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□なぜベルリンの壁があいたのか−「善き人のためのソナタ」について [萬晩報]
http://www.yorozubp.com/0703/070308.htm
なぜベルリンの壁があいたのか
−「善き人のためのソナタ」について
2007年03月08日(木)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口坦
アメリカ人にはドイツ映画が芸術的で敬遠される。映画館に来てもらわないと駄目で、だから私は米国のいろいろな町でそうでないことを訴えた」と語ったのは、最近アカデミー賞・外国語映画賞を受賞したドイツ映画「善き人のためのソナタ(邦題)」のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督である。たしかに受賞映画はスリラー仕立てで、また3人の男性を魅了する美しい女性が登場するメロドラマである。
■二つの物語
日本でのこの映画の宣伝文句の中に「冷戦下の東ベルリン。壁の向こうで何が起こっていたのか。ようやく明かされた監視国家の真実」とあるが、「ようやく明かされた」は少し誇張である。というのは、冷戦下共産主義国家には秘密警察があって監視国家だったことや、特に東独にはシュタージ(国家保安省)という優秀な監視組織があったことは誰もが知っていた。冷戦時代東ドイツを訪れる日本人にはよくその存在が感じられた。
映画の主人公は、東独の監視組織・シュタージのヴィースラー大尉である。彼は劇作家ドライマンの住居内の会話を盗聴するように命じられる。体制べったりのこの作家が監視されるのは政治的理由からではない。彼は女優のクリスタと同棲しているが、彼女と性的関係をもつようになった権力者のヘンプ大臣が横恋慕から劇作家の反体制活動の証拠を見つけさせてライバルを排除してこの美しい女優を独占したいからである。
映画のドイツ語タイトルは「他人の生活」である。ここで「他人」とはヴィースラー大尉に監視されるドライマンとクリスタである。映画は簡単にいってしまうと二つの物語からできている。監視される劇作家と女優の同棲生活が監視者に「他人の生活」でなくなり、その結果彼は介入し、窮地に陥った二人を助ける。この人助けの話が第一の物語である。第二の物語は東西ドイツ統一後の話で、第一の物語の後日談である。監視されていたことも、またそのために助けられていたことも知らなかった劇作家ドライマンがそのこと知り、この助けてくれた人にお礼する話である。
第一の物語からはじめると、ヴィースラー大尉は、権力を恐れる女優のクリスタに酒場で話しかけてヘンプ大臣の性的関係の強要に屈しないように勇気づける。また彼は、劇作家ドライマンが、(当時東独にあるタイプライターはすべてシュタージに把握されていたので)西ドイツのシュピーゲル誌から提供されたタイプライターで体制批判的な評論を書いて発表するのを阻止しないどころか、報告の中で嘘までついてかばう。挙句の果てには、彼は証拠隠滅することによって窮地に陥ったクリスタとドライマンの二人を助けようとする。
■納得できない点
この映画を見て「どうして筋金入りのシュタージ男が変貌してクリスタとドライマンの二人にやさしくなったのか、今ひとつ納得しにくかった」という人は少なくない。日本でこの映画をみた友人もそういったし、ドイツでもそう感じた人がいる。
ヴィースラー大尉は、経験豊富で有能であるだけでなく、眼に見えない戦線」で「社会主義の敵」に対して戦わなければいけないと確信する人物として描かれている。映画の冒頭での国家保安省の後進を前に尋問のしかたについて彼がする講義や、劇場ではじめてドライマンを見たときの彼の反応からそのようイメージが観客に植えつけられる。
友人の演出家・イェルスカが自殺した知らせを受けた劇作家のドライマンは彼からプレゼントされた「善き人のためのソナタ」をピアノで弾く。この演奏を屋根裏で盗聴するヴィースラーの頬を一滴の涙が流れる。でも筋金入りのシュタージ男がこのソナタを聞いたことで変わったとは考えにくい。その前にヴィースラー大尉が変化していたために、そのように反応したと考えるほうが自然である。主人公の内面的変化を理解するためには、ソナタのメロディー以上に、題名や、楽譜をプレゼントした演出家の人物像、また時代背景、登場人物の発言といったいろいろなことを考慮するべきことを映画は期待しているのではないのだろうか。
反体制派の演出家イェルスカには10年近くも仕事が来ない。彼は西側へ逃げれば演出家として活動できるのにそうしない。それは彼が社会主義を正しいと思っているからである。ドライマンの誕生パーティーで彼が誰とも口をきかずに読んでいたのは黄色い表紙のブレヒト詩集である。ドライマンの住居に忍び込んだヴィースラー大尉が失敬して自宅で読むのもこのブレヒト詩集である。東独ではいろいろな詩人が読まれていたのにどうしてブレヒトなのだろうか。
社会主義のために東ドイツから出て行こうとせずに自殺した演出家、彼がくれたソナタの題名にある「善き人」、そしてブレヒトとを並べたら、彼の戯曲「セチュアンの善人」を連想する人が少ないかもしれない。1939年から40年にかけて書かれたこの戯曲の中でブレヒトは、「善き人」であれと説教をすることの無意味をしめし、「善人」であることを不可能にする社会(=資本主義)の変革しかないことを暗示しているといわれる。この変革が実現して倫理が体制に置き換えられるようになった社会で、今度善悪が問題になったらブレヒトに回帰して、考え直すしかない。その結果、例えばヴィースラー大尉が善悪についての立場を変更しても不思議でない。
ブレヒトを持ち出さないでも、ヴィースラー大尉の変貌がある程度まで理解できる。忘れてしまった人がたくさんいるかもしれないが、マルクス主義は20世紀長いあいだ人類解放の思想とみなされて、「善き人」の理想を体現していた。ヴィースラー大尉は筋金入り共産主義者だったからこそ、「善き人」であること不可能にする東独体制を裏切ってクリスタとドライマンを助けようとした。ベルリンの壁があく前後、私は東独で多数の反体制市民運動家と接する機会をもったが、彼らの大多数は映画の中の演出家イェルスカに似た社会主義者であった。
統一ドイツで流布している解釈では、東独国民が西ドイツのデパートで買い物したいために東独体制が崩壊したことになっている。でもこれは、資本主義体制の強さを強調する西独「戦勝国史観」である。でも本当にそうだったのだろうか。
1989年11月9日23時30分、ボルンホルマー通りの東西ベルリンの検問所で国境警備員とシュタージ関係者が群がる東ベルリン市民に対してゲートをあけた。彼らが威嚇のための発砲をしないでそうしたのは、ヴィースラー大尉に似て自国民を「社会主義の敵」と思うことができなくなっていたからである。とすると、ベルリンの壁の崩壊をもたらしたのは、体制側にいてどちらかというと社会主義の理想を追うほうの人々が体制を支えなくなったからである。このように考えると、「善き人のためのソナタ」は今まで強く意識されなかった歴史の側面に関心を向けさせる映画ということになる
■人間的視線
ここまでは第一の物語である。その後日談・第二の物語では、盗聴されていたことも知らなかった劇作家のドライマンが統一後シュタージの自分についての調書を読み、それまで知らなかったことをいろいろ知る。愛人クリスタは大臣ヘンプの密告でシュタージに逮捕されて「非公式協力者」にされていて、シュピーゲル誌掲載記事の作者の正体も、タイプライターの隠し場所も自白してしまっていた。ところが、当時家宅捜査したシュタージはタイプライターを見つけることができなかった。それはなぜか。
ドライマンは、調書の最終頁に指についた赤インクの跡を見て、それがシュピーゲル誌から提供されたタイプライターの赤リボンから来たと直感する。というのは、当時タイプライターを隠し場所から出し入れすると赤インクが彼の指について用紙を赤く染めたからである。とすると、調書作成者・シュタージ監視員のHGW XX/7こそ、タイプライターを別の場所に移し証拠をなくして彼を救った人間になる。ドライマンは「善き人のためのソナタ」という小説を書き「HGW XX/7に感謝を込めて捧げる」という献辞をしるす。ある日、本屋の前を通りかかった元シュタージ監視員のヴィースラーが「自分のための本」であることを知る。これが、お礼するという二番目の物語で、ラストシーンが感動的である。
ヴィースラー大尉は劇作家ドライマンの盗聴・監視の後、地下室で西側から来た手紙をあける作業にまわされる。これは、上司の文化部長グルービッツ中佐から疑いをかけられて降格させられたからだ。統一後は、彼は宣伝物を郵便受けに投げ込む仕事をしている。これは郵便配達よりも収入も低い仕事である。それでは、映画の中でどうしてヴィースラーは統一後の社会の下積みとして描かれているのであろうか。これは映画が発信しようとするメッセージと無関係でない。
映画の前半にグルービッツ文化部長とヴィースラー大尉がシュタージ・従業員食堂で交わす会話がそれについて考えるヒントを提供してくれるかもしれない。ちなみに二人は同期の間柄で、教育期間中ヴィースラーのほうがよい成績であったが、グルービッツのほうが出世し、現在では上司と部下の関係にある。
大臣の横恋慕のために劇作家を監視しなければならなくなったことに不満なヴィースラーが「私たちがシュタージに入ったときに『党の盾と剣』になると宣誓したの憶えているか」と尋ねる。それに対して、グルービッツは「でも党とは党員以外のなにものでもない。党員が大きい影響力をもてばもつほどいい」とこたえる。この考え方に立ったら、党の政治目標などどうでもよく、また入党することは影響力を行使するためで、党とは権力を行使するだけの利益集団になる。でもこれは東独だけのことでない。
統一後のドイツ社会で上昇気流に乗ったのはグルービッツ・タイプの人たちで、ヴィースラーのような人々は底辺に沈んだままであることが多かった。今まで注目されなかったこのような人々に人間的な視線を向けたことも、この映画の重要な功績である。
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