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「いま本当の危機が始まった」 日本社会は「リーダーの国際競争力」という点で甚だしい欠陥をかかえていると言わざるを得ない。
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投稿者 TORA 日時 2007 年 2 月 06 日 14:09:29: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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「いま本当の危機が始まった」 日本社会は「リーダーの国際競争
力」という点で甚だしい欠陥をかかえていると言わざるを得ない。

2007年2月6日 火曜日

◆いま本当の危機が始まった 中西輝政(著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167681013/ex-book-22

◆欧米エリートたちのもつ『果敢さ」

それはイギリスに限ったことではない。たとえぱ長く海外貿易で覇を唱え、近世初頭のヨーロッパに大きな影響をもった都市国家ヴェネチアの例を見よう。この国はむしろ実力主義の伝統の中にいかに指導的階層を選びだしてゆくかということに苦心した国である。

ヴェネチアのエリートはみな、若い頃に海外に出かけて貿易に従事する。オリエント地方、黒海、ウクライナからエジプト、北ヨーロツパ、アルプス以北などまったく文化の違うところで修羅揚をくぐる。こうして貿易の代表者として実地の試練を経た人の中から国会議員をリクルートしていく。単に学歴や出自ではなく、将来のエリートには荒々しい修羅場を率先してくぐらせる。

大英帝国も、次世代のリーダーと見込んだ人物に対して厳しい試練を課している。植民地官僚としてインドの砂漢や東南アジアのジャングルに送り込んで、たった一人で、誰の指示も受けずに、予測もできないような混乱の事態を切り抜けていく経験を積ませる。

大正期や戦後教育型エリートの、いわゆる「二代目」が、前の世代に比べて矮小になり大きな歴史観や国家観をもてない、さらには知的には大変すぐれていても使命感という点で問題があるような人物がしばしば現れるのは、試験や選挙といった最初の競争の関門があまりにも厳しすぎるという点にも目を向けないわけにはいかない。

欧米の例を見てゆくとき、いったんある程度大まかに選択した階層の人たちに、さらに繰り返し一層厳しい試練を課す、というのが国家的リーダーの育成として大切なように思われる。しかし日本の場合、これが逆転してしまっている。

この「第二世代の失敗」に共通しているのは、最初の競争システムをくぐり抜ければあとは比較的平穏なキャリアプロセスの中で、人脈や人当たりのよさ、トラブルメーカーにならない、そういう信用だけでもって安易に高いポストに順次つけていく。少し安定期を迎えるとこのような人事システムが固着しやすいというこの国のあり方にこそ、日本が真の大国になれない歴史的要因の根幹があるように私には思えてならない。

現代のアメリカのエリートシステムをみよう。ここでも一定のエリート階層をまず先に選び、この人たちに集中的に試練を課して、そこからはい上がってくる人物をさらに厳しい競争ののち、国家的なトップリーダー層の中に引き上げていく。そればかりか、そもそもアメリカ東部のイェール、プリンストン、ハーバードといった大学では、そこに学ぶ学生には、自分たちこそ二十年後のアメリカをリードする人間、という意識をはっきりもたせて教育している。

学生の側もはっきりそういうエリート意識と使命感を当然のこととし、その日に備えて勉学にいそしんでいる。イギリスでもオックスフォードやケンブリツジでは二十歳そこそこの学生が、早くから下院議員をめざし、あたかもすでに次代の国のリーダーとして、ある政策課題をどう決断すべきかについて、厳格な雰囲気の中で自らの人間性と専門的な知識をもとに、毎週のように活発な議論を交わしている。

突き詰めていくと、リーダーの育成ということで言えば、日本社会は「リーダーの国際競争力」という点でつねに甚だしい欠陥をかかえていると言わざるを得ない。かつてのヴェネチア、あるいは大英帝国、いずれも長い海洋貿易に経済の基礎を置いて発展してきた国である。

世界が予測できないような外界の環境変化に対して、大国のエリートとしていかに果敢に取り組まねばならないか。その「エリートの果敢さ」ということに、国の運命がかかっていることを切実に思い知らせるような制度と文化を築いていた。

そういう国には最初の競争で疲れてしまうようなひ弱なエリートはいない。大まかに網ですくい取った優秀な人材に繰り返し冷酷な試練を課し、その都度、資質を向上させ、その可能性にかける。エリートの育成に苦心し、試行錯誤を重ね、そして一つのカルチャーを作り上げた大国の、人材育成に対する国家としてのすざましい執念と徹底した合理的な物の見方を、日本はなぜか明治以来、学んでこなかった。

ここまで見てくると、現在の日本において足りないものがあまりにも大きいことを強調せざるを得ない。そしてここで特に強調したいことはその際、この国の主流派のエリートは、やはりこの国の文化の型に見合ったリーダー像をしっかりと伝えられてゆくべきだ、ということである。

日本の「自然主義的」な、つまり日常は放任しつつ、たまたま運のいい者をその「ツキ」に期待して、「出たとこ勝負」としか言えないようなエリート登用の「すごろくシステム」では、もはや事態は打開できないであろう。

◆「庶民の立場」とエリート

もう一つ日本に欠けている大事なことは、「対抗エリート」という考え方である。日本人のエリート観というのは「主流エリート」という一つだけに限られがちで、それは民衆と対時する存在としてのエリートである。しかし、そういうパワー・エリートに対して、対抗エリート、あるいは「異端のエリート」を社会が大いに尊重し、立派な使命感を育むことが非常に大切なのである。

民衆は、いわゆる民衆としての存在のままでは本来、何の力にもなり得ない。「エリートに対抗する民衆」という存在を考えたとしても、もっぱら革命のイデオロギーに依拠しないかぎり、ただの民衆からは何も生まれない。

そこでは必ずその民衆を指導するリーダーが生まれなければならない。日本の場合しばしば「民衆の感覚」と又トレートに同調してしまう未成熟な対抗エリートしか生み出せず、したがって民衆と同じレベルの「反体制リーダー」しか育たないことになる。

それでは、今後の日本のリーダー像を描く上で具体的に何が必要なのか。日本では、「これからはこうなる」とか「世界はこうだ」という一面的な趨勢論にいわゆる国論が収斂していくことがしばしば見られる。そうした場合、歴史的な洞察やより大きな視野と伝統的な視点から、逆に国全体のかじ取りにさまざまな批判をし、、代替策をぶつけることのできる人間が階層としてどうしても必要である。

戦後の日本は、特に戦後の左派リベラリズムの非常にゆがんだ発想から、そういうリーダーの存在というものをまったく視野の外に置いてきた。それゆえに、民衆が「庶民的感覚」からストレートに支配エリートや本流のリーダーたちを批判することが民主主義だと思い込んできたふしがある。ここに、日本では建設的な議会政治が成り立ちにくい構造がある。

議会というのは、エリートともう一つのエリートの集団のそれぞれの側のリーダーが、お互いにリーダーとして意見を闘わせるところである。代議制というのは、まさにここに意味があるわけだが、野党政治家、特に日本の左派やリベラル陣営さらには大マスコミには、いわゆる「市民的感覚」から、あるいはストレートに「庶民の立場」に立って考える、ということだけが民主主義における政治家の使命だと思っている人たらがあまりに多い。

さらに言えば、今、日本政治で最も問題になるのは、戦後の誤てる民主主義理解の中で教育を受け、その価値観や政治観、歴史観をそのまま身につけた世代が、保守の陣営においてもいよいよ日本のトツプに躍り出ようとしていることである。これは保守の側においては、とりわけ「危うい境界の時代」と言わねばならず、その先に、実に「危うい日本」の構図がほの見えている。

国家的見地と民衆の意向というものが、歴史においてはしばしば対立することがある。「民意の政治」というものが本来的に民主主義なのではない。なぜなら民意はしばしば間違うことがあるからだ。このことをしっかりと念頭に置くことが民主主義の出発点である。

それゆえ国家的な見地から、つねに世論の大きな潮流、あるいは時の政治の潮流に対してさえ、あえて大勢に抗するような、いわぱ「国家の番人」のような人間や集団を制度として民主主義の中にもっておくことがきわめて大切なのである。

しかし、この民意や世論に対してたった一人でもあえて抗することのできる、本質的な意味の「保守の最後のよりどころ」のようなものを、制度的ないし集団的に戦後日本の民主主義はもたなかったし、また、そういう営みが重要であるという認識すらなかった。

民主主義の長い伝統をもつ国はどこの国も、必ずときの民意にあえて抗することを務めとし、大きな歴史的な視野から国家のあり方を考えることを杜会全体から期待されている集団や制度をもっている。

たとえばイギリスの貴族院(上院)や、あるいはアメリカの上院(元老院)などだ。しぱしば大きく間違う世論や民意に対して、敢然と「ノー」を唱えることのできる階層や機構をつねに用意していなければ民主主義は完結しないのである。

それは通常の民主的な選挙によって選ばれる代表では到底果たし得ない役割である。たとえばこれら各国の上院はいずれも選挙を経ない世襲か、あるいは制限選挙によって(アメリカの場合、人口に関係なく各州から二名ずっ)選ばれている。ときの民意にあえて抗する、だからこそ真の意味で「良識の府」だと言えるのである。

また欧米では、世論もマスコミも、大きな時代潮流にあえて抗する意見を述べる評論家や学者に対して高い評価を与え、歴史的にもそういう文化が根づいている。だからたった一人でも自らのリスクをかけ、あえて異論を唱える知的リーダーが出てきやすいのだ。日本のように時々一つの目標に向かって極端な視野狭窄の集団心理に陥ることがある国柄では、このような制度やリーダーの存在は欧米に比べて何倍も貴重なはずだ。

そういう人材をどう養成していくのか。その前にまず、そういう人材が日本の民主主義のためにどうしても必要であることを、国民自身が認識することが大切だろう。我々は国家のリーダーと言えば、すぐにステート・リーダー、つまり国の統治機構や巨大産業のリーダーだけを思い浮かべがちだ。

しかし今考えるべきことは、日本という国を単位とする「カントリーとしての日本」のリーダー、組織やポストに依拠するのではなく、その能力と義務感にのみ依拠するカントリー・リーダーという存在を我々は視野の外に置いてきたのである。

また国が国として間違わない進路をとるためには、国民の精神状況や文化のあり方に警鐘を鳴らし、それを本来の正しい方向に導いていこうとする真の意味での知的リーダーが必要でもある。上述の通り、日本のリーダー文化にはこういう精神面のリーダーに対する深い思考にも欠けているようだ。

その場合、国民の心を一つにし、歴史を動かすリーダーの資質としてやはり「言葉の明晰さ」が不可欠であろう。よく日本語はあいまいではっきり物を言わない文化と言われるが、しかしそれは間違った議論だと思う。言葉という手段の中に込められた精神性、感受性という点にむしろ日本の文化の重要な特質があると私は思っている。 (P326〜P333)


(私のコメント)
最近目につく事は政治家も企業人も自分の事ばかり考えて事件を起こすような事が増えています。政治資金を私的に流用したり、会社でも利益さえ上げればいいとして不二家や日興コーディアルのような事件が起きたりしている。いわば日本のリーダーとしての自覚がなくエゴイスティックな風潮が蔓延している。

政治家にしても日本はどうあるべきかと言うことよりも利権漁りに夢中になっている。以前は政治家がダメでも官僚がしっかりしていたから何とかなっていたのでしょうが、最近は官僚こそが自分の天下り先を確保するのに夢中で天下国家のことを考えなくなった。なぜそうなってきたかと言うと戦後教育が国家を支えるようなエリート教育を平等と言う名の下に廃止してしまったのだ。

最近ではマスコミの行なう世論調査などに振り回されているように思う。しかしその世論は一体誰がリードしているのだろうか。昔は民間の評論家でも大宅壮一や藤原弘達のような怪物評論家がいたが、現代では皆小物ばかりになって政界の提灯持ちばかりになってしまった。

最近では大学生でもサラリーマンでも誰も政治の話はしなくなり、当たり障りのない世間話しかしなくなっている。そのような状況で国民に世論調査をしたところでテレビのニュースキャスターが言っていたような事をオウムのように言うだけの知識しかない。国民大衆はそれでよくてもエリート達もそれと対して変わりがないのでは問題だ。

ネットの世界でも多くの人がブログを書くようになりましたが、お粗末な内容のブログがあまりにも多い。作文能力もなければ語彙も少なく、本も満足に読まないから一般常識が身に付いておらず、古典などの教養も読んだ形跡がない。現在の日本の大学はレジャーランドであり、大卒者の学歴は溢れかえっているが日本の大学の学歴は紙切れに等しい。このままでは中国にも負けるだろう。


◆新春教育座談会「今こそ、真のエリート教育を」
http://www.worldtimes.co.jp/special2/zadankai2004-2/040105-1.html

人材輩出できねば「知的二流国家」に 

岡崎 日本は残念ながら必ず教育で中国に負ける日が来る。中国人の勉強力は今すさまじい。江戸時代に「学ならずんば死すとも帰らず」として、新井白石が眠くなったら水をかぶって勉強したという、あれほどの意気込みで中国人は勉強しています。しかも、人口が日本の十倍であり、その中から選ばれた人たちが出てくる。

 例えば、中国の大学の日本語学科で勉強して来日した中国人の日本語レベルが大学生並みであれば、ハーバード大学の日本語学科で学んだ日本語の学力は、中学生程度です。水準になるものが全然違う。この日本語学科のレベルから他も類推してよいと思います。他の学科も相当な水準です。

 ただ、今、中国の問題は文化大革命の空白があって、その人たちがいるのでまだ日本が太刀打ちできています。しかし、今の若い人たちが社会に出てきたら、日本は絶対かなわない。だから日本には昔の七年制高校と同じような、教養を深める学校が必要です。私は、例えば、東京工大に付属中学高校を付けることがよいと思う。生徒は中学に入った後は、受験の心配がないので、その間、ものすごい教養を身に付けますよ。それも、東工大だけそれをやれば、全国の秀才が受けます。

 七年制高校の時、四十人クラスが二つで一学年に八十人しかいなかった。あのころは、一高受験というのは、一高の人には怒られるかもしれないが、敗者復活戦だった。七年制高校には、都内の有名小学校の一番だけが入った。私の小学校でも、一番が七年制高校に入って、二番から四番までが府立一中を受けた。そこを卒業して、もう一度試験を受けて一高に入ったからだ。旧制高校のナンバースクールは敗者復活戦という時代になっていた。

 どこかでそうした試みをしていけば全国から秀才が集まります。秀才を集めると教育は楽だ。それくらいのことをしないと、中国にかなうわけがないですね。中国で唯一弱みがあるとすればガリ勉です。この中国に対抗するには、余裕のあるエリート教育によって人材をつくらないと、日本は必ず負けます。三十年したら日本は知的に二流国家になります。知的二流になったら中国に頭を下げるしかないでしょうね。


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