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□【コラム】日本を見くびる唯一の国 [中央日報]
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=88651&servcode=100§code=120
【コラム】日本を見くびる唯一の国
きょうは韓日基本条約が締結されてから、ちょうど42年目になる日だ。65年6月22日に締結された韓日条約によって、韓国は無償3億ドル、有償2億ドル、商業借款3億ドルなど日本から総8億ドルを獲得した。
「個人請求権の放棄」という辛い見返りを甘受して受け取ったお金を、透明かつ效率的に執行したのは朴正煕(パク・ジョンヒ)元政権の功労だ。ポスコ(旧浦項製鉄)と京釜(キョンブ)高速道路がそのお金で建設された。インドネシアと比べてみれば分かりやすい。第二次世界大戦時に日本の侵攻でこうむった被害に対する賠償交渉が、58年に締めくくられた。
賠償金2億2308万ドルと借款4億ドルなどを含めて、韓国と同じく8億ドルを受けた。インドネシアは、そのお金でジャカルタの繁華街にデパートを設けた。インドネシア・アンバルクモ・サムドラビーチ・バリビーチホテルという4の最高級ホテルも賠償金で建設した。経済発展や庶民の生活とは関係のない富裕層のための施設だった。
とりわけ、ジャカルタから7時間の距離にあるインド洋海岸に設けたサムドラビーチホテルは当時のスカルノ大統領個人の別荘とされていた(『対日請求権資金の活用事例研究』、対外経済政策研究院)。事実上、8億ドルは19世紀末以降日本が行なった韓半島への侵略や植民支配、収奪、民族文化の抹殺などから考えれば、全く足りない金額だ。朴正煕政権初期の表現通り「泥棒にあった貧しい家」も同然だった国の経済を再建するため、涙ぐんで合意しただけだ。
ともかく韓国は再び再建された。その過程で、隣国の日本が制度や技術の面で肯定的な影響をおよぼした点は否定できない。日本は侵略の元凶だったが、「圧縮成長」に必要とされるモデルでもあった。韓国人がいまでも日本に対し二重的な態度を取り「世界で日本を見くびる唯一の国」と言われる理由がそこにある、と思われる。
中央(チュンアン)日報の創刊記念世論調査でも、日本は「最も嫌いな国」と「最も見習うべき国」の両項目で、2年連続(05年、06年)しトップとなった。さらに遡れば両国間には、歴史的にも尊敬心と軽べつ感が交差してきた、とのことが分かる。実学者のうち数人の例外があるものの、朝鮮(チョソン、1392〜1910年)時代の人々の多くは日本を蔑んだ。
日本人は朝鮮の学者を尊敬していたが、近世に入ってからは順次見くびる気持ちが強まり、やがては「征韓論」に発展する。壬辰倭乱(文禄の役)の後、日本に派遣された朝鮮通信使の中でも、日本人に対する優越感を楽しんだ人が多かった。朝鮮通信使が日本を訪れる過程で、朝鮮の有識者らは日本の識者を見くびり、もてあそんだ。
日本側の記録によると、日本人らが揮毫を書いてもらうため持ってくる紙を、朝鮮の文士らは文鎭の代わりに、かかとで踏んだまま、書き下ろしたという(『日本の底力(原題:日本はある)』、徐賢燮著)。このように侮辱されていながらも、江戸時代の有識者らは朝鮮の学者と学問をきん慕した。
荻生狙徠(1666〜1728年)という有名な儒学者は、江戸(現在の東京)から付近の品川に引っ越した友達に「あの国に2里ほど近くなったことを心からお祝いしたい」と真剣な顔で語ったという。2里は日本の単位では約7.8キロにあたり、「あの国」はもちろん朝鮮のことだ。
しかし、日本が世の中の中心だと信じる「国学」の影響で、「朝鮮べっ視論」が順次広がり、19世紀にはいっそのこと韓半島を征服しようという「征韓論」が浮上する。19世紀の思想家、吉田松陰(1830〜59年)は露骨に「朝鮮を責めて人質と朝貢を捧げさせ、北方では満州の土地を分割し、南方では台湾とフィリピン諸島を手に入れ、徐々に進取の気勢を見せるべき」と主張した。
同主張はわずか1世紀もならないうちに、日本の軍国主義者らによって実践された(完全に滅びえたものの)。韓国と日本には数百年間にわたる「相互べっ視の歴史」がある。その遺伝子はいまでも作動している。一方で日本を無条件非難するとき、もう一方では捻くれた嫌韓論が流行る。相手をありのままの等身大で把握する知恵がないのが残念だ。
盧在賢(ノ・ジェヒョン)論説委員
2007.06.22 17:46:15