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http://d.hatena.ne.jp/honyakusha/20070416 から転載。
2007-04-16
主題: 日本軍の「慰安婦」制度
報告者: Larry Niksch
日付: 2007年4月3日
この報告書は議会の複数の依頼者に対して配布するために議会調査局が用意した。
この報告書は1930年代から第二次世界大戦までの日本軍によって組織され、日本軍の軍人との性行為を提供することを目的とした「慰安婦」制度に関する背景知識を提供する。この件に関してより詳しい情報が必要であれば著者に内線77680で連絡ができる。
■はじめに 20:46
この報告書は多くの観点から慰安婦問題についての議論を試みる。この慰安婦問題は米国側と日本側の2つの施策に関する議論から始まった。この2つの施策はそれぞれ日本政府と米国下院の間の論争を引き起こしていた。米国側の施策としては日本の慰安婦問題を批判した2006年の上院外交委員会における決議案と2007年の下院外務委員会における決議案があり、日本側の施策としては慰安婦制度に対する日本軍の監督を認め、謝罪した1993年に出された宣言(河野談話)を改正しようとする日本政府の特別委員会による動きがある。この報告書は2007年3月1日以降に出された安倍晋三内閣の慰安婦問題に関する数多くの声明を秩序立てて要約しようと試みるものである。この報告書は慰安婦制度に対する日本政府と軍の関与を示す証拠と具体的な関与の仕方について記述する。その次に1990年以降慰安婦問題に関して言及した日本政府の過去の記録を示し、それに対する元慰安婦と彼女らが属する政府の反応を述べる。他の論点としては日本の歴史教科書における慰安婦問題および日本と米国裁判所における慰安婦訴訟について扱う。最後に2007年以前の日本の政策と河野談話を修正しようとする動きと2007年3月1日以降の安部首相の発言、以上3点の信頼性について評価する。
■下院決議案 20:46
第二次世界大戦以前および大戦中の日本軍の「慰安婦」についての歴史問題が日本政府と米国下院の間で議論となっている。この問題は日本、米国、その他数カ国の間のメディアで関心を引きつつある。慰安婦問題は1990年代から関心を集めつつある。現在、日本政府と米国下院との衝突を起こしているのは2006年と2007年に下院に出された二つの決議案と日本政府のその決議案への反応が原因となっている。
H.Res.759.
最初の決議案は2006年9月13日に上院外交委員会に提出された H.Res.759である。この決議案は全議会で投票にかけられることなく2006年11月に継続審議になった。この決議案の主な条項は以下のようになっている。
「1930年代および第二次世界大戦の間、若い女性を性奴隷(一般には「慰安婦」と呼ばれる)にした責任を日本政府は公式に認めるべきである」という意見を表明する。
日本政府は「性奴隷」にする目的で慰安婦を「組織的に誘拐、隷属」させた。
「慰安婦は家庭から誘拐されたか、または嘘の勧誘によって性奴隷にされた」
日本政府の慰安婦制度は慰安婦に対して「人道に反する数え切れない犯罪」という苦痛をもたらした。
歴史家は20万人もの女性が「性奴隷にされた」と結論付けた。
日本の歴史教科書の中の慰安婦制度に関する記述を縮小または削除しようと日本政府は努力してきた。
日本政府は「この人道に反する恐ろしい罪」を現在および将来の世代に教育するべきであり、慰安婦への支配と隷属はなかったという主張を公式に否定するべきである。
日本政府は慰安婦に関して国連とアムネスティ・インターナショナルの勧告を受け入れるべきである。
H.Res.121.
2つ目の決議案は2007年1月31日に提出された H.Res.121であり、現在も下院外務委員会において議論されている。この決議案は下院において75人が発起人となっている。主な条項は以下の通りである。
1930年代および第二次世界大戦の間「日本帝国軍が若い女性を強制的に性奴隷にした歴史的責任を日本政府は明白で疑う余地のない方法によって承認し、謝罪するべきである。」
日本政府は「帝国軍への性行為という唯一の目的のために若い女性を職務として連行した。」
「日本政府による強制軍売春という『慰安婦制度』」は「残忍さという点で前例のないもの」と認識されており、また「20世紀における最大の人身売買の一つ」である。
日本のいくつかの教科書では「『慰安婦』の悲劇や第二次世界大戦中の他の戦争犯罪を軽視しようと努めている。」
「日本政府は慰安婦だった人々が受けた深刻な苦しみに対して誠実な謝罪とお悔やみを表明する」という内容を「日本の官僚」は希釈または撤回しようとしている。
日本政府が支援したアジア女性基金は1995年以来慰安婦に対する「贖罪として」の支払いを委託されており、その額は570万ドルに達する。
慰安婦制度は存在しなかったという主張を公式に否定するべきである。
日本政府は「『慰安婦問題』に関して国際社会の勧告に従い」現在および将来の世代に対して慰安婦制度について教育するべきである。
■河野談話を修正しようとする日本のキャンペーン 20:46
2006年10月安倍晋三が総理大臣になったわずか数週間後、内閣官房副長官の下村博文は慰安婦問題についての再調査を命じた。日本の指導的な新聞である読売新聞は社説で河野談話は「性奴隷として強制労働させられた女性を移送したことを示す」充分な証拠によって根拠付けられていないと論じた。2007年の初頭に自民党主流派の議員で作られる日本の前途と歴史教育を考える議員の会は国会に小委員会を設立した。この委員会は中川昭一自民党政調会長によって支援されている。この委員会は河野談話の再検討を行うと宣言している。中川は2007年3月9日に「軍が女性を連行し、意思に反して強制的に労働させたことを示す証拠は現在のところ見つかっていない」と発言した。2007年2月20日に麻生太郎外務大臣は「慰安婦は軍の職務であったのか」という質問に対して疑問を呈している。日本の新聞は、総理府は河野談話の修正を検討していると断じている。2007年3月1日日本の前途と歴史教育を考える議員の会は提案の草稿を明らかにした。この提案は河野談話に「意思に反した雇用が民間業者によって行われた可能性はあるものの、軍や他の政府機関によって女性が連行されたことはなかった」という文章を付け加えようと意図している。この提案は更に「(河野談話の慰安婦に対する謝罪の)根拠は元慰安婦への聞き取り調査のみであり、文書化された証拠はこれまで発見されていない」という文章をも挿入しようするものである。またこの提案は河野談話の「軍慰安婦」という言葉から「軍」を取り除くことを呼びかけている。これら修正案の公表の時に委員会は河野談話を修正する根拠として米国下院決議 H.Res.121 を引用している。(詳細は以下の加藤・河野談話の節を参照。)
■安部首相と内閣の声明 20:46
この自民党の委員会が修正案を用意したことと米国下院が H.Res.121 決議案(この決議案は2007年2月中旬に行われたアジア太平洋地球環境小委員会で行われたヒヤリングを含む)の検討を始めたことを受け、安倍晋三首相と内閣は2007年3月にいくつかの声明を出した。安部の声明は日本国内において支持と批判を共に受けている。いくつかの声明は米国内からも批判を受けておりトーマス・シーファー米大使は、慰安婦制度に対する歴史的説明を修正することはアメリカにマイナスの影響を与えると警告している。オーストラリアとフィリピン政府も批判を行っている。安部声明は以下の主要な特徴を含んでいる。
慰安婦を雇用する際に「日本軍または政府」による「当初言われた強制があったことを支持する証拠はない」
軍のために業者が明らかに強制的に採用した事例はあったが「憲兵が家屋に押し入り、誘拐のように連れ去った」ことはなく「慰安婦狩りが行われたとする証言は全くのでたらめである。」
元慰安婦の証言に関して安部は2007年3月5日に「慰安婦狩りが行われたとする証言は全くのでたらめである」と報告していた。元慰安婦の証言は証拠と考えられないのかという野党議員の質問に対して安部は答えていない。
米国下院決議案 H.Res.121 の中で言われている意味では日本政府は慰安婦に謝罪をするつもりはない。
一方で安部は日本政府は慰安婦問題に関してこれまでの日本政府の立場(「日本政府は多くの機会に慰安婦に対して謝罪を行ってきた」とする立場を含む)を継承するつもりであると発言している。
安部は「河野談話を支持する」つもりである。しかしながら安部は2007年3月16日の内閣の声明は、河野談話が当時の首相宮澤喜一および1993年以降河野談話を継承してきた歴代の内閣によって公式には承認されていないことを指摘しており、河野談話を完全に受け入れるつもりではないようである。
安部は橋本と小泉を含む元首相の名前で出された、アジア女性基金の支援を受けた慰安婦への謝罪の手紙を支持している。「私は前任者たちと全く同じ気持ちを持っています。それはいささかも変わっておりません。」
安部は2007年3月26日の内閣での声明で「私はここに内閣総理大臣として謝罪する。慰安婦の方が置かれた状況に深い同情を申し上げる。」
安部はまた強制に関して自分の声明を部分的に修正している。「望んで慰安婦になった者はおそらくいなかったのだろう。広い意味での強制はあった。」
ブッシュ大統領との2007年4月3日の電話による会話の中で「安部首相は、河野元官房長官の談話によって表されている日本政府の立場と矛盾していないことを認め、慰安婦の方が受けた計り知れない苦痛と困難に対する心からの同情と誠実な謝罪を表明した。」
安部首相の声明と河野談話に基づく日本政府の立場の間の矛盾は安部内閣から出された二つの対照的な声明を見ると良く分かる。2007年3月5日の声明の中で塩崎恭久官房長官は河野談話は慰安婦制度への日本軍の関与を認めたものであると発言した。塩崎は慰安婦の採用は「軍の要求に応えるように民間業者が主に行った」としながらも「時により軍が直接参加したこともあった」とし、採用に関しては「多くの場合本人の意思に反して行われた」と認めた。塩崎は政府が河野談話の主張を承認している立場にあるのは明らかであるとした。しかしながら彼の声明は2007年3月16日の内閣から出された声明と矛盾しているように見える。その声明の中で、塩崎は河野談話の基礎になった1991年から1993年に政府が使用した文書の再検討を行ったと発表した。その声明は「研究調査の対象になった資料の中には軍または政府機関がいわゆる強制連行を行ったことを示すどのような記述も発見できなかった」としている。
安部は、河野談話を再評価しようとする自民党の有力者たちの意図にかなり肯定的な立場である。「党が調査研究を行うなら政府は必要に応じて資料を提供し、協力すると私は言われた。」
■慰安婦制度に関係する明白な事実 20:46
慰安婦制度は日本が1930年代に中国への軍事的拡張政策を始めたときに出現した。この制度は1941年に日本が米国を攻撃し、日本軍が東南アジアおよび太平洋西南地域に進出したときに拡大した。対象となる女性は「慰安婦」と呼ばれていた。多くの人は慰安婦の数を5万〜20万人の間で見積もっている。彼女らの大部分は朝鮮人であった。残りの大部分は中国人、台湾人、フィリピン人、オランダ人、インドネシア人で構成されていた。
慰安婦制度に関する情報は第二次世界大戦の後、定期的に流れていたが1980年代および1990年代の初めになるまでは日本において主要な著作が現れなかった。その年代になるまでは日本に占領された国の政府や市民が慰安婦制度について公に議論することはあまりなかった。1990年代には慰安婦問題は日本と隣国の間での日本の占領政策に関する論争の一つとなった。日本政府と市民グループと日本に占領された国々の間の論争では以下のような点が問題となった。日本は軍と政府が慰安婦制度を悪用した責任を完全に認めたか。日本は公式の謝罪を元慰安婦に対して行ったのか。日本は金銭的な補償をするべきなのか。日本の教科書は第二次世界大戦の章で慰安婦制度を記述するべきなのか。
慰安婦制度の運用に関して1990年代と2000年代に明白な事実が浮かび上がってきた。主なものは以下の通りである。
歴史研究家吉見義明博士は1992年に自衛隊図書館で1930年代終わりの占領された中国における日本軍の慰安婦制度に関する文書を発見した。吉見博士はその文書を日本の主要紙の一つである朝日新聞に渡し、朝日新聞は1992年1月11日に記事を載せた。吉見は1995年に『従軍慰安婦』という本を書いた。
台湾 Academia Sinica の歴史教授である Chu Te-lan は1990年代に文書を発見した。その文書は慰安婦制度への日本軍、台湾総督府、台湾開発会社(Taiwan Development Company)の間の関係を記述している。
アメリカ戦時情報局は1944年10月1日のレポートで連合軍が北ビルマのミッチーナーを日本から奪還した後に1944年8月にミッチーナーで見付かった20人の朝鮮人慰安婦に対する聞き取り調査について報告している。(この報告書はアメリカ国立公文書館にある。)
朝鮮にいたアメリカ人の伝道師 Horace H. Underwood が1942年8月に日本によって送還された後にアメリカ政府に対して朝鮮における慰安婦の採用について報告した。(この報告書はアメリカ国立公文書館にある。)
アメリカ戦略局(OSS)による1945年3月6日の報告書では中国の昆明で行った23人の朝鮮人慰安婦への聞き取り調査がある。この女性たちは仕事をしていた日本軍部隊から逃げ出し、1944年9月に中国国境に到達した。(この報告書はアメリカ国立公文書館にある。)
1992年の南朝鮮外務省の報告書では朝鮮での慰安婦制度についての日本軍の文書が引用されている。
オランダ領東インドでのオランダ人女性の強制売春に関するオランダ政府の研究報告が1994年に公表された。またオランダ公文書館の文書AS5200にはオランダ人女性への戦争犯罪に関する日本人容疑者への尋問の記録、オランダ人とユーラシア人慰安婦の証言、日本軍によってジャワに設立されたオランダ人女性収容キャンプの運営者の証言および収容されていた女性の証言が含まれている。AS5200には他にも1947年と1948年にオランダ軍によって開催された慰安婦に関する戦争犯罪法廷の裁判記録が含まれている。
1992年から1993年に日本政府によって行われた日本の省庁および政府機関の文書の調査、元慰安婦、元日本兵への聞き取り調査、日本占領時代の朝鮮政府の官僚への聞き取り調査、慰安所の運営者への聞き取り調査。この報告書は河野談話の基礎になった。
数百人の朝鮮人、中国人、台湾人、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人女性の証言。これらの証言の多くは2002年に出版された『Japan's Comfort Women』(タナカ・ユキ著)に記述されている。この本は400人を超える女性への聞き取り調査への言及がある。
これらの文書と報告書は慰安婦制度に関して日本国内および日本と他の数カ国との間で議論されている3つの問題についての情報を提供している。
(1) 慰安婦制度を作った日本軍と政府の関与の度合い。日本政府と軍が直接慰安婦制度を作ったことは明らかである。1992年から1993年の日本政府の報告書ではそれぞれの地域で軍の役人が慰安所の設立の過程に携わったことを認めている。軍は慰安所の創設を助け、その運営を規制した。Chu Te-lanによる台湾の文書によれば日本の中国侵略を支援する目的で台湾総督府の命令で台湾開発会社からの資金提供が行われていた。1939年まで台湾総督府は台湾開発会社に指示して台湾人慰安婦を雇用させ、中国の海南島へ慰安婦を送っている。海南島では日本軍は台湾開発会社の全活動を監督しており、台湾開発会社の活動には62箇所の慰安所の設立が含まれている。吉見の文書では中国にいた日本軍部隊は1937年の侵攻に伴って北支、中支に慰安所を設立していった経過が明らかになった。その文書の一つである1937年7月に北支方面軍の司令官から出された命令には方面軍に所属する各部隊に対して「できるだけ早く性的慰安の施設を整えるのが非常に重要である」と記されている。1992年の南朝鮮外務省のレポートでは朝鮮にいた日本軍が慰安所を設立するために同様の命令を受け取ったことを報告している。
(2) 日本軍は慰安婦の雇用と移送に関与したのか、また日本兵に性行為を提供する「慰安所」の管理に関与したのか。日本軍がこの制度の運用のあらゆる段階に関与していた証拠は明らかである。日本の現地政府はしばしば台湾開発会社のような私企業と慰安婦の雇用に関して契約を結んでいた証拠がある。ビルマのミッチーナーで米軍の聞き取り調査を受けた朝鮮人慰安婦はサインした雇用契約に彼女らが日本軍の規制に従うこととなっていたと述べている。吉見の文書の一つである1938年3月4日付けの「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」という題の文書では日本の陸軍大臣から北支方面軍に対して「募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局 トノ連繋ヲ密ニ以テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス」と命じている。特記すべきなのはこの文書には陸軍省次官梅津美治郎の印があった。梅津は後に陸軍参謀総長となり第二次世界大戦の最後の年には戦時内閣で陸軍の代表をしていた。梅津は1945年9月2日に戦艦ミズーリ上で日本軍の降伏文書にサインをした。他の吉見の文書では日本軍が北支に設立した慰安所が日本軍現地司令官の監督下にあったことを記載している。多くの地方で慰安所の運営がしばしば「おやじ」と呼ばれる民間人によって運営されていた明らかな証拠がある。しかし軍の現地司令官は慰安所の運営に関して営業時間、上官と下士官が顔を合わせないで済むような時間の振り分け、憲兵の駐在、健康診断と治療に関する細かな規制を課していた。ミッチーナーの朝鮮人女性は米軍士官の質問に対してそのような規制について述べていた。1993年の日本政府のレポートでは慰安所の運営についてこのような点に重点が置かれて記述されている。
(3) 慰安所に勤めるようになった女性は自発的に来たのか、そうでないのか。この問題は女性を雇用するのに使われたやり方および慰安所における女性の地位に関連がある。安部首相の声明および H.Res.121 ではこの点を描写するのに「強制 coerce/coercion」という言葉が使われている。The American College Dictionary では強制 coerce/coercion を「力ずくで何かを強いること」または「そのような制約」と定義している。400人以上の証言を扱ったタナカ・ユキの『Japan's Comfort Women』では200人近い女性が日本軍または憲兵または軍の使者による強制連行について述べていた。これはとりわけフィリピン人、中国人、オランダ人女性に対しても同様である。1993年の日本政府のレポートでも「業者は多くの場合女性に対して甘言や脅迫を用い、意思に反して雇用した」と書かれている。
フィリピン人、中国人女性の証言や日本軍の文書でも中国やフィリピンで日本兵による強姦が広がっていたことが分かっている。上で引用した北支方面軍の参謀総長からの命令でも「多くの場所で日本兵による強姦が広がっている」ことについて言及がある。強姦は明らかに日本軍と中国軍あるいは日本軍と1943年から1944年にかけて出現したフィリピンゲリラとの間に大規模な戦闘があった地帯で数多く発生していた。現地の日本軍部隊はフィリピン人、中国人の少女を誘拐し、数週間から数ヶ月に渡って監禁し、強姦を繰り返したことが報告されていた。オランダ政府の文書にも1942年に日本軍がオランダ領東インドに侵攻した直後に日本兵による強姦の被害を訴える数多くのオランダ人女性の証言が記録されている。
オランダ公文書館の文書AS5200や1994年の「日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に関する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」に記載されているようにオランダ政府の戦争犯罪法廷でも強制的な徴用は罪を問われ、記録されている。これらの文書では日本軍が強制的にオランダ人女性を日本軍の監督の下で収容キャンプから連れ去り(時折キャンプの収容者の抵抗にあっている)慰安婦として働くよう強制したことが記録されている。多くの日本軍士官が戦争犯罪法廷でオランダ人女性に対する罪で有罪を宣告された。これらの文書はユーラシア人やインドネシア人の強制徴用についても記録されている。
証拠によれば軍または軍と契約した売春斡旋業者は嘘を付くのが一般的な慣行であったと分かっている。ミッチーナーの朝鮮人女性は自分達やビルマにいるほかの朝鮮人女性は負傷した日本人部隊を看護するためにシンガポールの病院で働くことになると業者が言ったと米軍の担当者に対して語った。中国の昆明にいた韓国人女性の多くは、自分達と他の300人の韓国人慰安婦はシンガポールにある日本の工場で働くという朝鮮の新聞広告を見て就職したと証言している。昆明のOSSの報告書では「23人の女性はすべて明らかに強制と嘘の募集によって『慰安婦』になった」と結論付けている。元慰安婦による多くの他の説明でも業者が雇用の際に嘘の説明を行ったことが報告されている。南朝鮮外務省の報告でも日本人と現地の業者が嘘を付くのが常態であったと述べている。1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃まで朝鮮にいたアメリカ人伝道師Horace H. Underwood からの報告がアメリカ戦時情報局から公表されている。Underwoodによれば日本人は「さまざまな手段によって多くの朝鮮人の少女を勧誘し、満州と中国の売春宿に送った。」そしてこのことは朝鮮人の「尽きることのない恨みの源泉」であった。業者は日本の認可を受けた金融業者に多額の負債のある、少女のいる家庭を狙い、説得と脅迫を組み合わせて女性を獲得したことが分かっている。ミッチーナーの朝鮮人女性は病院でボランティアで働くことは家族の借金を帳消しにする一つの方法であると業者が言ったと証言している。タナカ・ユキの本で証言している女性の中で強制連行ではなかった多くの女性は同様の嘘の話を業者からされたと語った。
ミッチーナーの朝鮮人女性の証言や他の証言では一度慰安所に女性が到着すると日本軍が解放するまでか、帰宅を許可するまでは労働しなければならなかったことははっきりしている。その朝鮮人女性はミッチーナーで1943年に軍が何人かの朝鮮人女性を解放したと証言している。しかしこの証言および他の多くの女性の説明では多くの女性は第二次世界大戦の間慰安所にいたことを示している。昆明にいた朝鮮人女性達の話では日本軍が朝鮮への帰還を許可しなかったため彼女らは日中戦争の最前線を横切る危険なコースを通って逃げ出したという意味のことを言っていた。
2007年の慰安婦の採用時に強制があったかどうかという論争は慰安婦が自分の意思で就業したかどうかという広義の議論に発散している。もし偽の労働条件を見て就業を決めたことを非自発的と言うのであれば現在手に入る資料からほとんどの慰安婦は非自発的に就業していたことに疑問の余地はない。この制度は女性が本当に自発的に就労するような職業ではないように思われる。
■1992年と1993年の加藤・河野談話 20:46
吉見文書の暴露を受けて日本政府は1991年から1993年にかけて独自の調査を行った。その調査の結果として1992年と1993年の2回官房長官が談話を発表した。最初の談話は加藤紘一官房長官が1992年7月6日に発表したもので、主なポイントは以下の通りである。
日本政府は「慰安所の開設、慰安婦として雇用された人の管理、慰安所の設備の建設や増築、慰安所の管理と監視、慰安所の衛生管理、慰安婦の健康管理、慰安所に関係する人の身分証明の発行に関与した。」
「政府は再びいわゆる『戦時慰安婦』といわれる言葉にしがたい苦しみを受けたすべての人々に、国籍や出生地を問わず、誠実な謝罪とお悔やみを表明したい。」
河野洋平官房長官は1993年8月4日に政府の談話を発表した。その主要なポイントは以下の通りである。
「非常に多くの慰安婦」が実在した。
「慰安所の運営は当時の軍の要求に応えたものであり」「軍は慰安所の設立と運営および慰安婦の移送に直接的、間接的に関与した。」
「慰安婦の採用は軍の意向を受けた民間業者が主に行った。」
慰安婦は「多くの場合甘言や脅迫などによって意思に反して採用された、そして軍または政府の人間が採用に直接関与することがあった。」
慰安婦は「強圧的な雰囲気の慰安所で困窮した生活を送った。」
慰安婦の「大部分」は朝鮮人であった。
日本「政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。」
■アジア女性基金 20:46
1992年と1993年の談話を受けて日本政府の官僚は生存している慰安婦を支援する意向を発表した。具体的にはアジア女性基金のことである。アジア女性基金は社会党員である村山富市首相が設立し1995年7月19日に開設された。アジア女性基金は支援を申請した元慰安婦に対して次の3つのプログラムを用意した。(1) 元慰安婦一人当たり200万円(およそ2万ドル)の贖い金、(2) 元慰安婦一人当たり250〜300万円(2万5千〜3万ドル)の医療と福祉サポート、(3) 受領者一人ごとに首相からの謝罪の手紙。
贖い金は1996年から2002年に活動を停止するまで元慰安婦に直接支払われた。その期間中285人の元慰安婦に対して5億6500万円(およそ570万ドル)が支払われた。医療サポートは2002年を過ぎてもいくつかの国で継続して行われている。2006年3月現在、アジア女性基金はこれらのプログラムに南朝鮮、台湾、フィリピンで7億円(およそ7百万ドル)提供し、3億8000万円(およそ380万ドル)をインドネシアに、2億4200万円(およそ242万ドル)をオランダに提供した。アジア女性基金は2007年3月に活動を終える予定である。
アジア女性基金のプログラムで金銭を直接日本政府が提供する点が議論になった。政府は1995年から2000年3月まで合計350億円(およそ3500万ドル)の運営費用を支出した。政府はさらに医療福祉サポートにも支出した。しかしながら政府は贖い金を支払うことを拒否した。贖い金の資金は日本人の個人による献金を通して集められた。2004年3月の日本外務省の声明によるとアジア女性基金は「個人、企業、労働組合、政党、議員、閣僚」などから5億9000万円を集めていた。政府はもっと献金を集めるためにアジア女性基金のキャンペーンには支出している。1951年の日本と連合国との間の平和条約によって日本政府の支払う補償は日本に占領されていた国と連合国に対して支払われ、ありうる全ての個人補償はこの資金から拠出されるように定められており、日本政府の直接補償についての基本的立場はこの原則に従っている。日本政府は日本に占領されていたいくつかの国と同様の条約を結んでいる。報道によれば仮に元慰安婦に直接補償を行った場合、第二次世界大戦中に受けた被害に関して同様の補償を求めるグループが現れるかもしれない可能性を政府は恐れているという。しかし政府が直接補償をしないのは慰安婦制度の責任をすべて引き受けるつもりがない現れだと批判された。
■首相から元慰安婦への謝罪の手紙 20:46
1995年7月にアジア女性基金が創設された時点で村山首相は基金の支援を受けた人一人一人に謝罪の手紙を送ることを約束した。村山は慰安婦制度について「国家の過ち」であり「全く弁解できない」と表現した。しかし保守的な自民党の党首でもあった橋本龍太郎次期首相は1996年に首相に就任すると、最初の贖い金を実施しようとしたアジア女性基金に対してそのような手紙を書くことを拒絶した。これはアジア女性基金の役員から批判を受けた。三木武夫元首相の妻であった三木睦子はこれに抗議して役員を辞任した。1996年7月になると橋本首相は態度を変え、8月に最初の謝罪の手紙を出した。同一の手紙が4人の首相(橋本、小渕、森、小泉)から贖い金の受取人に対して送られている。
この手紙の内容は以下の通りである。
「日本国の総理大臣として」の言葉である。
「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた。」
首相は「慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ち」を表明する。
首相は単なる手紙の受け取り手だけではなく慰安婦全員に対して謝罪する。
「わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝える」ことを首相として保障する。この手紙で使われた「おわび」という言葉は日本語として罪の認識を含むとても強い意味を持った言葉である。
■アジア女性基金への諸外国の反応 20:46
1996年から2002年の間にアジア女性基金から贖い金を受け取った女性は285人にすぎず、生存する元慰安婦のごく一部であることは疑いの余地はない。その上200人近い女性はフィリピン人とオランダ人女性(オランダ人は79人であり、フィリピン人は100人以上であると推定される)のようである。ただしアジア女性基金はオランダ人を除いて贖い金を受け取った個人の情報開示に慎重であるため正確な内訳は分からない。台湾人でこれまで受け取ったのは40人程度でありかなり少なく、とりわけ朝鮮人の場合はほとんどいない。このような状況になったのは3つの理由があると思われる。一つ目の理由は特にアジアの社会で顕著であるが補償を申請することで元慰安婦であったことが公になり社会的烙印を押されることを恐れたこと。二つ目は日本政府は公式に謝罪していないとして贖い金の受け取りを公然と拒否した元慰安婦がいたこと。このような受け取りを拒否した元慰安婦は数カ国で組織されている団体に所属しているメンバーに多く見られる。三つ目として政府や非政府機関(NGO)が圧力、場合によっては脅しとも取れるような態度で元慰安婦にアジア女性基金からの贖い金や他のサービスを受け取らないようにしむけた節が見られることである。これは特に南朝鮮で顕著であるように思われる。
南朝鮮政府は1993年3月29日に生存している元慰安婦に対して補償を行う計画があることを宣言している。これは一人に付き6400ドル相当のお金と一月に250ドルを支給する計画である。しかしアジア女性基金の設立以降、政府と南朝鮮のNGOはこの計画があることを理由に朝鮮人の元慰安婦に対しアジア女性基金からの支払いや他のサービスを受け取らないように圧力をかけた。1997年1月に7名の南朝鮮人の女性がアジア女性基金からの贖い金を受け取ると南朝鮮政府は直ちにそれに反対する立場を取った。政府はアジア女性基金に関して日本政府に公式に不快感を表明し、日本政府が直接補償を行うように要求した。朝鮮人元慰安婦を代表していると主張する「日本によって軍性奴隷に徴用された女性のための朝鮮人会議」など主導的なNGOも同様の立場を取っており、政府もこれを支持していた。これらの団体はアジア女性基金からの支払いを受け取った7名の女性を鋭く批判した。これらの団体の勧告を受けて政府は1998年3月に元慰安婦に対して支給する額を大幅に増やすと発表した。南朝鮮政府の官僚はこの基金は朝鮮人の女性がアジア女性基金からの支援を受け取る可能性がないように意図したものであると語った。そして政府からの支援を受ける条件としてアジア女性基金からの支援を受けないことを新たに設定した。「朝鮮人会議」と「市民連合」は共にアジア女性基金からの支援を受けた女性に反対するキャンペーンを張った。結果として1997年1月に7名の女性がアジア女性基金からの贖い金を受け取った後に他に支援を受ける朝鮮人女性はいなかった。報道によればアジア女性基金は当初の予定である5年間の期限を過ぎても南朝鮮に対し支援を受け取るように勧告した。このプログラムは2002年に終了する予定であった。しかし最終的にこのプログラムの打ち切りを決定した。この決定には南朝鮮政府とNGOの反対の影響があった。
1998年3月以降、南朝鮮の基金から受給資格を持つ元慰安婦一人への支払額は4300万ウォン(およそ43000ドル)に達した。これに加えて月々の生活費の支給額は74万ウォン(およそ740ドル)であった。この基金は慰安婦個人への医療費の支給も行った。したがって1998年3月以降は南朝鮮の基金はアジア女性基金よりも支給額は多かったことになる。しかし2006年3月現在でこの南朝鮮の基金に申請を出した南朝鮮人女性は208人にすぎず、政府の管理者が元慰安婦として資格を認めた者は152人であった。派手な宣伝を行った南朝鮮政府の基金に対して、このようなわずかな申請者しかいなかったという事実は大部分の慰安婦は日本政府の基金に申請したかったのか、それとも自国の政府の補償計画に申請したかったのか、あるいは元慰安婦としての社会的烙印を押されることを恐れたのかという疑問を生じさせる。
台湾は1996年に独自の補償基金を設立した。台湾政府と民間組織である台湾女性救援財団(TWRF)がその資金を提供した。この基金は元慰安婦に対し50万新台湾ドルを支払い、この額はアジア女性基金の贖い金とほぼ同額である。政府とTWRFは日本が公式な補償をすべきであると主張している。アジア女性基金からおよそ40人の台湾人女性が支援を受けたと推定されている。しかしながら南朝鮮の場合とは違ってアジア女性基金に対する反発は少なくとも公然とは見受けられなかったようである。基金のプログラムは期間中に台湾の新聞で宣伝されていた。
アジア女性基金はフィリピン、インドネシア、オランダでもプログラムを実行した。これらの国々では基金の多くは日本政府から出資され慰安婦のためのより広い社会福祉に使われた。フィリピン大統領フィデル・ラモスはこの基金は法律上は私的なものであるがフィリピン人の元慰安婦の役に立つと語った。1997年1月15日にアジア女性基金とフィリピン政府は元慰安婦のための医療福祉支援プログラムに関する覚書にサインをした。このプログラムは、それから5年間にわたってフィリピン政府厚生省によって実施された。しかし二つのNGOグループがフィリピン人女性がアジア女性基金からの贖い金を受け取るべきかどうかという点をめぐって対立した。フィリピンLILAは公式に日本政府に対して支払いを要求したが、アジア女性基金に申請した女性には支援を行った。一方マラヤ・ロラズはアジア女性基金を拒絶した。アジア女性基金からの贖い金を受け取ったフィリピン人女性は100人を超えると見積もられている。
1997年3月にアジア女性基金はインドネシア厚生省と「インドネシアの老人のための社会厚生の向上」というインドネシア政府のプロジェクトへの財政支援について覚書を交わした。アジア女性基金の財政支援は10年以上に渡り総額3億8000万円(およそ3800万ドル)【訳注. この金額は原文ママ】に達した。このプロジェクトは老人を対象にしたものであったが元慰安婦に対して高い優先順位が与えられていた。インドネシア政府は女性がこの支援を受けるのを歓迎し、積極的に承認した。2004年3月の日本の外務省の声明によれば200人がこのプロジェクトの支援を受けた。
アジア女性基金は当初「日本の名誉ある負債のためのオランダ基金(FJHD)」という慰安婦を含む戦争被害者のNGOと交渉したがFJHDは基金による補償を拒絶した。オランダ政府の支援の下、アジア女性基金は他の民間団体である「オランダにおける計画実施委員会(PICN)」と元慰安婦の生活を支援するための覚書を最終的に取り交わした。3年間に渡ってアジア女性基金は2億4150万円(およそ2400万ドル)【訳注. この金額は原文ママ】を使い79名の女性を支援した。
H.Res.759は日本政府に対し国連とアムネスティ・インターナショナルの勧告に従うように要求した。H.Res.121 は日本政府に対し「国際社会」の勧告に従うように要求した。国連人権委員会は1990年代に慰安婦問題について調査を行った。国連特別報告官が1996年と1998年に人権委員会に提出した二つの報告書は日本を批判し、元慰安婦に対して公的な補償を行い、慰安婦制度の責任者を訴追するように要求している。しかし人権委員会はこれらの報告書を承認したが、決議の際には報告書で記載されている勧告を完全に支持しなかった。2001年9月に委員会は日本に対して「第二次世界大戦の犠牲者に対して補償する」ように勧告した。国際人権組織であるアムネスティ・インターナショナルはアジア女性基金を批判し、日本に対して元慰安婦に公的な補償を行うように要求している。
■日本の教科書での慰安婦問題 20:46
日本は慰安婦制度についての責任があるので日本の歴史教科書で慰安婦について論ずるべきかどうかについてしばしば論争になってきている。今日、日本国内で慰安婦に関して論争になっているのは歴史教科書について載せるべきかどうかという問題である。1997年日本の文部省はいくつかの中学教科書に女性の「強制的な雇用」に基づいた性奴隷という認識で慰安婦を論ずることを許可した。20世紀前半の日本の歴史は普通に思われているように否定的なものではないと信じている日本の政治家や研究会はこの決定と教科書の出版に対して激しい批判を行った。日本の歴史に対する肯定的な見方を提示する歴史教科書の出版の作業のために「新しい歴史教科書をつくる会」が結成された。2001年に承認された8冊の歴史教科書が慰安婦について触れていないのは疑いもなく「新しい歴史教科書をつくる会」の批判とキャンペーンの結果であった。南朝鮮は抗議の意味を込めて計画されていた日本との交流事業のいくつかを中止した。2005年には新しい8冊の検定済み教科書が慰安婦についての言及を取りやめ、慰安婦に触れているのは1冊のみとなった。中山成彬文部科学大臣は教科書の慰安婦についての説明は「不正確であった」と述べて、この決定を支持した。しかし日本政府は2006年に特に慰安婦について触れた16または18冊の高校の歴史教科書を承認した。同時期に日本、南朝鮮、中国の研究者で構成された会議は日本占領期の朝鮮(1910-1945)と日本の満州、中国侵略について60ページもの記述がある歴史教科書を出版した。この教科書は慰安婦問題について詳細に取り扱っている。上で引用してある2001年9月の国連人権委員会の日本に対する勧告では日本の学校教科書や補助教材において「公平なバランスのとれたやり方」で歴史を教えるように命じている。
■米国裁判所における慰安婦訴訟 20:46
3人の朝鮮人女性が1991年に日本の裁判所で行った訴訟を始めに元慰安婦を名乗る女性が日本の裁判所で何度か訴訟を起こしている。1998年に地方裁判所で勝訴したのを唯一の例外として、日本の裁判所は日本がアジア諸国の政府と結んだ補償に関する条約を理由に日本政府による直接補償を退けている。この結果は1951年の平和条約と1965年の日韓基本条約の内容からすれば当然と言える。平和条約は日本に領土を占領されていた連合国と補償に関する協定を結ぶよう日本に命じており、「この条約に別段の定がある場合を除き,連合国は,連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権(中略)を放棄する」と定められている。1965年の日韓基本条約【訳注. に付随する協定】では「両締約国は,両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が(中略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」となっている。それにも関わらず2005年の国連とアムネスティ・インターナショナルの報告書では日本政府に対し元慰安婦に直接補償を行うように命じていた。さらにその上個人で訴えを起こした同盟国出身者を弁護するある弁護士は、1951年に日本政府とオランダ政府の間で取り交わした手紙を引用したことがある。その手紙によれば日本は平和条約があったとしてもオランダ人個人による請求権を否定していないと書かれていたという。
2000年9月に中国、台湾、南朝鮮、フィリピン出身の15人の元慰安婦が米国外国人不法行為法に基づき日本政府を相手に請求権(金銭的な補償についての請求権を含む)をめぐってワシントンD.C.の地方裁判所で訴えを起こした。この訴訟は「Joo対日本裁判」と名付けられた。地方裁判所およびコロンビア地区の米国控訴裁判所はこの女性達の訴えを退けた。裁判所は、1951年の平和条約の条項から見て日本に対する個人請求権が有効かどうかという「政治的性格の強い訴え」の場合は米国裁判所よりも行政府に管轄権があるとする行政府の意見を取り入れた。2004年7月に米国最高裁判所は控訴裁判所に対して差し戻した。2005年6月に控訴裁判所は最初の判決を確定させた。訴訟は再び最高裁判所で審議され2006年2月21日にこの女性達の訴えは法的ではなく「政治的要求」であり政治的判断についてはその判断を裁判所が行うのではなく行政府に委ねるとする判断を下した。最高裁はもしこのような訴えを裁判所が受け入れたのだとすればそれは外交関係を指揮する大統領の権限の侵害に当たると考えた。
■結論 20:46
第二次大戦前から第二次大戦中にかけて日本軍と政府が慰安婦制度を創設し、運用していたことを1992年以降日本政府が完全に認めている点については疑問の余地はない。しかしながらその説得力に関しては安部首相の2007年3月の議論を呼んだ声明以前ですらも、小泉首相の靖国神社参拝(ここには日本の戦死者が祀られているが戦争犯罪で有罪となった主要な14人も祀られている)、歴史教科書問題、上で引用した文部大臣の発言のような日本の政治的指導者の個人的発言などの日本の歴史についての関連する議論を見る限り、多くの人の目から見てかなり信頼に欠けると言わざるを得ない。承認をめぐる論争は歴史教科書の問題を中心として今の日本でも続いており、ある者は歴史教科書から慰安婦に関する記述が削られている点が日本の首相から慰安婦に送られた手紙にある「過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝える」ことに疑問を投げかけることになると主張している。
慰安婦問題は1930年代および第二次世界大戦中の日本をどう見るかというより広範な議論の一部である。自民党の日本の前途と歴史教育を考える議員の会に代表される日本の歴史修正主義者はこの期間に日本が行った大罪を赦免したいと狙っているようである。歴史修正主義に反対する者は日本がこの期間の否定的な点に関しても承認すべきであり、これらを日本の後世に伝えていくべきであると主張している。このような歴史に関する論争の最近の例として高校の歴史教科書から沖縄戦(1945年4月〜6月)の間に発生した数千人規模の集団自決に果たした日本軍の役割に関する記述を削除するように文部科学省が指示した事例が挙げられる。
アジア女性基金は日本政府と資金提供者による元慰安婦に対する補償と支援に関して真摯な努力を続けてきたように思われる。すでに触れたように数カ国の政府はこの努力を評価したようである。
アジア女性基金の贖い金か、日本政府の公的な金銭的補償かという議論になった問題は主に法的議論か道徳上の議論かという問題と考えることができる。日本政府は平和条約、数カ国と結んでいる補償協定、1965年の日韓基本条約に基づく確かな法的立場を持っているようである。2006年2月に米国最高裁が「Joo対日本裁判」で下した判決は日本政府の立場を強化したように思われる。しかし公的補償を求めるのは心の問題である。アジア女性基金を擁護する者の中にさえ日本がドイツの例に倣って民間と政府が複合した基金を作り強制労働者や捕虜の虐待に対しても補償を行うこともできたと言う者もいる。慰安婦への公的補償は慰安婦以外の他の虐待を受けた集団からの賠償請求というパンドラの箱を開けるのではないかという憂慮を日本は示している。この可能性は1945年のアメリカによる日本の都市へのナパーム弾による爆撃(1945年3月9日の東京大空襲に始まり、推定で8万人以上の日本人を殺害した)と1945年8月の原爆投下に対するアメリカの公的補償を可能にする逆の危険性を孕んでいる。
日本政府は慰安婦への公式な謝罪として二つの文章を用いている。一つは1993年8月の河野官房長官談話であり、もう一つはアジア女性基金からの支援を受けた元慰安婦に送られる首相からの手紙である。首相からの手紙では書き手は「日本国の総理大臣として」言葉を述べている。この手紙はすべて同一な内容であるが「おわび」という言葉が使われており、「おわび」の対象は単なる手紙の受け取り手だけではなくすべての慰安婦に向けられている。これらが不適切であるという批判があるが、そのように批判する詳しい理由は不明である。謝罪の正しい形として国会決議を提案する者もいるが、現状では全会一致の決議がなされる見込みは遠い。
2007年3月の安部首相の声明のいくつかは、河野談話と首相からの手紙を再肯定したものもあるが、承認と謝罪の流れにしたがったものである。しかしいくつかの声明は河野談話と首相からの手紙と矛盾しているように思われる。安部は慰安婦制度の中で雇用のみを重視して他の面(移送、慰安所の設立と管理、慰安所での女性の管理)で果たした日本軍の深い役割を矮小化しようとする。軍は、とりわけ朝鮮では、雇用の大部分を直接行ってはいなかったのかもしれない。しかし安部政府の軍による強制連行の否定は1992年から1993年に政府が行った調査で得られた元慰安婦の証言やタナカ・ユキの本『Japan's Comfort Women』に記載されているアジア諸国出身の200人近い元慰安婦の証言や400人以上のオランダ人の証言と矛盾している。
女性の証言の信頼性が一方では安部政府と日本の前途と歴史教育を考える議員の会に間で重要なポイントとなっており、もう一方では河野談話と1992年と1993年の日本政府の報告書にとってもまた重要なポイントとなっているようである。河野談話と政府の報告書は元慰安婦の証言に部分的に基づいている。河野洋平現衆議院議長は2007年3月30日に1993年の談話は16人の元慰安婦に対する政府の聞き取り調査に基づいており、元慰安婦は「過酷な体験をした者でなくては語れないような説明を繰り返した」と語った。反対に強制の証拠はなかったとする2007年3月16日の内閣声明および日本の前途と歴史教育を考える議員の会の声明では元慰安婦の証言を信頼できる証拠とは考えていない。以前に述べたが、報道によると安部首相は国会議員に元慰安婦の証言を信頼できると思わないのかと尋ねられたときに何も答えなかったという。安部政府と日本の前途と歴史教育を考える議員の会は主に朝鮮の状況を念頭に置いて発言しているように見受けられる。朝鮮では慰安婦の雇用は市民の業者によって行われたようである。業者は暴力を使わずに嘘と家族への圧力を通して慰安婦を獲得した。(もっとも一部の元慰安婦は強制連行されたと主張している。)その上、強制的な雇用の証拠はなかったという主張はオランダ戦争犯罪法廷でなされたオランダ領東インド(現インドネシア)での7人の日本軍士官と軍に雇われた4人の市民労働者がオランダ人と他の女性に強制的な売春をさせ、強姦を行った事件を扱った裁判での事実認定と判決(3人の死刑を含む)を無視しているか、または拒絶しているように思われる。これは連合国と日本との間で1951年に締結された平和条約の11条に安部政権が反しているのではないかという潜在的に極めて重要な疑念が生じる。11条では「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」すると定められている。
他にも明らかに慰安婦の証言を拒否することで日本国外からの日本に対する支援が受けづらくなるという結果をもたらす。これは1970年代からの始まった北朝鮮による日本の市民の拉致事件にも当てはまる。2007年3月24日のワシントンポスト紙の『安倍晋三の二枚舌』という論説では北朝鮮による拉致事件に対する安部首相の情熱と「第二次世界大戦中に何万人という女性を強制連行、強姦、性奴隷化した日本の責任を取り消そうとする動き」を「安部首相の二重のキャンペーン」として対照的に描き出す。この論説は「もし安部氏が拉致された日本人市民の運命を探る件で国際的な援助を求めるのならば安部氏は日本の犯罪に対する責任を直接認め、彼が中傷している犠牲者に対する謝罪を行うべきである」と断言している。したがって日本政府が100人以上の元慰安婦の証言を拒絶すると外部の者にとっては北朝鮮による日本の市民の拉致事件の信頼性に対する疑問を抱かざるを得ないのである。
首相の矛盾した声明は自民党の日本の前途と歴史教育を考える議員の会の主張を支持しないとしても懐柔することを狙っているように思える。日本の前途と歴史教育を考える議員の会は河野談話を修正もしくは削除したいと望んでおり、慰安婦制度に対する日本軍の責任をおそらく赦免しようと考えている。これらの国会議員が発表している研究やそれに対する日本のメディアや大衆の反応は今後の日本における歴史修正主義者の影響を図る重要な目安になるであろう。
慰安婦に関する議論の多くが見過ごしている一つの点は連合国や占領下にあった国の元慰安婦がアジア女性基金から贖い金やまたは支援を受ける時に適度に自由に判断できたかどうかという問題である。フィリピン、インドネシア、オランダにおいては充分な程度自由に判断できたようであるが、台湾では慰安婦に思いとどまらせるような動きがあり、南朝鮮ではアジア女性基金からの支援を受け取らないように脅迫されていた。南朝鮮政府は元慰安婦に対し独自に潤沢な支援を行ったといっても、1997年にアジア女性基金の支援を求めた朝鮮人女性に対して南朝鮮が独自の支援を行うことを口実に、また他の手段も用いて圧力や脅迫を行ったことも事実である。アジア女性基金が「公的な」ものではないのでほとんどの元慰安婦は支援を拒絶し、結果として「非常に少ない」女性しか支援を受けようとしないことを理由に南朝鮮の新聞はしばしばアジア女性基金を侮辱している。南朝鮮政府と同様に新聞も1997年に政府が慰安婦に脅迫をかけたことを否認し続けている。
アジア女性基金の記録と南朝鮮政府、台湾政府の基金の記録によれば最終的に贖い金を受け取ったり、支援を受けた元慰安婦の人数が概算で500名を超えるプログラムはないようである。元慰安婦としての過去を明らかにして社会的烙印を押されることが多くの女性に前に進むことをためらわせつつあるようである。
原文はこちら ⇒ http://japanfocus.org/data/CRS%20CW%20Report%20April%2007.pdf