★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ48 > 372.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
□政治的に(ぎりぎり)正しいメディア・アート [R30]
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2007/04/post_d6a4.html
政治的に(ぎりぎり)正しいメディア・アート
選挙期間が終わるまでは怖くて(自分も含めて)誰も言い出せなかったのかもしれないが、今回の都知事選で何が面白かったといって、それは「選挙」というものを素材にした、見事な国際的メディア・アートが登場したことであった。そう、「外山恒一の政見放送」である。ここには、ニコニコ動画にアップされたものを転載した、最もサウンド・エフェクトの秀逸なものを1つ貼っておいた。ほかにも、YouTubeで「外山恒一」と検索すれば、さまざまなエフェクトを施された秀逸な動画が無数に視聴できる。
「メディア・アート」の定義については、このブログの2004年11月の記事でも取り上げているし、あるいは東京芸大の藤幡氏のインタビューを読んでもらえれば良い。狭い意味では、「我々を取り巻く新しいメディアやテクノロジーと、我々自身との関わりを意識化しようとする表現の試み」とでも定義すれば良いのではないか。海外ではそこに「社会批判的メッセージが込められていること」という条件が付くようだが、その定義をすべて適用しても、これは完璧な「メディア・アート」であるとしか言いようがない。
外山恒一氏のこの政見放送を「政見放送」として聴た人は、おそらくドン引きしただろうが(ニコニコ動画のコメントにも「はぁ?だったら選挙に出るなよ」といったものが多かったが)、そもそも数十万円から数百万円の供託金さえ支払えば、誰でも複数のテレビメディアを5分間好きなように乗っ取れ、選挙公報の紙面の(朝日新聞の広告単価に換算すれば)1000万円以上の広告価値のあるスペースを利用することができるという仕組みそのものは、今に始まったことではない。
東京都知事選挙は、夜間人口のみならず首都圏の人口を含めれば4000万人以上の人口に対する宣伝が可能で、しかも全国的にも最も注目を集める選挙でもあるため、立候補することによる広告効果は、うまくやれば300万円の供託金をはるかに上回るものが得られる。実際、他の立候補者の顔ぶれを見ても分かるとおり、この制度は当然のようにタレントや個人事業家の売名行為、広告目的に使われており、それは民主主義の代償として仕方ないことであるとはいえ、醜悪なものである。
その点、外山恒一はこの制度を個人の商業目的には使わなかった。のみならず、彼はこの仕組みを利用して、(本人は意図せざる結果だったらしいが)古いメディアと新しいメディアの両方と社会の関わりとを、強烈な批判の俎上に晒してみせたのである。これをメディア・アートと言わず、なんと言おうか。
彼がこの政見放送を「ネタ」として行ったことは、ちょっと考えればすぐ分かることだ。演説の中で「多数派」「少数派」といった、70年代新左翼運動のカリカチュアライズを強く意識したようなレッテル貼りの単語を多用していることでも気づくだろうし、「もし私が当選したら、奴らはビビる!私も、ビビる」と、最後に「種明かし」していることだけでもネタだと分かるだろう。また、右に貼り付けたように、実際に外山恒一に電凸した人のルポルタージュ動画がアップされているので、それを見れば政見放送でのしゃべり方が普段の外山氏本人とはまったく別の「演技」であることも分かる。
この演説を聞いて「こんな危険思想の奴を放置しておいていいのか!」とか憤慨した人は、釣られましたねお疲れ様とお声掛けするしかないわけなのだが、面白かったのはこの動画がちゃっかり中国語、韓国語の字幕までつけられてYouTubeにアップされていたことである。既に消されてしまっているようだが、中国語版を作ってアップした人の紹介コメントが、日本語と中国語の両方で書かれていて、日本語では「私には投票権がないが、こうした問題意識を持っている人がいるということを知って嬉しい。選挙後にぜひ彼とともに革命を起こしたい」とあり、中国語では「こんなに笑える滑稽な政見放送が、日本では公共の電波で放映された」とあったのを見て、この人はジョークの分かる人なのだと思って嬉しかった(韓国語版のコメント欄は残念ながらジョークの通じない人によって荒れているようだが)。この動画が、大衆社会の政治やそれを批判する人々自体をカリカチュアライズしたアートをきちんと許容できる文化レベルがあるかどうかのリトマス試験紙にもなっているところが、興味深い。
そして、国内ではご存じの通り、政見放送という「著作権の生じない著作物」を、ネット上の無料動画共有サイトにアップすることの政治的是非が話題になった。一介の前衛アーティストが、豪快に権力を「釣る」のに成功した瞬間である。これこそ、日本に稀と言われた「社会批判のメッセージが込められた」メディアアートの、金字塔的成果というべきではないだろうか。
今回の外山氏のパフォーマンスを、私は「政治的に(ぎりぎり)正しい政見放送(The Politically Barely Correct Election Broadcast)」と名付けても良いのではないかと思っている。外山氏には、こうしたラジカルなメディアアートに対する理解者が、東京都民だけで1万5000人もいたということを支えに、ぜひ国際的なメディアアーティストとして末永く活動を続けてほしいと期待するものである。
▲このページのTOPへ HOME > Ψ空耳の丘Ψ48掲示板
フォローアップ: