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□日本文学はなぜアメリカの若い人たちに読まれるのか
http://www.jlpp.jp/news-j/jlpp_lecture/summary2/
2006年07月31日
講演要約:ローランド・ケルツ氏
日本文学はなぜアメリカの若い人たちに読まれるのか
ローランド・ケルツ
(作家、『A Public Space』編集者、東京大学講師)
私がいつも友人たちに言っていたのは、日本にいるときはアメリカが驚くほど身近に感じられたということです。日本のマスメディアは明らかにアメリカを重視しています。また日本の都市部では、アメリカのファストフード店やアメリカのブランドがいたるところで目につきます。ハリウッド映画の主流作品を見ることもできるし、アメリカやイギリスのCDも手に入れることができます。
そしてこれも、私がよく口にしていたことですが、アメリカに帰ると、日本がひどく遠い国のように感じられます。アメリカのニュース番組は、普通、国内のことを重点的に報道し、海外にまで目を向けるのはせいぜい戦争や自然災害があったときぐらいのものです。
それでも、こうしたことにも変化が見られはじめています。そういう変化に私が気づいたのはこの21世紀に入って間もなくのことです。アメリカの友人たちの家のリビングルームで『となりのトトロ』や、宮崎監督のほかの作品を目にすることが多くなっていますし、バスの車体の両サイドにポケモンのキャラクターが描かれていたり、どこかのアパートで村上春樹の小説が本棚に立てられていたりするのを目にするようになっています。
19世紀に、オスカー・ワイルドが、こう書いています。「日本なんてものは、まったくのつくり物なのだ。そんな国は存在しないし、そんな国民も存在しない」。
ワイルドは、ある国を美的観点から表現したものとその国の日常の現実との違いを説明しようとしたわけです。ワイルドの言わんとしていたことは、19世紀の“真の”日本は、北斎の作品に描かれた絶妙なまでに非現実的な日本とは違ったものなのだ、ということです。
これからお目にかけるのは、今日のアメリカにおける日本ブームを理解するうえで役立つ2つのメタファー(隠喩)です。
まず最初にご覧いただくのが「ロゼッタ・ストーン」。このロゼッタ・ストーンは、比喩的な意味で、ほかの文化の意味するものにアクセスする際のカギだといえます。
2番目が数学的概念の「メビウスの輪」です。このメビウスの輪は一本の長い紙片をひねってつくったもので、どちらの面が表か裏か、あるいは、紙の輪がどこから始まってどこで終わっているかわからなくなる、というものです。
21世紀日本のロゼッタ・ストーン
今日の日本をあらわしているロゼッタ・ストーンを3つ選んでみたいと思います。それはアニメ、マンガ、それと村上春樹の小説です。
アメリカのオタクの第一波はアニメやマンガというロゼッタ・ストーンを通じて日本を見出しました。彼らは Speed Racer(『マッハGo!Go!Go!』)や Battle of the Planets (『ガッチャマン』)を1970年代にテレビで見ています。彼らはいまでは大金持ちですし、コスプレ大会に参加したり、何千ドルも投じて日本製の大型ロボット玩具を手に入れたりしています。それに、彼らの多くは村上春樹の書いたものを買って読んでいます。いまでは彼らも30代から40代になっていますが、マスメディアで働いていたりして、今日のアメリカでは大物的な存在になっています。彼らの持つ影響力というのは、クールでクリエイティブで自由、という日本のイメージをアメリカの若者たちに伝えていることです。
21世紀になると、新世代のアメリカの若者たちは、Power Rangers(『スーパー戦隊』シリーズ)、ポケモン、セーラームーン、それにキティちゃんなどで育っています。こうした若者たちがもう少し年をとってくると、村上春樹の物語をニューヨーカー誌で発見するようになります。彼らは日本を産業上の競争相手国とか、ハイテク・カメラを首に下げた観光客の国としては見ていません。ファンキー・スタイルやカワイイ文化の国としての日本しか知らないわけです。
なぜ、いま、こういうことが起こっているのでしょうか。日本の場合の「自由で魅力ある」とは正確に言ってどういうもので、そして、日本文学にとってそれがいかなる意味を持つものなのでしょうか。
日本がいかにして真にユニークな国となっているのか、それについて考えてみたいと思います。
まず第一に、日本には支配的な力を持った、道徳的規範となる宗教がありません。西洋のユダヤ・キリスト教的二元論の存在しない日本においては、芸術家たちは世界を万華鏡のごとく自由に眺め、不安や恐怖を感じることもなく受け入れることができます。村上春樹の最高傑作となっているフィクションもまた、善と悪をはっきり区別することなくぼかしています。
つぎに神道があります。アニミズムに根ざした文化的信仰です。神道というのは、概して日本のポストモダン・アイデンティティーに重要な役割を果たしているものです。もし、神が至る所に、そしてあらゆるものに存在するのであれば、インターネットに存在してもおかしくありません。この日本人の生活の根底にある教義が、アイデンティティーが異形化しつつある世界にうってつけのレベルの意識として、アメリカ人の心をとらえたわけです。
村上春樹のさまざまな小説について考えてみたいと思います。驚くほど感情の鈍い中年の人物、あるいはもっと若い人物が、日常の中で超自然的なものと出合う。ネコが姿を消し、妻が行方不明となり、そして突然、彼はだれかほかの人間になってしまう。
同様にマンガやアニメというロゼッタ・ストーンは、超現実的な現実に根ざしたものです。キノコ雲によって東京にクレーターができるけれども、このクレーターを埋めるのは暴走族や無軌道な若者たちだけ。
日本の文芸作家はアメリカの作家を超えています。これはまさしく、30年ほど前のアメリカの作家がそうだったように、彼らが限界というものを知らないからです。かつてアメリカは、この日米の関係において「兄貴分」でした。つまりアメリカは、60年代、70年代には、慣習や宗教に縛られ、その両者に対していらだちを覚えながらも、グローバル・モデルとなることに意欲を燃やしていました。村上春樹をはじめ日本の作家たちは、そのモデルを、魅力とエネルギーが失われるまで追い求めたのです。
そして、日本はマンガやアニメの分野の最先端を行く国です。しかしいま、ポケモンによって日本びいきになった子どもたちも、20代に達する年齢になっています。日本をもっと深く探るうえで、彼らに何ができるでしょうか。日本に行ってみることもできるでしょうが、現実は彼らを相当に失望させるはずです。
そこでそのかわりとして、日本文学を読むことができるのです。日本のアニメやマンガで育った子どもたちですら、大学に入る年齢になると、コミックはもう卒業ということになります。もっと深い現実を知りたくなり、小説を読みたいと考えます。
メビウスの輪
今日、文化の作用が急速化しています。非常に速くなっています。
日本のアニメの父、手塚治虫は、ウォルト・ディズニーとマックス・フライシャーの作品にインスピレーションを感じました。今日、宮崎駿は、アメリカやヨーロッパのアニメーションの生みの親といわれるまでになっています。
安部公房はカフカから学んだ実存主義的な鋭い感覚を日本文学に持ちこみました。その後、村上春樹はフィッツジェラルド、サリンジャー、カーバーのアノミー(無規範、没価値)を日本文学に持ちこんでいます。
今日、アメリカの読者は村上春樹などの日本の作家の作品を読んでいます。日本の作家たちは臆することなくアメリカニズムをとり入れているように見受けられ、彼らは違ったトーンをもってアメリカに語りかけるのでアメリカの読者は興味をそそられ、もっと読みたいと思うのです。
日本の大衆文化は、最高の意味でポストモダンなものです。世界に開かれ、多面的で、かつアクセスしやすいのです。そして、日本はクールな国です。これはまさしく日本という国が、自分では気づいていないにもかかわらず、グローバルな国になりつつあるからです。
けれどもそれは、日本という国がリアルだということを意味するものではありません。日本をリアルにするには、世界に日本文学を広める必要があります。文学は、メビウスの輪を突き止めるのです。
インターネット
私がはじめて村上春樹を読んだときのことを今でも覚えています。『TV People(TVピープル)』という本で、とても素晴らしい作品でした。でも、その作家についてはなにも知りませんでした。もちろん、どこの国のものかも。
インターネットは境界をなくし、閉ざされた文化を壊してしまいました。日本、アメリカ、中国―それはどうでもいいことなのです。今日の若いアメリカ人たちは、中原昌也を読み、そのあとちょこちょこっとマウスでクリックして、中原昌也というのは元パンク・ミュージシャンで、断筆を誓った作家だということを知ります。
文学をやっているわれわれにとって、これはいかなる意味を持つものでしょうか。文学は素早いものではありません。ところが、その受け手のほうがスピードに慣れています。
こうした無境界の世界にあっては、時間や場所を超越したお話をつくり上げる必要があります。日本の作家にはこれが不気味なほど合っています。日本は奇妙なくらい時代を超越した国、自国の過去などくよくよ考えない国です。
本日、私が皆さんに申し上げたいことは、これを有利に生かすべきだ、ということです。日本のクールさを活用して、日本の優れた新しい作家たちの声を伝えるべきだ、ということです。だれもがアニメ界に次の宮崎駿を、文学界に次の村上春樹を期待しています。アメリカ人を待たせておいてはいけません。持てる最高のものをアメリカ人に与えるべきです。そして、それを広めることです。皆さんといっしょに、あのオスカー・ワイルドにこう教えてやりたいと思います。つまり、こういう人たちがいるのだ、こういう人たちが存在するのだ、そして、そういうところにいまわれわれは到達しているのだ、ということを。
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<編集者注> この記事は、2006年6月20日に東京・国際文化会館で行われた講演を要約したものです。
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