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大江健三郎という病 [池田信夫 blog]
http://www.asyura2.com/07/bd48/msg/291.html
投稿者 white 日時 2007 年 4 月 04 日 00:45:30: QYBiAyr6jr5Ac
 

□大江健三郎という病 [池田信夫 blog]

 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/511455fcb6a86af7b6b9118d517e03ea

大江健三郎という病
2007-04-03 / Culture

第2次大戦末期の沖縄戦で、日本軍が住民に集団自決を命じたという記述が、今年の検定で教科書から削除するよう求められた。その理由として文部科学省は、慶良間守備隊長だった赤松嘉次元大尉の遺族らが大江健三郎氏と岩波書店を相手どって起こした訴訟をあげている。大江氏は『沖縄ノート』(岩波新書)で次のように記す:

****
新聞は、慶良間諸島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男[赤松元大尉]が、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。[...]かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう。(pp.208-211、強調は引用者)。
****

といった独特の悪文で、たった一つの新聞記事をもとにして、赤松大尉を(ナチの戦犯として処刑された)アイヒマンにたとえて罵倒する妄想が8ページにわたって延々と続く。この事実関係は、1973年に曽野綾子氏が現地調査を行なって書いた『ある神話の背景』で、完全にくつがえされた。赤松大尉は住民に「自決するな」と命じていたことが生存者の証言で明らかにされ、軍が自決を命じたと申告したのは遺族年金をもらうための嘘だったという「侘び証文」まで出てきたのだ。

にもかかわらず、大江氏と岩波書店は、それから30年以上もこの本を重版してきた。彼らの人権感覚は、どうなっているのだろうか。訴訟に対しても、彼らは「軍が命令を出したかどうかは本質的な問題ではない」とか「この訴訟は歴史に目をおおう人々が起こしたものだ」などと逃げ回っている。おわかりだろう。慰安婦について事実関係が反証されたら「強制連行は本質的な問題ではない」と論点をすりかえる朝日新聞と、岩波書店=大江氏の論法はまったく同じなのだ。

では彼らにとって本質的な問題とは何だろうか。それは戦争は絶対悪であり、軍隊のやることはすべて悪いという絶対平和主義である。沖縄で日本軍を糾弾した大江氏は、なぜかヒロシマでは原爆を落とした米軍を糾弾せず、被爆者の「悲惨と威厳」を語り「人類の課題」としての核兵器の恐怖を訴える。そういう少女趣味が「革新勢力」をながく毒してきた結果、まともな政治的対立軸が形成されず、自民党の一党支配が続いてきた。

こういう人々を「自虐史観」と呼ぶのは見当違いである。彼らは日本という国家に帰属意識をもっていないからだ。大江氏のよりどころにするのは、憲法第9条に代表されるユートピア的国際主義であり、すべての国家は敵なのだから、彼らの反政府的な議論は他虐的なのだ。社会主義が健在だった時代には、こういう国際主義も一定のリアリティを持ちえたが、冷戦が終わった今、彼らの帰属する共同体はもう解体してしまったのである。

戦争を阻止できなかったという悔恨にもとづいてできた戦後の知識人の仮想的なコミュニティを、丸山真男は悔恨共同体とよんだ。彼らは戦争になだれ込んだ原因を近代的な個人主義や国民意識の欠如に求めたが、それは冷戦の中で「ナショナリズム対インターナショナリズム」という対立に変質してしまった、と小熊英二氏は指摘している。

左翼的な言説の支柱だった国際主義のリアリティは冷戦とともに崩壊したが、彼らはそれをとりつくろうために「アジアとの連帯」を打ち出し、他国の反日運動を挑発するようになった。ネタの切れた朝日=岩波的なメディアも、「アジアへの加害者」としての日本の責任を追及するようになった。1990年代に慰安婦騒動が登場した背景には、こうした左翼のネタ切れがあったのだ。

しかしこういう転進(敗走)も、袋小路に入ってしまった。大江氏のように「非武装中立」を信じている人は、数%しかいない。韓国や中国に情報を提供して日本政府を攻撃させる手法も、かえって国内の反発をまねき、ナショナリズムを強める結果になってしまった。当ブログへのコメントでも、朝日新聞が他国の反日運動と結託しているという批判が強い。

社会主義は1990年前後に崩壊したが、それに寄生していた大江氏のような精神的幼児や、さらにそれに依拠していた朝日=岩波的メディアは、まだ生き残っている。彼らが退場し、その子孫である団塊の世代が一線から退いたとき初めて、人類史上最大の脇道だった社会主義を清算できるのだろう。


▽関連記事

岩波書店と大江さんを提訴 「軍が自決命令」の記述で・・・死人にくちなし?
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/416.html
投稿者 rand 日時 2005 年 8 月 05 日 17:48:38: vXAQEWfi3V9qE

沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損 [産経Web]
http://www.asyura2.com/0505/nihon17/msg/225.html
投稿者 ルルルン 日時 2005 年 7 月 25 日 18:58:17: si3L7.Y5BxRDo


□「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん [産経新聞]

「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん

第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた
住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の
援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、
産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を
適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。
当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。
渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、
信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。
琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、
軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。
 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で
旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や
弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。
この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、
集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。
 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、
軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。
村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた
赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。
 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、
日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は
準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。
 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。
赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。
 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、
昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに
軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。
作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、
赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果を
まねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。
 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書
「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。
平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、
損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、
謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)
                  ◇
【用語解説】渡嘉敷島の集団自決
 沖縄戦開始直後の昭和20年3月28日、渡嘉敷島に上陸した米軍から
逃げた多数の住民が、島北部の山中の谷間で手榴(しゅりゅう)弾のほか、
鎌(かま)、鍬(くわ)などを使い自決した。
武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞め、肉親を殺害した後に
自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。渡嘉敷村によると、
現在までに判明している集団自決の死者は315人。
【用語解説】戦傷病者戦没者遺族等援護法
 日中戦争や第二次大戦で戦死、負傷した軍人や軍属、遺族らを
援護するため昭和27年4月に施行。
法の目的に「国家補償の精神に基づく」と明記され、障害年金や遺族年金、
弔慰金などを国が支給する。サイパン島などの南方諸島や沖縄で
日本軍の命を受けて行動し、戦闘により死傷した日本人についても
戦闘参加者として援護対象とされている。
                  ◇
≪「大尉は自ら十字架背負った」≫
 「大尉は、自ら十字架を背負ってくれた」。沖縄戦の渡嘉敷島で起きた
集団自決の「軍命令」を新証言で否定した元琉球政府職員、照屋昇雄さん(82)。
島民が年金や弔慰金を受け取れるようにするために名前を使われた
赤松嘉次元大尉は、一部マスコミなどから残虐な指揮官というレッテルを張られてきた。
照屋さんは、自分のついた「うそ」で、赤松元大尉が長年非難され
続けてきたことがつらかったという。
 赤松元大尉は昭和19年9月、海上挺身隊第3戦隊の隊長として渡嘉敷島に赴任した。
任務は120キロ爆雷を積んだベニヤ製特攻艇を使った米艦船への体当たり攻撃。
ところが、20年3月の米軍主力部隊上陸前、作戦秘匿を理由に出撃前に
特攻艇の自沈を命じられ、終戦まで島内にとどまった。
 戦傷病者戦没者遺族等援護法では、日本軍の命令での行動中に死傷した、
沖縄やサイパンの一般住民は「戦闘参加者」として準軍属として扱うことになっている。
厚生労働省によると、集団自決も、軍の命令なら戦闘参加者にあたるという。
 照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、
戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、
自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。
 こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、
厚生省(当時)は32年5月、集団自決した島民を「戦闘参加者」として認定。
遺族や負傷者の援護法適用が決まった。
 ただ、赤松元大尉の思いは、歴史の流れのなかで踏みにじられてきた。
 45年3月、集団自決慰霊祭出席のため渡嘉敷島に赴いた赤松元大尉は、
島で抗議集会が開かれたため、慰霊祭に出席できなかった。
中学の教科書ではいまだに「『集団自決』を強制されたりした人々もあった」
「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を
強制した」(日本書籍)、「なかには、強制されて集団自決した人もいた」
(清水書院)と記述されている。
 渡嘉敷村によると、集団自決で亡くなったと確認されているのは315人。
平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、
「軍命令」とは一切刻まれていない。渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた
末の文章だという。村歴史民俗資料館には、赤松元大尉が
陸軍士官学校卒業時に受け取った恩賜の銀時計も飾られている。
 同村の担当者は「命令があったかどうかは、いろいろな問題があるので、
はっきりとは言えない。しかし、命令があったという人に実際に
確認するとあやふやなことが多いのは事実。島民としては、
『命令はなかった』というのが、本当のところではないか」と話した。
 今回の照屋さんの証言について、「沖縄集団自決冤罪(えんざい)訴訟を
支援する会」の松本藤一弁護士は「虚偽の自決命令がなぜ広がったのか
長らく疑問だったが、援護法申請のためであったことが明らかになった。
決定的な事実だ。赤松隊長の同意については初めて聞く話なので、
さらに調査したい」とコメント。昨年、匿名を条件に照屋さんから話を
聞いていた自由主義史観研究会の代表、藤岡信勝拓殖大教授は
「名前を明かしたら沖縄では生きていけないと口止めされていたが、
今回全面的に証言することを決断されたことに感動している。
また一つ歴史の真実が明らかになったことを喜びたい」と話している。
 照屋さんは、CS放送「日本文化チャンネル桜」でも同様の内容を証言。
その様子は同社ホームページで視聴することができる。
                  ◇
≪「真実はっきりさせようと思った≫
 照屋昇雄さんへの一問一答は次の通り。
 −−なぜ今になって当時のことを話すことにしたのか
 「今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。
真実をはっきりさせようと思った」
 −−当時の立場は
 「琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員の立場にあった。
以前は新聞記者をしていたが、政府関係者から『援護法ができて、
軍人関係の調査を行うからこないか』と言われ審査委員になった。
私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、
援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べた」
 −−渡嘉敷ではどれぐらい聞き取り調査をしたのか
 「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」
 −−その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか
 「1人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」
 −−ではなぜ集団自決をしたのか
 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴(しゅりゅう)弾が
渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。
隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。
座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。
沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、
家族みんなで死のうという考えがあった。
さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、
という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、
どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」
 −−集団自決を軍命令とした経緯は
 「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長も
われわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。
南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。
でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。
『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、
厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」
 −−赤松元大尉の反応は
 「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、
十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。
喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら
『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と
言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」
 「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を
命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』と
いったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るために
こんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。
私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに
『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」
 −−住民は、このことを知っていたのか
 「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」
 −−あらためて、なぜ、今証言するのか
 「赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に『私は3カ月しか命がない。
だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。
でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。
赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび
『悪いことをしました』と手を合わせていた。
赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、
胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。
赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」

(産経新聞  08/27 08:37)

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