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2007年3月31日発行
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JMM [Japan Mail Media] No.420 Saturday Edition
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▼INDEX▼
■ 『from 911/USAレポート』第296回
「モノからヒトの交流へ」
■ 冷泉彰彦 :作家(米国ニュージャージー州在住)
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■ 『from 911/USAレポート』第296回
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「モノからヒトの交流へ」
アメリカに紹介されている日本文化の筆頭は、何といってもテクノロジーでしょう。
サブカルチャーとか食文化も有名ですが、やはり自動車を筆頭とする日本の機械工業
製品はアメリカ人の生活にはなくてはならないものなっています。15年ほど前には
単に「日本車は壊れなくて燃費が良い」というイメージだけが先行していましたが、
今はその独特の付加価値が支持されています。特にテクノロジーの領域では、ハイブ
リッド車も、アメリカでは導入の遅れたカーナビも、紹介された当初は「本当にそん
なものが普及するのか?」という疑いの目をもって受け止められましたが、今では完
全に消費者の支持を受けています。
ただ私には、その勢いにどこか翳りが感じられてなりません。成功の絶頂にあって
後は下るだけ、という危機感もありますが、私の心配はもう少し具体的なものです。
特に気になるのは「レクサス」の動向です。トヨタの高級ブランドとして依然として
人気は高く、ビジネスモデルとして隙はないように見えます。ただ、今回満を持して
発売した旗艦ともいうべき最高級モデルの「LS」にコンセプトの迷いがあるように
見えてならないのです。LSにオプション設定されている新技術の中に「自動縦列駐
車機能」というものがあり、TVの自動車紹介番組にしても雑誌や新聞のPR記事に
しても、これがセールスポイントになっているのです。
私はこの「自動縦列駐車」を試してはいません。勿論、技術的には相当に詰めたも
のなのでしょう。他社が出す前にトヨタがやって、レクサスに載せるというのも、言
われてみれば自然な判断だと言えます。ですが、私には「自動縦列駐車」というのは
本当に「夢の先端技術」なのだろうか、という点で引っ掛かりを感じるのです。例え
ばV8などの多気筒エンジン、最新型では8段変速という精密なオートマチック・ト
ランスミッション、職人的なチューンを施した足回りなどは、「最高の運転技術」を
持った人が乗る、そんなイメージの中で多くの消費者に「憧れ」を提供し、それが販
売に結びつくのだと思います。
ですが「自動縦列駐車」という「テクノロジー」はどう考えても「運転が最も下手
な人」向けの技術ではないでしょうか。下手な人を助けるためのテクノロジー、それ
も普通の人ならできることが出来ない、しかし高いカネを出すことはできる人向けの
テクノロジーというのは、要するに「夢の先端技術」ではないのです。「格差社会に
おける品格なき奢侈品」に過ぎません。
勿論、これまでのレクサスの成功それ自体が、アメリカの格差社会を意識したマー
ケティングであることは間違いないと言えます。ライバルである、BMWやベンツに
はどこか武骨なモータースポーツの香りがしますし、本田の展開しているアキュラで
も、長期にわたって販売されていた手作りのスポーツカー「NSX」がありました。
その一方で、レクサスは同じ性能といっても、静粛性やスムースさなどを追求してき
たのですから「奢侈品」的な色彩は強かったのは事実です。
ですが「自動縦列駐車」というのは一線を越えています。日本ではプリウスに付け
て立ち上げたこの機能を、アメリカではレクサスの最高級モデルに付けるというの
は、アメリカの「富裕層」が「本当は運転は下手」ということを見抜いたマーケティ
ングなのかもしれません。ですから、あくまでアメリカ市場を「読み切った上での」
戦略で、迷いでも何でもないのかもしれません。
ですが、昨年からは「レクサス」は日本でも展開しているのです。本社のある日本
という市場での「最高の技術を搭載した製品」が「夢のクルマ」ではなく、「カネは
あるが、ヒマはなく、商品知識はないし、商品を活用する技術もない」現代の「富裕
層」に限りなく妥協していったとき、日本の製造業の神話はまた一つ過去のものにな
るのではないか、私にはそんな不安が感じられてならないのです。製造側と消費者の
関係に「過剰なまでの技術的な、そして感性レベルの関心や期待感」がなくなったと
き、付加価値創造のエネルギーは低下するに違いないからです。
だからといって、日本のメーカーが「夢」ばかりを市場に持ち込んでも、簡単には
うまくいかないこともあります。ソニーがフィリップスと組んで、1999年に規格
として提案したSACD(スーパーオーディオCD)などは、CDでは決してできな
かった高音質の音楽再生を可能にした新フォーマットです。CDという「低過ぎるス
ペック」を持ったフォーマットが世界標準として固定する中「音質追求」という付加
価値が消えるとともに、音響製品の製造という一つの産業がほぼ消滅してしまった教
訓を生かして、業界の再興を期した新フォーマットとも言えるでしょう。
ですが、大市場であるべきアメリカでは、このSACDの普及は低迷しています。
ポップスやロックの新譜は全く発売されないばかりか、高音質の魅力が発揮されるジ
ャズやクラシックの新譜の発売もここへ来て一部のレーベルを除くと大幅にスローダ
ウンするか、ほぼ停止状態になってしまいました。ハードの方も、オーディオ専用機
は、2000ドルの高級機がダメ、500ドルという価格帯でもダメ、それをほぼ同
じ設計で150ドルで出したものの、これも売れないらしく一部電器店では88ドル
の投げ売りという状態です。
全国チェーンの「家電量販店」では一時は専門のコーナーがあって、ハードもソフ
トも購入できたのですが、そのコーナーもなくなりました。では、ソフトが高すぎた
のかというと、全くそうではなく、超高音質の金色に光るディスクが一枚14から1
8ドル前後で売られているのです。どうしてこんなことになったのでしょうか。
一つは「高音質の魅力」というものについて、メーカーが提案を怠ったということ
があると思います。音質が良いということが「どう心地よいのか」「何故感動的なの
か」を市場に対して「文化」として訴求することができなかったのでしょう。例えば
日本の音楽ファンならば「低音と高音だけが目立つ音」を「ドンシャリ」といって軽
蔑し、楽器やボーカルの自然な存在感を表現する、それこそ「空気感」のような感性
を追求するのが自然で、そこにSACDの魅力がある、そんなことはすぐに分かるの
ですが、アメリカのような鈍感なマーケットは、まずそうした洗練された感性を「啓
蒙」してから売るという手間が必要だったのでしょう。
もう一つは、アメリカのマーケットの特性です。日本やヨーロッパでは、音楽は日
常であり、その中で高音質の音響機器も実用品として厳しく評価され、また広く普及
しています。ですが、アメリカでは音響機器の市場は二つに分かれているのです。普
及品はひたすらに価格勝負の世界です。ここでは、シスコンやCDラジカセが究極の
デフレ現象とともに去り、今はこれまた値崩れの激しい薄型TVと映画観賞用の「D
VDシアターセット」とMP3関連だけしか売れません。
そこで高級オーディオ(一本500ドル以上のスピーカなど)は専門店で売られる
ことになるのですが、この専門店というのは多くの場合、富裕層向けに家庭内シアタ
ーの「内装工事」を主要なビジネスにしている店がほとんどで、オーディオ機器につ
いては「工事の延長としての備品」的に扱われながら「高級感のある奢侈品」として
「全く耳の肥えてない」お客に売られていく、そんな位置づけなのです。
これではSACDの普及する余地はありません。結果的に日本の洗練されたテクノ
ロジーの魅力はここでは全くと言っていいほど受け入れられていないのです。アメリ
カでは日本のような質の高い音楽雑誌やオーディオ雑誌がないのもこうした事態を象
徴しています。書店などで見かける専門誌はほぼ100%英国の出版物です。私がレ
クサスの将来に関して一抹の不安を抱くのはこうした状況があるからです。先端技術
を奢侈品にしてはダメです。最終的に市場は限定されてしまうからです。
日本のテクノロジーが普及する勢いに翳りが見える一方で、反対に期待されていい
のは「日本のヒト」の進出でしょう。非常に大きなスケールで考えますと、モノでは
なくサービスやライフスタイルといった「形には残らない」部分で、日本文化がアメ
リカ市場に影響を与えていく、モノの次に来るのはそうした流れなのではないかと思
うのです。現在のところ、そのような「顔の見えるヒト」という形での日本人はアメ
リカでは限られていますが、そんな中で、今回ボストン・レッドソックスに入団した
松坂大輔投手に対するアメリカ野球界の「熱狂ぶり」は特筆に値すると思います。
松坂投手の「顔=キャラクター」とは何なのでしょう。それは先発投手という役割
に関する圧倒的なプライドと責任感、そしてそれを支える練習量という点がまず挙げ
られます。ボストンの新聞『ボストングローブ』の有名な野球記者であるジャッキー
・マクマラン女史は「アメリカがダイスケを変えるかもしれない」が同時に「ダイス
ケはアメリカのピッチングというものを変えるかもしれない」と語り、「多分、その
中間になると思いますよ。そしてそうであって欲しいですね」と言いつつも「ダイス
ケがアメリカ球界にもたらした激震」を延々と述べていました。ちなみに彼女の予想
(松坂投手の今年の成績)はズバリ「18勝」だそうです。
私はチームが勝ち続ける中でファンも一体になって盛り上がるのが、野球の楽しみ
だと思うので、先発投手の投球数は110球ぐらいに限って後はセットアッパーとク
ローザーに託す野球で良いと思います。そうは言っても先発の意味合いが軽いという
わけではありません。先発への期待は大きいのです。ですが、ここ数年のMLBでは
先発のスターは不足気味ですし、そもそもシーズン20勝というような成功例は少な
いわけで、そんな中、これだけの存在感を持った「完成された先発ピッチャー」に注
目が集まるのは自然だと言えるのでしょう。
そのような流れの中で、松坂投手への関心というのは、単に日本野球への関心だけ
ではなく「日本人という人間」へのアメリカ人の関心の現れとして出てきている、そ
う言って良いのではないかと思います。その意味で、今週行われたボストンなどの記
者と松坂投手の「昼食会」というのは興味深いものだったようです。ボストンのメデ
ィアが伝えるところでは、松坂投手の好きな女優は「アンジェリーナ・ジョリー」だ
そうで「これは仲間が一杯いそうだ」と書かれていますし、好きな映画にはメグ・ラ
イアンとビリー・クリスタルのラブコメの古典『恋人たちの時』を挙げて感心されて
いるようです。
映画の方はどうやら奥さんの趣味のようですが、それはさておき、こうした形で
「日本人」というヒト、そしてそのヒトによるサービスがアメリカという社会で「顔
の見える」ような形で広まっていく時代になってゆくに違いありません。そこで浮か
び上がってくる「異質性」は悪いことでも何でもなく、ドンドン主張してゆくこと
で、むしろ一人一人の人格の輪郭としてコミュニケーションを助けてくれるのではな
いでしょうか。
一方で、開幕を直前に控えた時点での、パイレーツの桑田真澄投手の負傷は何とも
残念なニュースでした。負傷と言う事件も残念ですが、その受け止め方、伝えられ方
についても、私は落胆を禁じえません。結論から言えば、桑田投手は全く責任はない
ばかりか、称賛されるべきだと思うからです。
事故は、ランナーを一塁に背負う中で、センター前にヒットを打たれた局面で起こ
りました。衛星放送経由のNHKの映像(二種類違った角度のものを見ました)によ
りますと、桑田投手は打球が中堅手の前に落下したのを確認した途端に、バックアッ
プのためにまっすぐ三塁後方へ走っています。その素早さ、スムースさもさることな
がら、視線はボールの行方を捉えながら、正確に中継プレーでボールが来るコースの
延長線上に向かっていました。
そこへ巨漢の主審が突入してきたのです。この試合は報道によると三人の審判で運
営されており、三塁塁審は一二塁でのジャッジのために離れていたので、本塁塁審が
三塁での判定に向かっていたのです。結果としては、二人が交錯してしまい転倒させ
られた桑田投手は負傷してシーズンの開幕をマイナーの「故障者リスト」で迎えなく
てはなりませんでした。
一部の報道では、桑田投手が「審判三人制」に慣れていなかったとか、そもそも桑
田投手本人もインタビューの中で「不注意だった」と言わせられています。ですが、
子供の野球からプロに至るまで「アメリカの野球」を十年以上見続けている私にして
みれば、アメリカの選手が「審判三人制」に対応するための練習なり注意をしている
かというと、そんなことは全くないのだと思います。
そもそも、アメリカ野球では「バックアップ」を重視しないのです。勿論、高校の
一部と大学野球ではちゃんと練習しますし、プロの野手は守備能力を自分でトレーニ
ングをして鍛える中で、バックアップもちゃんとメニューの中に入れていると思いま
す。ただ、最近は日本野球のように守備の基礎動作の中にシステム的に組み込まれて
はいないのです。特に中学以下の野球ではあまり重視しなくなっています。
その姿勢も「仲間を信用しない行為だから重視しない」というような積極的なもの
ではなく、とにかく軽視しているのです。ですから、観客も「良いバックアップだっ
た」というような評価はあまりしません。そんな中、桑田真澄という人は、バックア
ッププレーを重視する日本球界にあって、「無形重要文化財」レベルの投手守備を誇
る職人中の職人なのです。
要するに、桑田投手のバックアッププレーは「隠れたファインプレー」であって
「不注意」でも何でもありません。角度的にもよけるべきなのは審判であり、「あん
なに早くバックアップに来るとは思わなかった」というのが真相でしょうし、それに
加えてVTRでは衝突直前に桑田投手の方をチラっと見ていたにも関わらず止れなか
ったというのは審判の「慣性質量」が大き過ぎたということでしょう。
アメリカの標準からすると桑田投手の素早いバックアップは、ある種日本野球にあ
る「過剰さ、異質性」なのかもしれません。ですが、この「異質性」というのは称賛
されこそすれ、責められる筋合いのものではないのです。現在の桑田投手は、治療と
リハビリに専念する中での忍耐の日々には違いありませんが、とにかく一日も早くマ
ウンドに戻って、その職人的な投球とフィールディングをアメリカ野球に持ち込んで
欲しいと思います。
松坂投手にしても、桑田投手にしても、そして大リーグ移籍の「先駆者」である野
茂投手にしても、「顔の見える日本人」としてリスクを取ってアメリカの人々とのコ
ミュニケーションを続けていると言っていいでしょう。そう考えると、技術力を誇る
日本の製造業が、どちらかといえば「日本という顔を隠して」ビジネスを続けている
というのは異様に見えてきます。
SONYにしてもレクサスにしても、実に無国籍なブランドです。アメリカで人気
絶頂の評論家トーマス・フリードマンが90年代のベストセラー『レクサスとオリー
ブの木』の中で、レクサスをグローバリゼーションの象徴として描いていたのは有名
ですし、その無国籍さ、つまり各国の文化や技術をブレンドして浄化・洗練したのが
日本のテクノロジーだ、というのは分からないではありません。
それに、仮に政治的な問題で両国関係が冷え込んでも、ブランドが「日本っぽくな
い」のであればダメージも少ない、経営側にそんな読みもあるのかもしれません。そ
れ以上に、第二次大戦の枢軸国だったり、アジアの異民族・異教徒の国であったりす
る「日本」という顔は隠しておいた方がトク、そんな計算が染みついているのかもし
れないのです。
ですが、どんなに強固な信頼を勝ち得ていても、顔を隠していたのでは「イザ」と
いうときには脆いのではないでしょうか。もしかすると日本のテクノロジーがこれ以
上の米国市場進出をしよう、とりわけ更なる高付加価値製品を使用法、いやその製品
を使っていく文化や価値観の提案をしようと考えるのならば、胸を張って自分たちの
「顔」を明らかにする必要があるのではないか、そんな風に思うのです。
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冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)
作家。ニュージャージー州在住。1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大
学大学院(修士)卒。著書に『9・11 あの日からアメリカ人の心はどう変わった
か』『メジャーリーグの愛され方』。訳書に『チャター』がある。
最新刊『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)
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JMM [Japan Mail Media] No.420 Saturday Edition
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【発行】 有限会社 村上龍事務所
【編集】 村上龍
【発行部数】128,653部
【WEB】 <http://ryumurakami.jmm.co.jp/>
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