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□マルクス主義は終末思想である [新平家物語]
http://blog.goo.ne.jp/kakattekonnkai_2006/e/161ea8363a05a0ded4e23d35d463e6e2
マルクス主義は終末思想である
都知事選のことだが、他人事ではござらんばい。拙者も都民の一人につき選択権(投票権)がある。そこで候補者の面構えなりを比べて見て、今後の推移を予想してみるに、吉田、黒川の両氏は泡沫である。浅野殿が出馬すれば石原氏の3分の1程度の票は取れるであろう。拙者なにも、石原氏の肩を持つつもりはないが、現在の石原氏に勝てそうな日本人といえば・・・そうさなぁ・・・前総理小泉純一郎殿または芸人みのもんた氏と、この両名しかいないと断言しておく。タモリという声も聞こえるが、タモリでは明らかに力不足が否めない。それに今回の都知事選に限っては、公認非公認をはじめ政党の言動は最初から、まったく関係がなくなってしまった。これも最初に石原氏が敷いたレールであったわけで、ようするに今回の選挙も石原氏があらかじめ作った土俵の上で各政党および各候補者がフンドシ一本で踊りおどってみるだけのことである。
選挙は、すでに石原氏の独壇場と化している。そこで拙者の選択権行使の件だが、誰に一票を投じてよいやら、迷いに迷っている。はっきりしていることは、戦前から、これだけ一方的な勝利が予想される石原氏に我が一票を与えるのもしゃくである。彼を毛嫌いしているわけではないが、結果が分かっている選挙戦も少しは面白しろくしていおいたほうが、なんぼか民主主義の学習と言えるだろう。そこで悩みに悩んだ末に選択の一つとして共産党が浮かんだ。共産党とは昔ながらのよしみがある。吉田候補に死票を投ずるのも一興なりや冥土の土産だワンカップ。
演歌界なんか、とっととつぶれちまえばいいんです。その手の候補が乱立(なんとかヒデヨシとか)によって・・・大体ですね、SFすら書けない想像力皆無の似非作家(この国は私小説に権威もたせすぎ)の石原は埋没すると、いうわけです。
私小説がはばを利かせているのが、わが国の文書文言好悪の感であることは確かでしょうが、演歌も同じですよ。日本語が消えないかぎり私小説も、演歌も消えることはないでしょう。文学は言語と歴史に準ずるものです。もともとわが国の文学は歌(和歌)が柱なのです。私小説とは和歌に毛の生えた程度の代物でしょう。西洋仕込みのノベルやフィクションはお門違いだったのかもしれません。それに慎太郎氏は、小説家ではありゃしませんぜ。彼は根っからの政治家なのでがす。政治家になるために、若い頃、人気取りのために小説を書いてみたというあたりでしょう。それが功を奏したわけですたね。都政はシンタロガリにまかせておけばよいのだす。あれで、けっこう国を相手にケンカしてますぜ。他の誰にできましょう。
仮に、言語レベルに還元出来る「文化」はその通りだとしても。すでに私達は西洋にファックされている。もうナショナルな主義には逃避できません。何故そうなのか。それは西洋がそれまで未知だった快楽を刺激からでしょう。日本語の言語レベルでは還元出来ないビートで勝手にケツが振り振りし、グルーブする事を知ってしまえば、後戻りなど出来ない・・・もう欲情に身を任せるしかないのだ。
あなたが端的に「西洋にファックされた」と断言されているのは、拙者にもよく分かる話でござる。結局、この問題は明治以来、東洋人なら誰しもが苦悩させられてきた問題なのだと思っている。今日に至っても、なお一世紀前の福沢諭吉や内村鑑三その他当時の識者が悩んでいた問題を、われわれは解決していないのでごじゃる。これは文学や言語、演歌の問題に矮小化できない、精神や生活全般に及ぶ問題に他ならない。数千年の歴史とホラをふく中国のことはいざ知らず、東洋の中で、まっさきに西洋に向かって、尻を突き出し、挙句の果ては西洋に強姦されて喜悦した日本は、いまだに日常的に被強姦者である運命の下にあるのかもしれない。
黒船来航は、被強姦の嚆矢となった。以来、このときに植えつけられたトラウマから、われわれは自由になっていないのである。自立に向かって、よりすがるべき信仰の先行きもわからない。黒船に色目を使って生き延びようとした、われわれの先祖は、その時点までに、先行してきた自前の文化は、意識的に捨ててきてしまった。ここに豊かな伝統は途絶えた。以後、全土を対象にむやみに英語化したりキリスト教化する俗論が何度と無く飛び出してきたが、これらすべてが無理難題であることが、ここにきてようやく分かってきたのである。
分かっていない一群の馬鹿がいる。教条左翼である。かれらは西洋をモデルとする近代主義の尖兵の役割を果たしてきた。福沢の悩みも内村の悩みも、彼らは頓着しなかった。資本論さえ、読めれば夢を見続けられると豪語してきた。本さえあればよいというのが、彼ら教条主義者の元祖である。ここにも西洋にファックされてよしとする思想が満載されている。彼らは歴史を顧みることをいっさいしない。前方しか見ることはできない生産力至上主義であり、その内実たるや資本主義の走狗と化していたのだ。
いずれにしても人類の前にあるのは、近代の終焉を用意する墓場である。社会が進展していくことは、おのずと墓場に向かわざるをえない道理が隠されている。近代こそ人類の最後である。近代が終われば人類は死に絶える。マルクス主義は、この事実から目をそらし近代初頭に植えつけられた「人類こそ世界の覇者である」とする独善的かつ進化論的体系運動に、いまだに何の疑問も抱いていない。唯物論とはよく言ったものだ。だが、どんなに唯物論が流行っても、人間から精神を抜き去ることはできまい。人間、知れば知るほど何が分かるのか。慧眼は何を見せてくれるのか。誰にも、将来のことは見えないのだ。過去の歴史こそ見えてくるのである。知恵の源泉は過去にしかないと断言しておく。
われわれの過去は、われわれだけのものだ。日本の歴史は、日本人のものだ。歴史の中にこそ価値あるものが豊穣に隠されている。未来は貧しいのである。貧しくなる一方なのだ。社会は人を貧しくする。人っ子一人一匹残らず、矮小にしてしまう。大なり小なり「社会」というものを構成してしまった人間の原罪が、ここにある。人間がみな、子どもであった昔、さらに大昔・・・それをよみがえらせろ。われわれが豊かな生き物であった事実を思い知るに違いない。
過去には帰れません。それとも、また鎖国しようとでも?
鎖国もよいと心から思っています。だが、生活が成り立たないでしょうね。物資的計量的な生活水準を下げることだけは、誰しもが嫌がりますからね。一度達成された欲望の数値を下げることは、できないものです。賃金が下げることは市民が許さないでしょう。彼らは総じて生産力至上主義ですから。生めよ増やせよの思想は左翼の唯物論ですが、いまや唯物論は世間に蔓延しています。科学とか技術という美名がそれにあたるでしょう。みんさん、科学好きで、知識好きではありませんか。なんとか教養を高めたいと生涯学習に励んでいる。これも欲望が、そうさせているのです。これら欲望発散システムも、ひとたび勝ち取った水準から、一歩たりとも退いては沽券にかかわるとでも思っている。労働者も市民も、右翼も左翼も、資本家と同じですよ。だから鎖国はできません。経済活動ができなくなる。食いたいものが食えなくなる。鎖国するのは私だけでよいです。
温故知新というが、それぐらいでは間に合わないのだと思います。かのマルクスも、普段に歴史が前に前にと進むことに不安を残していた。なぜ、芸術というものは、経済や新しい生産体制、教育体制にともなって前進しないのだろうと。次のように・・・。
わわれわれは、力学などにおいては古代人よりもずっと進んでいるのに、なぜ叙事詩の一つもつくることができないのであろうか。<「剰余価値学説史」>
困難は、ギリシャの芸術や叙事詩が、ある種の社会の発展形態とむすびついていたことを理解する点にあるのではない。困難は、それらが今もなおわれわれに対して芸術的享楽を与え、ある点では、規範として、及びがたい規範として通用するということにある。<「経済学批判序説」>
いまや有名なマルクスの逡巡だが、自明といえば自明といえることだが、マルクスの良心が、これを指摘させておいたのだろう。経済学も自然科学も計測可能な真理としての社会革命を予測させてくるが、芸術だけは、そうではないのはどうしたわけだろう。芸術だけは、革命や社会の発展など、なんの関係も無い。むしろ古い作品こそ、見事な人間規範が表現されている。進化論に則っていない。あらゆる認識事項が、進化するのが近代の理屈だ。その先駆けとして、自分は経済学批判をなした。それなのに、なぜ芸術だけは「進化」しないのか。これがマルクスには不思議だった。
だが、それを言うなら、芸術というよりは人間自身のことではないのか。人間は進化しないのではないのか。むしろ時代が進めば人間は馬鹿になるのではないのか。昔の人間のほうが利口だったのではないのか。経済も社会も、科学も進化発展していくとは、一種の詐称ではないのか。単純な逆説ではないのか。実際に、進化を拒むモノ(芸術)があることを自著に書き記しておいた。ここに私は、マルクスの良心を感じるのだ。
さらに、端的に言うなら、人間は退化しているのではないのか。社会が整備されればされるほど、人間は退化する。私はそう思っている。社会が完全に整備された暁には、人間は不要となる。芸術どころではない、人の知恵も精神も必要がなくなるからだ。小説も音楽も工場で生産される。歌う人間もいなくなる。すべての歌はスピーカーから聞こえてくるだけだ。苦労して文章など書く必要がなくなる。完全な平等社会になれば戦争も無くなるだろう。格差も階級も無い。人間は生まれながらのゆりかごから墓場まで、食い扶持は社会が与え、あらゆる人権を保護してくれる。
人間は生まれながらに成功者である。寝ているだけでよい。凡百の教条左翼が目指している社会主義とは終末のことである。墓場世界のことなのだ。誰も苦労はしたくない。ひたすら寝て暮らしていればよい、そういう社会だ。すなわち、ここにおいて人類は自滅するのである。われわれが古代社会の芸術にあこがれるのは、古代の人間に憧れるからに他ならない。古代は人類の揺籃期である。ヘーゲルに言わせれば人類が子どもであった時代だ。最後は死する運命にあるのは、どの子も同じだ。種も、いつかは絶滅するのである。古代から残された芸術作品にわれわれが憧れるのは、われわれが大人になってしまった心持から来ている。
昔の物語に憧れるのは、大昔の人間のほうが、人間として豊かで、大きな存在であったことを示している。周知のように大昔は誰しもが英雄だった。誰しもが芸人だった。社会が進めば進むほど人間はこまっしゃくれてくる。矮小化してくるのだ。これは避けられない。イエスもソクラテスも、さらに目新しいところでは、ベートーベンもドストエフスキーも二度と人間界には出現してこないだろう。人類は、すべてがこまっしゃくれた馬鹿者ばかりでおおわれる。こうして間違いなく「芸術」は死滅していく。
人間の存在証明は肉体だけでよい。健全なのは精神ではない、健康な肉体と長生きすることだ。誰しもが年齢と名前だけを後生大事に小脇に抱えて一生を終えていく。精神はからっぽでよい。心など、からっぽのほうがよほど社会からは、喜ばれる。肉体と実名だけあれば、なに不自由なく絶大な力を誇る社会が一生面倒を見てくれる。整備された社会にとって個別精神は邪魔になるだけだ。こうして精神は廃れていく。不要のものとなる。
マルクス自身は気がつかないままであったようだが近代思想の柱である進化論、さらにそれらを計算し抽象化されたところに生まれたマルクスの理論と思想こそ、逆に人類の終末を見事に説明しているのである。<5088字>
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