★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ47 > 399.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
□戯れ言
・ここ数日,さまざまなブログを見て回って面白いと思ったのは,
『あるある大事典』の『納豆ダイエット』がデタラメだと発覚して怒っている人たちが
自分のブログの中で不二家の一件と今回の納豆騒動とを同列にして意見(批判・怒り)を述べていることです。
この2週間に渡って納豆を懸命に食べまくっていた人たちはマスコミの扇動によって
そうなってしまい,それが嘘だと分かるとマスコミに対して何だかんだと不信感や怒りを見せていくーー。
しかし,その怒りの中で『フジテレビ(関西テレビ)は不二家と同様にけしからん!』と言っているのであれば,
それは相変わらず自分たちが怒りの鉾先であるマスコミの影響下に今もなお居ることを自ら認めてしまっているのでは
ないのでしょうか。そのことがすごく皮肉に思えるのです。
結局,『納豆を食べろ』も『不二家を叩け』も同じマスコミによる産物,扇動だということです。
視聴者に納豆を食べさせたマスコミの扇動に怒りを見せられるのに,なぜ不二家をバッシングする
マスコミの扇動にはまるで気付けずに相変わらずその中に居られるのか,それがどうしても不思議なのです。
どっちにしても誰かにうまく乗せられてしまっているーーなぜ彼らはその矛盾に気付けないのか。
この2つに違いはありません。全く同じ手法です。ただターゲットとなるものが違ったこと,
そして全否定・全肯定の差があるだけです。
この『不二家』の一件にしても,結局のところは納豆同様にマスコミの扇動があればこその
『消費者』の怒りや批判であり,マスコミの報道が小さければ誰もこのようなことを
ブログの中でわざわざ取り上げることもありません。
実際にアメリカでトヨタが大量のリコールを出していますが,このことを批判的に取り上げている
ブログは不二家のそれと比較すればほとんど皆無です。
少し興味深い考察として,精密に調査をした訳ではありませんが,
『あるある大事典』を見て納豆を食べていた人たちと不二家に対して批判的な言動を見せている人たちーー,
かなりの部分で重なるのではないかと思います。
どんなに小さな出来事でもマスコミのやり方一つでそれはとんでもなく大きなものになってしまう。
逆に路上に死体が無数に転がっていたとしても,そのことを全く報道しなければそれに気付く人たちもいない。
極端に言えば,今の世の中はそんな感じです。
…で,思うのは,日本という国はあらゆるレベル,出来事においてマスコミの介在がなければ
何一つ成り立たない国になっている,あるいはなってしまったということです。
スポーツのイベントから企業の商品,政党,政治家の人気や芸能人の売り込みに至るまで,
あらゆる社会的な出来事,現象の全てがマスコミの報道ひとつでどのようにもなってしまう。
冗談ですが,もしもマスコミが『国民よ,日本に革命を起こせ!』などと連日のように報道/扇動を行なえば本当に
それが現実になってしまうような気がします。
僕らはなぜそんなにもマスコミに対して従順なのでしょうか。洗脳されてしまったから?
まあ,確かにそんな一面もあるのかも知れませんが,それよりも何よりもそうした生き方が『楽』なのでしょう。
何も考えず全ての善悪,価値観の判断を誰かに丸投げしていく。洗脳というよりもある意味での
放棄なのかも知れません。
個性としての世の中に対する激しい怒りや批判も結局のところは誰かの影響の果てにあるのですから。
ここに書いていった僕の文章にしても,マスコミが構築していったマトリックス的な世界観の中での
ただの戯れ言に過ぎないのでしょう。
▲このページのTOPへ HOME > Ψ空耳の丘Ψ47掲示板
フォローアップ: