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□米大学乱射事件で「犯人は米国人」と言い始めた韓国社会の手のひら返し=黒田勝弘 [SAPIO]
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070528-01-0401.html
2007年5月28日
米大学乱射事件で「犯人は米国人」と言い始めた韓国社会の手のひら返し=黒田勝弘
学生や教授など32人が犠牲になった米バージニア工科大学の銃乱射事件は、韓国でも大騒ぎだ。現場の米国についで大きな衝撃を受けている。それはそうだろう。犯人が韓国人学生だったのだから。
韓国人は日本人と同じく、いや見方によっては日本人以上に外部世界の評判を気にする。マスコミには経済や社会指標などいろんな問題で、毎日のように国際社会における韓国のランキングが出ている。そして上がった下がったと一喜一憂だ。これはこれで韓国人のガンバリズムの支え、成長、発展のエネルギーになってきたのだが。
したがって今度の事件で多くの韓国国民は「これはえらいことになった!」と驚愕し、不安になり、しょげかえった。とくに米国社会での韓国人のことというと、ゴルフや芸能、文化をはじめほとんどは「勝った、勝った!」的な景気のいい話ばかりだった。
米国の大学での韓国人学生の話も、これまでは名門大学で首席卒業したとか、学生会の会長に選ばれたとか、何かの賞をもらったとか、いい話ばかり伝えられてきた。そこにこの事件だからまさに暗転である。したがって「国際的に韓国の評判がダウンしないか?」という心情は痛いほどよくわかる。
ところで今回、韓国では問題の韓国人学生をめぐって「彼は韓国人なのか米国人なのか」が議論の対象になっていた。いい話なら二世だろうが混血だろうが米国籍だろうが「韓国人」とか「韓国系」といって問題なかったのが、今回は凶悪犯罪者だったため妙なことになってしまった。
この議論の背景には、「米国人」だと思うことによって暗澹たる気分から逃れたいという切ない気持ちがある。
その結果、韓国マスコミには途中から次のような見出しの報道がどっと出てきた。
「冷静な米/人種ではなく個人の問題、韓人は動揺しないよう」(朝鮮日報)
「移民者も米国人、韓国が表に出るのは困る」「犯罪は国籍とは別」(中央日報)
「韓国文化とは関係ない個人犯罪、米知識人はよく分かっている」「慰労は必要だが韓国が恥じることはない」(東亜日報)
「個人犯罪に過ぎない、米韓関係に影響はない」(韓国日報)
そして問題の学生は韓国国籍の米国永住権者で、8歳の時に家族と米国に渡り、米国で育ち米国で教育を受け、考え方も米国式になっていたはずだから米国人だ、という結論になった。たしかに。英語で意思疎通し、英語でモノを考えるようになっていたのだから、実態的には米国人だっただろう。
しかし問題は残る。韓国国籍のことだ。多民族国家の米国では、彼は実態的には米国人だったが、国籍的には韓国政府の旅券を持っている韓国国民だった。血筋に加えて国籍もそうだとすれば、韓国でよくいわれる「僑胞」ないし「僑民」であり、韓国人が「ウリ(われわれ)」といっている同胞である。
韓国ではこれまで、女子ゴルファーのミッシェル・ウィーやアメリカンフットボールのウォードなど米国籍や混血、さらには韓国から捨てられるように孤児として養子で米国に送られた韓国人まで、有名人になるとみんな「韓国人」ないし「韓国系」として称えられ、民族的誇りにされてきた。とくにマスコミはこれを盛んにやってきた。
それが凶悪犯罪人になると、一転して民族や国籍は関係ない、個人の問題であるという。都合がいい時は韓国人といって自慢し、都合が悪い時は韓国人ではないといって顔をそむけようとする。これでは筋が通らない。身勝手じゃないのか。
事件の直後、駐米韓国大使が現地で、「申し訳ない」といったところ、本国のマスコミは「個人の犯罪に韓国が謝るのはおかしい」と逆に非難していた。
韓国では民族的血筋へのこだわりがことのほか強い。今回の連日の大報道もそのせいだ。しかしチョー・スンヒを「米国人だ」と強調するのなら、今後はミッシェル・ウィーをはじめ、もう民族的血筋にはこだわらないでほしいものだ。(産経新聞ソウル支局長)