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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu134.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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秋山真之は「敗くるも目的を達することあり勝つも目的を達せ
ざることあり真正のの勝利は目的の達不達に存す」と記した。
2006年12月25日 月曜日
◆「いまだからこそ学ぶべき日本軍の教訓」 12月24日 海洋戦略研究
http://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/44991584.html?p=1&t=2
日下公人『いまだからこそ学ぶべき日本軍の教訓』PHP研究所、2005年、1.200円は、日本人が組織を作り、主体的に行動するときに参考となる教訓が隠されているのを出そうというものである。
建制−組織を建てる制度を西欧から学び独自に発展させたが、状況に応じてマニュアル(教範等)を変えていく柔軟性が欠如し、官僚主義に陥っていたことを厳しく批判している。
この点は、組織論、現在のマニュアルの扱い方に通じる重要な論点である。
マニュアルでしか教育を普及していくことができないが、マニュアルを墨守するのではなく、マニュアルの精神を現実の状況に応じて使いこなしていくことが重要である。ところがこれは、責任をとることが嫌な人には耐えられないことである。マニュアルどおりで何で責任を取らなければならないのかといわけである。
すべての状況をマニュアルに記載することは不可能であり、状況は千差万別であるためすべてを網羅したマニュアルを作ることはできない。どうしても標準タイプのマニュアルとならざるを得ない。だからこそ状況に応じてマニュアルを変えていく柔軟性が必要となる。ところが状況に応じて変えていけば、失敗する場合もある。失敗すれば責任を追及されることになる。
それが嫌だから失敗してもマニュアルを守った形にしておけば責任を取らされることはない。その方がいいやということになる人もいる。そういう人はリーダー(指揮官、上司等)にならなければいいのだが、年功序列、賃金、職制といった人事上の問題もあるため不適な人もリーダーとしての配置に付く場合もある。その場合、責任の重さに耐えかねる人が出るのも事実である。また、最初からそういう配置に付かない人もいるが、それもそれで人事上の不満からいろいろな問題を起こす場合もある。
自ら積極的に責任を以て主体的に行動する人を育てていくかが組織の問題である。
次に大きな問題として日本軍は、戦争を計画立案するという考えが薄いことを指摘している。
日本軍の欠点は戦争を戦争全体の中に位置づけて考える癖を身に付けることができなかった。戦闘の勝敗しか見なかった。戦闘を戦争全体の中に位置づけ、戦闘と戦闘を結びつけ、それを政治、経済と結びつけて、戦争全体の中で戦略的に戦争を考えることができなかった。戦後においても、戦争と政治、経済を分けて考え、二項対立でしか考えられない人を産み出し続けている。
日本軍の失敗は、日本人の組織論(人事制度を含む。)の失敗であり、何も特別な人々の物語ではなく、現在の我々の組織論と密接に関連している。だから日本軍の失敗の教訓を他山の石として利用活用する考えがなければ、同じ失敗を繰り返すことになる。
本書は、日本人の組織論を考える上で興味深い本である。が、余りに読みやすく書かれているため、重要な点を読み飛ばしてしまうかも…。お勧めします。
◆ハワイ攻撃 12月8日 海洋戦略研究
http://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/44513719.html?p=4&t=2
本日昭和16年(1941年)12月8日(ハワイ現地時間7日)日本海軍機動部隊艦載機はハワイ真珠湾基地を攻撃し、米艦艇航空機を撃破して大東亜戦争の火ぶたを切った。
奇襲そのものは成功したが、大きな問題を残した。
秋山真之は「天剣漫録」で「敗くるも目的を達することあり勝つも目的を達せざることあり真正のの勝利は目的の達不達に存す」と記した。
また、コーベットが『海洋戦略のいくつかの原則』で「奇襲成功の機会は、リスクを正当化するほど大きいことは滅多にない」し、「評価できる効果は何もなかった」(高橋弘道編著『コーベット』芙蓉書房、2006年、210〜211頁)と述べている。
山本五十六連合艦隊司令長官のハワイ作戦の目的は、開戦劈頭敵主力艦隊を猛爆撃破して米国民の士気を阻喪させることにあった。
問題は奇襲攻撃に徹底性を欠けば、残存した敵艦隊を撃滅するまで次々に連続攻撃を掛けなければならないということにあった。
ところが作戦計画には山本長官の意図が反映されていなかった。
山本長官の意図は、軍令部は敵艦隊の減殺、連合艦隊は敵艦隊の撃破、機動部隊は敵艦隊の致命的打撃と解釈された。つまり、敵艦隊への一撃であって、徹底的な撃滅とはならなかった。
12月8日南雲機動部隊艦載機は、ハワイ真珠湾基地を攻撃し米艦艇戦艦8隻駆逐艦2隻、航空機等を撃破した。しかし、米空母3隻を撃ち漏らした。作戦計画に徹底的な撃滅と書かれていない以上、もともと作戦に反対であった南雲長官が、敵空母を索敵してまで撃滅することなく、あるいは施設・燃料タンク等を徹底的に破壊することなく、奇襲成功に満足して一撃離脱で帰ったのも当然であった。
山本連合艦隊司令長官と軍令部、連合艦隊司令部内、第1航空艦隊司令部相互間の意思の疎通を欠き、摩擦、対立、亀裂を招いた。
山本長官の指揮統率に問題があった。その結果、山本長官の意図は達せられなかった。要するに、奇襲は成功したが、米国民の士気を阻喪させることができなかった。それどころか米国民の士気を高めることになって、失敗した。秋山氏やコーベット氏が指摘した点においてハワイ奇襲攻撃は失敗した。
山本長官は、ハワイ作戦が自らの意図に反して米国の戦意を挫くどころか、逆に燃え立たせ、米国の戦争意思の強さを知り、連続攻勢で勝ち続ける以外に策はなくなり、そこで米空母を誘出撃滅するミッドウェー作戦を考え、複雑な第二段作戦計画を立案した。ところが作戦計画は、明確にミッドウェー、アリユーシャン効力を命じていた。ミッドウェー作戦は、暗号を解読して待ち伏せしていた米機動部隊に日本機動部隊が空母4隻を撃沈され、完敗した。
日本海軍の作戦は、指揮官・参謀・部隊間の意思疎通の欠落が、作戦計画立案に当たって作戦思想の分裂、作戦目的の複雑性、目標系列の不明確性、情勢判断の甘さとなって現れ、作戦実施においては、主観的な思い込み、予断、希望的観測、敵の過小評価と自己の過大評価が加わり、索敵、攻撃目標の分配、戦果確認、報告要領に適切さを欠き、作戦の失敗を招いた。
作戦思想を統一する熱意に欠け、状況の変化に対応して組織を立て直す能力が遅く、更に情報を組織が共有し、速やかに協力して対応する姿勢が見られなかったことに問題があった。残念なことである。
まして民主主義を擁護し、英国の苦境を救うため米国は何としても欧州の戦いに参戦しなければならなかった。戦争を嫌う大多数の米国民の迷妄を覚ますためには、まさに格好な時機にドイツとの同盟に踏み切った日本を体系的に挑発して「最初の一発」を撃たせ「卑劣な不意討ち」を演出して米国を裏口から大戦に導く対日開戦促進あやし外交にまんまと填められた。(中西輝政「日本の覚悟を問う」『正論』2000年10月70〜80頁)
戦艦8隻の戦果よりも罠に嵌った方が大失敗であった。
また、英国の対ソ敵の敵政策に基づいた「偽りの同盟」(対ソ援助を約束するが、ソ連の敗北を見越して援助しなかった。これに対するソ連の対英不信は強まった。)に基づく英ソ関係の悪化を救ったのも日本の参戦に伴う大同盟の成立であった。(秋野豊『偽りの同盟−チャーチルとスターリンの間−』勁草書房、1998年8頁)
そしてその前、スターリンは、日本画アジアで冒険できるよう日本の後背を安全にするため唯一の利益を日本に与えた。1941年4月13日日ソ不可侵条約を締結した。おそらくスターリンは、日本の後背を安全にして日本が米国と戦えるようにすることのためにドイツがソ連と戦争をする必要がないことをほのめかした。又、ヒトラーも、ドイツのソ連攻撃により、日本が公然と米国に挑戦できるようにすると部下の将軍達に説明していた。(ヘンリー・A・キッシンジャー『外交(上巻)』岡崎久彦監訳、日本経済新聞社、1996年、495〜496頁)
米英ソ独等の国は、それぞれをの思惑から日本の対米戦争突入を期待し、それぞれ仕掛け講じていた。日本の行動は、まさに期待どおりであった。読みどおりであった。完全に罠に嵌った。
米国とは異なる意味での「リメンバー・パールハーバー」である。
罠に嵌ったのである。日本の読み不足であった。反省して肝に銘じなければならない。残念である。
罠に填らないよう、読みを深くしなければならない。
(私のコメント)
株式日記では大東亜戦争の目的がアジアの植民地解放と人種差別撤廃にあるのならば、大東亜戦争はその目的を達成したのだから勝ったと言えるのではないかと書いてきました。その点ではナチスドイツとは戦争の目的が異なり大東亜戦争は「聖戦」と言えると思いますが、そのように主張する政治家も歴史家も少ない。
大東亜戦争の二次的な目的としては、肥大化した軍部を粛清する為と、朝鮮半島や満州や台湾などの放棄にあると思うのですが、もし天皇を中心とする権力中枢がそのように考えていたとするならば成功したといえる。
515事件や226事件などによる軍部の横暴は手の付けられないものとなり、政府による軍縮は不可能になってしまった。そのためには陸海軍のやりたいようにやらせて勝ち続ければそれでもいいし、もし負けたならば徹底的な軍部の解体を企んでいたのではないかと思う。敗戦によってその目的は達せられた。
もう一つの目的としては海外の植民地の放棄ですが、当時から植民地への投資負担が大きく本土の経済を圧迫した。このような考え方は大正時代からあり、石橋湛山の小日本主義の主張でもあった。
◆「戦う石橋湛山」 半藤一利 著より
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_ishibashi.html
まず経済・貿易上の観点から、数字をもって朝鮮・台湾・関東州が日本の経済的自立のための重要な供給地とはなっていない事実をあげる。「この三地を合わせて、昨年、我が国はわずかに九億余円の商売をしたに過ぎない。
同年、米国に対しては輸出入合計十四億三千八百万円、インドに対しては五億八千七百万円、また英国に対してさえ三億三千万円の商売をした」。すなわち経済・貿易を重視するならば、三植民地より後者三国のほうが欠くべからぎる国であり、よっぼど重要な存在ということになる。
しかも、中国およびシベリアにたいする干渉政策が、経済上からみてどんなに不利益をもたらしているかを知るべきである。つまり中国およびロシア国民のうちに日本にたいする反感をいっそう高め、経済的発展の障害となっている。この反感は、日本が干渉政策をやめないかぎり、なくならない。
それゆえに、結局のところ、朝鮮・台湾・樺太を領有し、関東州を租借し、支那・シベリアに干渉することが、我が経済的自立に欠くべからぎる要件だなどいう説が、全くとるに足らざるは、以上に述べたごとくである。
我が国に対する、これらの土地の経済的関係は、量において、質において、むしろ米国や、英国に対する経済関係以下である。これらの土地を抑えて置くために、えらい利益を得ておるごとく考うるは、事実を明白に見ぬために起こった幻想に過ぎない。
(中略)
昭和十年代の対米英戦争への道は、そして結果としての旧植民地各国の独立による戦後世界の成立は、まさしく湛山が予言するとおりになったのである。しかし、当時の多くの日本人は、この湛山の訴えを空想として無視した。ばかりではなく、よりますます大日本帝国主義者となっていった。そして大戦争の揚句にもたらされたものは、惨憺たる経済的破壊をともなった国家敗亡であり、連合軍による他動的な植民地放棄であったのである。戦後日本は、なぜか堪山のいうとおりにして復興し、繁栄をとげたような気がする。
(私のコメント)
このように大東亜戦争に負ける事により、大規模な軍縮と小日本主義が実現したからこそ、戦後の高度経済成長が実現されたといえる。また日本が朝鮮、満州、台湾を放棄する事により、欧米の帝国主義の諸国も放棄せざるを得ない流れを作った。
もし大日本帝国が大東亜戦争に踏み切らずにいたら軍縮も植民地放棄も実現せず、中国からシベリアにかけての共産主義との戦いで国力を消耗していた事だろう。戦後は日本の代わりにアメリカが朝鮮戦争やベトナム戦争を闘うことになりましたが、アメリカに共産主義との戦いを押し付ける事に成功したのだ。
おそらく天皇を中心とする権力中枢に石橋湛山の「小日本主義」の支持者がいたのかもしれない。それを実現するには明治維新並みの革命が必要ですが、軍部を暴発させて大東亜戦争に負ける事で「昭和維新」に成功したのかもしれない。
国内で革命を起こすには住民蜂起などの多大なエネルギーを必要とするが、戦争に敗北するには軍部を暴発させるだけで済む。そして軍部に責任を取らせて解体して再編成すれば軍縮は簡単に出来る。植民地の放棄もフランスなどのように多大な出血をともなった帝国もあり、敗戦で放棄する方が簡単だった。
だから秋山真之は「天剣漫録」で「敗くるも目的を達することあり勝つも目的を達せざることあり真正のの勝利は目的の達不達に存す」と記したように、戦争に勝利したかどうかは、目的を達成したかどうかで判断するならば、大東亜戦争の目的は達成されたと言える。
このような陰謀が実際にあったかどうかは不明だが、東京裁判でなぜ天皇が裁かれず、帝国海軍軍人で処刑されたA級戦犯がいないかを考えれば、アメリカと戦争してわざと負けたという陰謀は否定できない。国内的な昭和維新は不可能だが、当時の状況からしてアメリカと戦争して負けることのほうが実現可能だった。
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