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□高句麗では国際相撲大会が開かれていた? [朝鮮日報]
http://www.chosunonline.com/article/20070506000002
記事入力 : 2007/05/06 10:15:13
高句麗では国際相撲大会が開かれていた?
【新刊】安輝濬(アン・フィジュン)『高句麗絵画』(ヒョヒョン出版)
韓国美術史研究で一つの新時代を開いた著者が、古墳壁画を通じ、高句麗の文化を解釈した。序文で著者は、高句麗全盛期の地図を示しながらこのように述べる。
「高句麗は韓国史上最も強大な国だった。そのため、軍事力こそ強大だったものの、文化的には多少遅れた武骨な国だったのではないかという漠然とした偏見がいつの間にか根を下ろしている。しかし、高句麗は独創的かつ進取的であり、複合的な文化を花咲かせた文化先進国だった。百済や新羅、伽耶だけでなく、日本にも大きな影響を及ぼした」
高句麗の国際性は古墳壁画に明瞭に表れる。中央アジアなどに起源を発する天井処理方式「抹角藻井法」や、古代エジプトに由来する植物模様の装飾である唐草模様などを高句麗古墳で見ると、高句麗が対外的にどれほど開かれた国だったかをうかがうことができる。
また、これは単なる芸術的な側面だけにはとどまらない。韓国最初の「国際スポーツ競技」を描いた絵もほかならぬ高句麗の古墳壁画に描かれているのだ。
吉林省集安にある「シルム墓」(角抵塚)を見てみよう。5世紀の墓と推定されるこのシルム墓には、上半身を裸にし、下着だけを身にまとった状態で互いにまわしを握りしめた力士らが描かれ、既に今日のシルム(韓国相撲)とほぼ同様のスタイルであったことを示している。そして、右側の力士は鋭い目つきと低い鼻の典型的な韓国人の姿をしているが、一方、左側の力士の姿は一風変わっている。ぎょろっとした目つきに高く突き出た鼻のラインは、この力士が西域から来た人物であることをうかがわせる。もしかしたら1600年前の高句麗で、「広開土大王杯争奪国際シルム大会」が開催されたのかも知れない。
このほかにも著者は、日本の法隆寺金堂壁画が高句麗僧の曇徴により描かれたという「俗説」にメスを入れる。日本最古の歴史書である『日本書紀』によれば、曇徴は610年に日本に赴いたとされている。しかし、法隆寺は670年に落雷で全焼したとされ、20世紀初めに行われた発掘調査でも法隆寺は7世紀後半から 8世紀初めにもともとの位置から移転し、再建されたというのが定説になっている。それならば法隆寺金堂壁画は、曇徴が描いたものが残っているわけではなくなる。だが、著者はこのように推測する。
「法隆寺を再建する際、高句麗の尺度を基礎にしたというのが日本学者らの見解であり、壁画はやはり高句麗を中心に百済系画家も制作に加わって描かれたのだろう」
ところで、高句麗古墳壁画については、この本以外にも蔚山大の全虎兌(チョン・ホテ)教授の『高句麗古墳壁画の研究』(四季節)がある。また、高句麗古墳壁画に見られる中国の影響については、やはり全虎兌教授の『中国の画像石と古墳壁画』(ソル)に詳しく紹介されている。
慎亨浚(シン・ヒョンジュン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS