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□過去史清算:親日・反日の二分法からの脱却を [朝鮮日報]
http://www.chosunonline.com/article/20070506000023
記事入力 : 2007/05/06 17:10:58
過去史清算:親日・反日の二分法からの脱却を
過去史は果たして一方的な清算の対象になり得るのだろうか。植民地時代を評価する二分法的裁断は、歴史の総体的真実とは異なる方向に進むのではないだろうか。
仁川文化財団(崔元植〈チェ・ウォンシク〉代表理事)が最近出版した隔月刊の文化批評誌『プラットフォーム』5・6月号は、特集「未来に進む過去の見方」を通じ、このデリケートな問題にアプローチした。民族主義的な親日・反日の議論は、それ自体が様々な限界を持っており、こうした二分法的歴史観こそが今や克服すべき対象になっているという主張だ。
植民地問題を研究してきた少壮学者の尹大石(ユン・デソク)博士(仁荷大BK21事業団)は、寄稿文「親日清算の意味と限界」で、昨年12月に親日反民族真相究明委員会が発行した第1次報告書の限界について指摘した。
尹大石博士は「この報告書は、1910年前後の親日行為者に対する“人的清算”に集中しているが、われわれが重視すべき親日問題の核心は、彼らが近代の重要な要素である植民主義思想を内面化し、それを流布させる思想的確信を帯びていたという点」と主張した。
尹大石博士は、この報告書の「親日派清算論」は「民族」と「近代(開発主義)」を肯定しつつも、「我が民族の植民地化」だけを問題にしていると指摘する。また、過去史清算論者らが語る「民族精気の回復」が、世界史的植民主義清算ではなく親日清算だけにとどまるならば、他者を排除する死の宴になるだろうと主張した。
一方、韓国芸術総合学校の許英翰(ホ・ヨンハン)音楽院教授の「安益泰(アン・イクテ)、二分法を超えて」は、最近親日論争のまな板に載せられた作曲家・安益泰(1906-65)を通じ、親日・反日の二分法的論調に正面から反論した。
「愛国歌」(韓国国家)を作曲した安益泰が42年、満州国建国10周年記念音楽会で記念曲を作曲し指揮を行ったという報道(本紙2006年3月8日付)は、多くの人々を困惑させた。だが、許英翰教授は「韓国という国家が存在しない状態で、日本のパスポートを持つ安益泰が日本人として活動したのは、ある意味当然のことだ。安益泰が日本の要請を拒み指揮棒を捨てたとすれば、愛国者にはなるだろうが、音楽家・安益泰は存在しなかっただろう」と指摘した。
これは、「愛国」と「親日」の二分法から抜け出した第3の見方が許容されない状況では、過去は歪曲(わいきょく)されるほかなく、こうした画一的に白黒つけようとする見方から抜け出し、安益泰が生きていた時代と正面から向き合い、グレーゾーンを許容する見方への移行を受け入れるべきだという主張だ。
また、過去史は韓国だけの問題ではない。「歴史は書き直すことができない」を寄稿した台湾・清華大の郭秀鈴研究院は、故・蒋介石(1887‐1975)元総統を祭る台北の中正記念館を撤去しようとする与党・民進党の計画について、「社会的記憶と歴史的痕跡を暴力的かつ無責任に消す行為」と批判した。蒋介石政権の独裁統治について、肯定的評価よりも非難する声の方が多いのは事実だが、権威主義時代の建築物は既に「一時期そうしたものが存在」したことを示す過去史の一部として定着したという主張だ。
このほか、中央大独文科の柳信(リュ・シン)教授は「芸術的記憶の中に再構成されたナチス」で、マルセル・バイアなどのヒットラー体制を体験したことのないドイツ新世代作家らが歴史的記憶の重圧感から抜け出し、「過去史」に対し自由な想像力を展開していると指摘した。これに比べ、韓国の事情はいまだに美しくない過去の残滓(ざんし)のため、記憶を文化的なレベルにまで高揚させるにはほど遠いという主張だ。
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS