた。観客がホメる映画のクオリティが低過ぎるのだ。
■第一に、映画専門学校が増え、感情的フックを弁えた標準的な映画作法を教えられた人が、「ウェルメイド」な映画を量産しはじめた。第二に、ビデオやDVDなどアーカイブス化の進展で、岩井俊二風とか三池崇史風のコピペが容易になった。第三に、製作委員会方式やオリジナル脚本忌避などのリスク回避が進み、観客に媚びた「テレビ的」作品だらけになった。第四に、観客が「泣ける」「笑える」と一秒でコメントできる感情的フックだけを要求する「一秒コメント化」が進んだ。第五に、皆が観ているから観るという「ネタ化」が進んだ。
■因みに昨今のテレビドラマは、携帯メールを打ちつつ寸断的に享受されるので、数分に一度ずつ感情的フックを用いる形でモザイク化している。テレビ的なものを期待する観客に媚びる映画は、息の長い時間的展開が珍しくなり、ますます叙事よりも叙情に傾斜しがちだ。
■そうした「泣ける」「笑える」映画の増大が、私の言う「ウェルメイド化」だ。「ウェルメイド化」のせいで、各種映像祭での映像コンペの審査が困難になってきた。過去8年間ここで映画批評を連載してきているが、商業映画の批評においても同じ困難が増大している。
■「ウェルメイド化」を「底上げ化」と呼ぶ向きもあるが、言葉はともかく「質の低下」を意味している。誰でも簡単にそこそこの映画を作れるとはいえ、誰でもその程度の映画を作れるという「作品も作家も入替可能な事態」が、表現としての質の上昇を意味する筈がない。
■その結果、昔からそうだとはいえ、「素人」のホメる映画を「玄人」がますますホメ難くなった。即ち「泣けた」とか「笑えた」とか「カッコよかった」といった「ウェルメイド」性が、映画を見続けてきた者にとってますます叙情的なガラクタを意味するようになった。
■だから、映像コンペで「玄人」筋が推す作品が、「素人」筋の審査員や観客の合意を得がたくなってきた。審査員間の調整も困難化してきた。なぜあんな作品が受賞するのだ、という訳だ。そこで、観客賞を創設したり、授賞理由を観客に噛み砕いて説明するようになった。
■どこかで観た商業映画風の作品のみならず、どこかで観た実験映像風の作品も溢れる。我々の時間的・空間的・意味的な認識枠組を揺るがす作品は、今や極めて稀だ。──といった文章を「イメージフォーラム・フェスティバル2007」におけるコンペの講評として記した。
【自同律から横滑りへ】
■素朴なオリジナル信仰だとして誤解され易いので、かつて中平卓馬に言及した折に述べたことを確認して補う(連載72回)。ベンヤミンは近代の制度的全体性に貢献するシンボルに対抗し、断片の集積によってオルタナティブな全体性を予感させるアレゴリーを構想した。
■当初ベンヤミンを踏襲した筈の中平は、二つの理由で否定に向かった。第一に、砕け散った瓦礫たちが「束の間」作る星座──横滑り的に他なる関係を想起させる関係──がアレゴリーだが、「束の間」の筈の瓦礫たちの関係がやがて固定化されてシンボルと化すからだ。
■第二に、アレゴリーを通じて「〈世界〉は確かにそうなっている」というオルタナティブな全体性を示唆する営みは、全体性を──他なる関係の集積を──示唆した瞬間に恣意的な権力を働かせる。かくて彼は、何かを示唆する能動性を徹底して排除しようとして自壊した。
■心的喪失=〈社会〉からの放擲と引き換えに、中平は〈世界〉から一方的に進入される絶対的受動性を獲得した。だが〈社会〉を生きる我々には無理だ。可能なのはせいぜい〈社会〉の否定ならざる「この近代」の否定という「オルタナティブな近代」の示唆に過ぎない。
■要はベンヤミンに留まるしかないということだ。表現の受け手である人々に引きつければ、表現を「透明な媒体」つまりシンボルだと見做す発想を拒絶し、表現を構成する不透明な瓦礫たちによる過去の「一瞬の蘇り」つまりアレゴリーとして見做す立場が奨励されるのだ。
■その意味で映画は、空間的ならざる時間的指示によって、他なるものの全体に「束の間」言及する反復芸術だ。これは講評に記した文章と矛盾しない。ウェルメイドな作品は、他なるものに言及しない。A→B→C…と横滑りせず、A1=A2=A3…という自同律だけがある。
■比喩を言えば「ウェルメイド」な映画は、イヌという音で犬を指示するというシンボルの自同律を反復する。自同律に抗うアレゴリカルな映画は、イヌという音がイスとかイマとかイフといった過去の音をポリフォニックに召喚し、忘れていた〈世界〉を思い出させるのだ。
■それも確かに既成性を前提とした/新たな既成性を形作る権力作用に過ぎない。だが〈社会〉─可能なコミュニケーションの全体─を生きる以上、既成性から逃れられない。それでいい。思い出せば別のものを忘れる。それをまた思い出せばいい。それを続けるだけだ。
■それが〈世界〉─ありとあらゆる全体─という牢獄から逃れられない人間に許された、数少ない手すさびだ。〈世界〉には定義からして外がない。だから逃れられなくて当たり前。ハイデガーによれば「ありとあらゆる全体」が牢獄だという奇妙な感覚を抱くのが、人間だ。
■先のコンペでは大賞に村上康人『蛆虫が飛ぶとき』が選ばれた。この作品にはイヌという音で犬を指示する規約性はない。流行のセルフストーリーものと見えて、凡庸な自己物語化からはみ出す過剰性がある。自己物語化の自同律に安らう者らは自分を恥じる他ない。
■作者は映画学校でセルフストーリーを映像化する課題を与えられたらしい。が、登場する父親や母親や恋人がセルフストーリーにとってのノイズにしか見えない。そもそも作者自身がノイズだ。ラストで唐突に作者のストリーキングが映されるが、何の違和感もないほどだ。
■審査では、作品の異物感が意図されたものか、意図せざる即自的表出か、別の何かを意図して失敗したのかが話題になった。デリダ的な「郵便の誤配」かもしれない。だが「郵便的」なあり方を含めて、瓦礫の山が様々な星座を形作っては姿を変えていく(イメージフォーラム・フェスティバル2007は新宿パークタワーホールで4月28日から5月6日まで開催)。
【他者性を欠いた叙情の氾濫】
■20分の『蛆虫〜』の圧巻ぶりに比較すると、2時間を超える松岡錠司監督『東京タワー』(07)のつまらなさが際立つ。マスコミ試写で周り中から啜り泣きが聞こえるのには、辟易した。啜り泣くマスコミ人には、批評的な知力というものが存在しているのだろうか。
■マスコミ試写で号泣だらけになるほどの「ウェルメイド」ぶりだが、私の母が「おかん」と同じく癌で闘病中なので、設定的には身につまされるものの、リリー・フランキーの原作を含めて作品が「自伝」と呼べるのか疑問だ。こうした映画を批評家は評価してはならない。
■家族や親しい友人が死にかけている。良かれと思って「こんなことがあったね」と想い出を喋ると、頻繁に記憶の齟齬に突き当たる。実際それをモチーフにした映画も多数ある。最近の邦画に限っても『蛇イチゴ』『まぶだち』『紀子の食卓』が記憶の齟齬に言及している。
■対人関係の記憶は一般に自己防衛的な体験加工を経る。主観的な自己物語化を被る。他者性不在の、叙事ならざる叙情だ。記憶の齟齬が表面化することで、体験加工=自己物語化=叙情化=他者性不在化が、露わになる。映画は、記憶の自明性に批評的たりうる。
■『東京タワー』には齟齬がない。卵のようにツルリと完結している。自伝小説や自伝映画を自称するなら、ダメな表現者かペテン師かいずれかだ。観客は「泣けた」「笑えた」で良かろう。単にそれを追認するなら、放っておいても集客できる以上、批評家はいなくていい。
■他者性を欠いた叙情が、批評家によって手放しで讚えられるのは日本だけだ。この手の「ウェルメイド作品」が興行的に回るのも日本の人口が多いからだ。外国に輸出するために外国批評家による肯定が必要な人口の少ない国では、自国批評家の礼賛もあり得ない。
■『東京タワー』が退屈なのは、叙情を裏切る「〈世界〉の出鱈目さ」が描かれないのに加え、叙情を裏切る「人間の出鱈目さ」が描かれないからだ。「おとん」の破天荒も程良い叙情に収まるキャクラターに過ぎない。他者性を描くとはキャクラターを描くことではない。
■なぜなら「人間の出鱈目さ」とは、キャラクターの特性なのではなく、主観の複数性に由来するからだ。主観の複数性ゆえに「おかん」にとっての社会的文脈と「おとん」にとっての社会的文脈が通約不能になる。『東京タワー』には通約可能な社会的文脈しか描かれない。
■程よい叙情に収まるキャラクターを徹底的に拒絶し、飽くまで他者性としての「人間の出鱈目さ」に固執し続けてきたのが、連載で繰返し言及してきたキム・ギドク監督作品だ。彼のデビュー作『鰐』(96)が4月28日から5月18日まで渋谷ユーロスペースで公開される。
■私は彼の作品を『鰐』以外全て観ている。権利関係の困難から『鰐』だけ日本公開されていなかった。32歳まで映画を観たことがなかった彼が35歳の時、脚本の流用を避けるために、思いつきで「自分が監督する」と宣言したことから監督業が実現した。観て驚愕した。
【叙情よりも叙事こそが感情の賜物】
■舞台はボン・ジュノ監督『グエムル』(06)と同じ漢江。『グエムル』の批評トラブルからキム・ギドクが監督引退宣言をしたのは周知だろう。『鰐』を観て、彼がなぜ『グエムル』を徹底して貶さざるを得ないのか、私がなぜ彼の作品に惹かれるかが、よく分かった。
■主人公の浮浪者は、漢江への投身自殺者の死体から奪った金品で暮らす。ある日若い女が投身するが、美貌に惹かれ、救命して強姦する。そこからが奇天烈。若い女は菩薩だ。浮浪者仲間の老人や子供を癒し、愛される。主人公をも癒し、彼も彼女を愛するようになる。
■彼女には愛する金持男がいたが、金持男が企んだ輪姦の衝撃で自殺を図ったのだった。金持男が企んだとは知らぬ彼女に、主人公は事実を暴き、彼女の前で金持男を惨殺する。その晩二人は初めて愛の情事を交わすが、明け方彼女が再度自殺を図り、彼も後を追う。
■本筋はシンプルだが、わざと感興を削ぐノイズで汚される。前々回紹介したキム・ギドクの脚本執筆法─シンプルな初稿をずたずたに切り刻む─を髣髴させる。警察官の同性愛を拒絶して復讐される主人公然り。主人公を助けたが故に殺される自販機の中の老人然り。若い女を愛するが故に主人公を殺そうとする浮浪児然り。極めつけはラスト。自殺した彼女を水中の椅子に固定した主人公は、自分と彼女を手錠で繋いで後追い自殺を図る。美しいシーンなのに、気が変わった彼は手錠を外そうと腕を切って血まみれになりつつ絶命する。
■主人公の浮浪者はキム・ギドクのどの映画の主人公よりも暴力的で残忍だ。狂人と言っていい。全く感情移入が不可能だ。そんな出鱈目な狂人が、最後に何よりも聖なる存在に見えて来る。いかにも聖なる存在に見えるような演出を徹底的に避けつつ聖化が果たされる。
■『鰐』は奇しくも日本映画へのアンチテーゼになる。「聖なる狂人男」は、ロマンポルノ的な「聖なる娼婦」の逆転だ。「聖なる狂人男」は、「聖なる娼婦」の如き叙情的共感を拒絶する。混沌を経て〈社会〉に再着地する代わりに、〈社会〉から最も遠くに着地する──。
■演出上でも、叙情的な流れを、叙事的な青天の霹靂が寸断する。美しい画面に酔いそうになると、不潔な事物や残忍な振舞いがぶち壊す。「聖なる娼婦」モチーフに似た構造があるからこそ差異に圧倒される。その差異を一口で言えば、〈社会〉に対する巨大な憎しみだ。
■彼の作品の凄さは、生い立ちから来る個人的憎しみが、社会的および神話的な方向に昇華されていることだ。連載で指摘したが、彼の作品は叙情を贅沢品だとする。世の中には叙情に浸る余裕のない者がいる。叙情的な〈社会〉は包摂的に見えて、そうした者を排除する。
■排除への怒りは感情的だが、叙情の排除性は論理的問題だ。彼の作品は〈社会〉が抱える構造問題─叙情の排除性─を摘抉して、社会的メッセージ性を帯びる。だが、個人的感情と社会的論理の併存というより、感情(叙情)を否定する感情(憎悪)の逆説性が際立つ。
■叙情ならざる叙事に徹底的に拘る感情の激烈さ─。というと、連載でも紹介したギリシア叙事詩やギリシア神話やギリシア悲劇の背後にある感情の激烈さを髣髴させる。ドーリア人侵入後の暗黒の四百年を絶対に忘れぬよう語り継ごうとする感情が、現にこれらを支えた。
■だからこそキム・ギドクの作品は神話の輝きを帯びるのだ。神話は例外なく叙事的だが、それも叙事への志向を支える激烈な感情の共有─ニーチェの言う「悲劇の共有」─があればこそ。そう。叙情よりも叙事こそが遙かに感情的だという真実を『鰐』が教えてくれる。
■『蛆虫が飛ぶとき』の村上康人が映画を知らないのだとしても全く欠点にならない。『東京タワー』の如き叙情的な「ウェメイド」作品の製作に習熟することなどクソと同じだ。凡百の叙情的な自己物語に自分を収められない苦しみから生じる彼の内発性だけが神話を績ぐ。
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