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もう一つの歴史認識(強制連行裁判判決を読んで)/王侯将相いずくんぞ種あらんや
テーマ:政治 2007-05-20
先の戦争の間の日本軍による強制連行について、上告審で最高裁は中国人による個人請求権は日中共同声明によって放棄されているという判決を出しました(最高裁判決:その1 、その2 )。これだけだと普通の人は何のことか分からないでしょうから、とても簡単に説明すると「金輪際、先の戦争の間の強制連行関係で日本政府や日本企業を訴えても何も出てきませんよ。そういう権利はもう否定されているんです。」と最高裁がバシッと言い切ったということです。
中国政府はこれを批判していました。批判するのは結構なのですが、日本の政治ルートに「判決を覆せ」と言ってくるのはお門違いです。日本は三権が分立していますからね。そういう政治的圧力で裁判の動向を云々しようとする中国政府の発想は完全に誤っています。まあ、中国政府側も少しコメントを出すのに悩んだようでしたので、「言わなきゃいけないから言った」くらいの批判だと捉えていいのかもしれません。
そもそも、何故こうやって個人の請求権が否定されるのかということをよく考えてみたいと思います。戦争状態にあった国(中国)、正常な関係になかった地域(朝鮮半島)との関係を新しく構築していく際には常に請求権の問題が出てきます。「色々ゴタゴタがありましたけど、これからは仲良く新たな関係を築いていきましょうね」という時には、過去に色々あったことを一度すべて精算するというのが歴史の知恵なのです。折角、新たな関係を築いたと思ったら、後になって「実はこんな話があったから補償しろ」と言われたのでは永遠に安定的な関係を作っていくことはできないでしょう。だから、財産と、利益、そして請求権(財産といったかたちで具体化はしてないけど、あれこれとイチャモンをつける権利と理解しておいていいような気がします)については一度精算しておくことにしているのです。これがサンフランシスコ平和条約であり、日韓基本条約であり、戦後独立したアジア各国との平和条約であるわけです。
ただ、中国はサンフランシスコ平和条約には招かれませんでしたし、そもそも中華民国と中華人民共和国に分裂していたため、ちょっと請求権の処理の関係がゴタゴタしているのです。一応、相手国が日本に対する請求権を放棄した条項についてちょっと見てみたいと思います。
【サンフランシスコ平和条約 第14条(b)】
この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。
【(台湾との)日華平和条約 第11条:1952年】
この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外,日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は,サン・フランシスコ条約の相当規定にしたがって解決するものとする。
【(中華人民共和国との)日中共同声明 第五項】
中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
これらの条項についてあれこれ論評することはしません。今日、ここで取り上げたいのはちょっとオタクなテーマですが、今回の最高裁判決には一つの歴史認識が隠されているということです。「ここでいう請求権放棄は日華基本条約でなされたのか、日中共同声明でなされたのか」ということです。最高裁判決では、「日華基本条約で個人請求権放棄」とした高裁判決を覆して、「日中共同声明で個人請求権放棄」としました。この背景には相当な歴史認識が隠されているのです。こういうことに言及したメディアは(あまりにオタクすぎて)一つもありませんが、あえて言及しておきます。
高等裁判所での判断は以下のようなものでした。
● 日華平和条約で中国の日本に対する請求権は放棄された。これは中国(という国)全体として放棄したものである。
● 日中共同声明は、全く新規に中華人民共和国を国家承認したものではなく、外交承認の切り替えに過ぎない。処理的な要素を持つ請求権放棄は既に日華基本条約で処理済。
● 日中共同声明の戦争賠償請求放棄は新規創設的な効果はなく、あくまでも宣言的な意味合いに過ぎない。
これは非常に政府の見解に近いものです。つまりは1972年の中華人民共和国承認というのは、同じ中国という国でどの政府を承認するかに過ぎないことであって、1952年に中華民国が日華基本条約で行った国としての約束は引き続き有効ということです。連続性を重んじる考え方ですね。
しかし、最高裁はちょっと判断が違いました。
● 日華基本条約で放棄された請求権はあくまでも中華民国の支配する地域内に収まるものであって、「当然に」中華人民共和国の支配する地域に及ぶとは言えない。
● したがって、日中共同声明は事実上、中華人民共和国との平和条約という意味合いを持つ。日中共同声明によって中華人民共和国は請求権を放棄したと見るべき。
● 日中共同声明は個人請求権については明確でないが、サンフランシスコ平和条約の延長上にあるということなので、同条約の方式に倣って個人請求権も放棄されていると見るべき。
個人請求権というプリズムを通じて、中国という国への認識がかくも違うのかと思わされます。最高裁はあまり明確には言ってませんが、「1972年の日中共同声明は事実上(中華人民共和国政府が支配する地域については)国家承認に近いものであり、中華民国と中華人民共和国との間の単なる外交承認の切り替えだとする政府の立場を徹頭徹尾追求するのは無理がある。」ということを言ったように見えます。「そうは言ってないだろう」という反論があることは承知していますが、高裁が「日華基本条約によって個人請求権放棄」と言ったのをあえて覆して、「日中共同声明で個人請求権放棄」と言い切ったことには、新たな歴史解釈の広がりを感じます。
(注:私は相当に物事を簡単にまとめているので、詳細を知りたい方は最高裁判決を読んでいただくことをお勧めします。ただ、一般の方が読みこなしていくには相当難解であると思います。)
多分、中華民国と中華人民共和国との間で連続性をひたすら追求する政府の立場は、一般の人たちの常識観からは少しずれていると思うのです。やはり、田中角栄総理が中華人民共和国を承認したことというのは歴史の中の大きな断絶だと思うわけです。最高裁はそういう常識観を重んじたということじゃないのかな、そんな気がします。
ちょっとオタクなテーマでしたね。世間の関心は「個人請求権について法的な面での扉は完全に閉ざされた。さて、法律の世界を離れたところで何らかの配慮はなされるのか。」ということですよね。心情的には好意的でありたいとも思いますが、一旦これはやり始めるとパンドラの箱が開きそうなのでどうしても消極的な気持ちが頭をもたげます。私は官僚的で冷たいのでしょうか。
http://ameblo.jp/rintaro-o/entry-10032780956.html