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(回答先: これ以上日本を劣化させてはならない 投稿者 改善党 日時 2007 年 4 月 18 日 11:50:32)
リバイバル板
http://www.asyura2.com/0601/revival1/msg/292.html
>>存在感を放つ人間との出会いの欠落
自分の人生を振り返って、あるいは先達の人生を調べてみて、物事を真剣に考えようとするきっかけになったのは「人間との出会い」、つまり魂を揺さぶられるような生身の人間との出会いであることに気付く。その存在感の重みが、その後の人生にとって大きな刺激となるような「出会い」である。
現代の若者と議論していて感ずるのは、それまでの人生において、両親や親族、先生、地域社会の隣人などにおいて、決定的な影響を受けた人物がいないということである。何年か前、高校を卒業したばかりの年代の学生にアンケート調査をしたことがあったが、「尊敬する人物は」という設問に対する答えは、スポーツ選手、タレントが大半で、中には「自分自身」などという者さえいた。不幸なことに、自分が目指したいと思う生身の先行モデルに出会うことなく大人になり、人間関係が極めて希薄なまま「未熟な自分の空間」に閉じこもることになるのである。
戦後の日本において、人間の住む生活空間が大きく変化したことも影響していると思われる。家族構成の核家族化とも相関し、平均的日本人の住環境が団地、マンションなどになるにつれて、「扉を閉ざせば外は他人」という閉鎖空間に日本人は身を置くことになった。人間関係に煩わされず快適という面もあるが、「外の人間」との生身の人間関係は確実に希薄になった。程度の差はあるが、箱の中に閉じこもり、テレビが介在する擬似情報、間接情報で世界を認識する傾向を強めたのである。また、急速に加速した「クルマ社会化」も大きな影響を与えたと思われる。クルマも魅力的な閉鎖空間であり、一端ドアを閉めて身を置くと、外の社会は「何時ぶつかってくるかもしれない敵」であり、緊張して構える相手と化す。観察していると気付くが、クルマ社会に埋没している若者ほど他者との意思疎通が苦手であることが多い。
生身の人間との濃い関係を失った人間は相談する人も友もなく漂う。メル友もおしゃべり相手にはなっても、ともに問題解決に立ち向かってくれる存在ではない。本来、教育とは体臭が匂うような至近距離において、若者を突き動かすような存在感を放つ「大人」がなすものであった。教壇に立つ教師だけではなく、親兄弟や親戚、学校や職場の先輩が熱い存在として、若者の未熟性を自覚させ、真剣に考える契機を与えたものである。「半面教師」さえも含め、明らかにそういう存在が無くなっているのである。
歴史軸と空間軸の中で
つまり、我々はいかに物事の本質を深く考えることの難しい環境に生きているかということなのだが、それでも何とか「脳力」を取り戻す方法はないのであろうか。熟慮するに、人間が「脳力」を鍛える方法は、実は幾つかしかないように思われる。
一つは「歴史軸」の中での自分の位置付けを確認する努力である。つまり、歴史の中で自分がいかなる時代を生きているのかを思考することであり、これには文献を読んだり、年長者と粘り強く面談する努力が求められる。過去の先人達が格闘したテーマや事実を確認するうちに人間は謙虚になる。何故ならば、自分が歴史の流れに身を置く「小さいが意味のある存在」であることに気付くからである。
もう一つは「空間軸」の中での思索、すなわち広い世界の中で自分の生きている国や地域が如何なる特色を持つものなのかを確認する営為である。世界で繰り広げられる様々な不幸や不条理を知るにつれて、人間は自分がいかに恵まれており、機会に満ちているのかを知り、思考の重心が下がる。
「歴史軸」「空間軸」などといっているのは、その中での思索を志向するにつれて、自らを相対化させ、客観的に物事を捉える傾向を強めるからである。「脳力」とは、無限の宇宙の中に相対座標を描くような営みであり、自らの自画像を客観視することはそうした知的営為への一歩なのである。そして、常に「現場」に立ち、現実世界に肉薄する中で、問題の抽出と解決に立ち向かうことである。>>
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