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□ポル・ポト政権はカンボジアで何をしたのか? [JANJAN]
http://www.janjan.jp/world/0703/0703230264/1.php
ポル・ポト政権はカンボジアで何をしたのか? 2007/03/26
ベトナム・ホーチミンからも陸路で行けるとあって、カンボジアのアンコール遺跡を訪ねる日本人が増えている。
また日本人によるNGOの活動も活発である。例えば、私のJanJanの記事(2007/02/05)で紹介させてもらった、地雷撤去に人生をかける中込璋(なかごめあきら)さんがそうだし、カンボジアに学校を作る運動を進めている脚本家・小山内美江子さん、井戸を掘り、50人もの孤児の面倒をみている奈良東大寺一如庵主・内田弘慈さん(3月21・22日NHK『ラジオ深夜便こころの時代』でも紹介された)、などなどがカンボジア支援のNGOに関わっている
さて、俗にインドシナ3国といわれていた、ベトナム、ラオス、カンボジアは、旧・北ベトナムがディエンビエンフーの戦い(1954年)でフランス植民地支配に勝利して前後、それぞれに独立した。ハノイにはそれぞれの大使館が置かれ、1971年に私も訪問団の一人として表敬訪問したことがある。
ところが1973年、アメリカがベトナムから撤退し、“ベトコン”がカンボジアから去ると、毛沢東の文化大革命に影響されたポル・ポトが、1975年4月17日にプノンペンを占領し、民主カンボジアを建てたが、状況は一変した。
その様子を伝えるのが、以下に紹介するシソバト王女のフランスの新聞『ユマニテ』との会見記事(1978年)である。この記事は、世界エスペラント運動機関誌『平和』の1981年1月号に紹介され、直ちに日本語にしたがどこにも発表することなく眠っていた。
深夜便の放送を聴き、また地雷で足を失った青年、わずか9歳で売春をさせられる子どもがいることを知って、その大きな原因の一つがポル・ポト支配の4年間に300万人といわれる大虐殺が深くかかわっていたことを思い、以下の会見記を紹介する。
(※ 文中、人物の肩書きなどは1978年現在)
カンボジア前国家元首ノルドム・シアヌークの従兄弟に当たるシソバト王女は、ポルポトとエン・サイが支配していた時、ほかの多くのカンボジア人と同じように、強制労働のため地方に追われてしまった。その歳月に彼女は夫と3人の娘と20人近い親族を亡くした。ポルポトの兵隊に苦しめられ、棍棒で殴り殺されたのだ。
王女は自分の悲劇をフランスの新聞『ユマニテ』の記者との会見のなかで語った。
「私はポルポトとエンサリの赤いクメール国家が支配していた4年間に自分自身が体験し、目にしたことをあなた(ユマニテ記者)につたえたい」
「ある時彼らは言いました。『全王家は1箇所に強制収容する』と。私はすでにその時、赤いクメールの“よい”企てを信ずることが出来なかったので、命令には従いませんでした。
その日からたった24時間で、夫の全親族は政府の命令に従ってコンポンソム地方に移動させられました。後で友人が知らせてくれました『全員が殺された』と。同じトラックで私の祖父とその家族も連れ去られたのです」
「1975年9月、私と家族はバッタム・バンに移住させられました。『どのように自分たちの身を隠すことができたか、というのですか?』 私たちがバッタム・バン郊外1号地区に連れてこられたとき、名前を変えました。夫も子どもも。私はリー、夫はキムと。
ところが夫は医者であったために、私たちに不運が舞い込んだのです。誰かが病気になったとすると、私は夫に助けてあげてと頼みました。そうしなくても夫はいつでも医者として自分の義務を果たしていたのです。赤いクメールの兵隊が、病人を助けている夫を確認し、殺すことが決められてしまったのです」
「私たちの追われていった村には数多くの知識人が一緒に生活していました。時々そのうちの誰かが連れ去られ、どこに行ったかわかりませんでした。やがて連れ去られたことさえも知る人がいなくなりました。ある日、私は夫も連れ去られると予感し、的中してしまいました」
「1976年8月8日朝3時に事件は起きました。3人の兵隊を連れて村長が夫を訪ねてきたのです。私は夫に逃げるように警告したのですが、時すでに遅し。私は夫と一緒に連れて行くように頼みました。村長は『お前が後悔しないならば』と承知しました。一番上の娘も父を愛していたのでついていくことを決めました」
「1キロ近く歩いてマンゴ樹のある小川に着いた時、『止まれ』と命令されました。私にはわかりました。これが最後だったのです。夫は娘にいいました。『勇気を出すんだ』と。それは苦しみに満ちた瞬間でした。私はうろたえて、ひとことも言えませんでした」
「一番年上の兵隊が夫に目隠しをするように命じ、マンゴ樹の方に連れて行きました。その時になってはじめて叫びました。『あんたたちにそんな権利はない』と。娘は父親に身を投げましたが地面に引き倒され、夫は私たちの目の前で殺されました」
「最初の1発で夫はぐらつき、手を目のほうに上げたのです。まだ生きていたのですがやがて体は痙攣しました。兵隊たちは近づいて棍棒で打ちのめしたのです。それ以後事を想像することさえ、恐ろしいことです」
「私は村に戻され、死ぬのだと思いました。ほかの人たちは大急ぎで戻っていくのに私はやっと自分を引きずって歩いていたから。村に残されていた息子の声が聞こえました。その瞬間私は意識を失いました」
「8月31日娘は死にました。ポル・ポトの兵隊に辱めを受けた後で、打ち叩かれたのです」
「あなたはポル・ポトの兵士がなぜこのようなことをしたのか、まったく想像できないでしょう。もし、私が自分の目で、事のすべてを見ていなかったら、もし私がこの悲劇の証人でなかったら、そんなことはありうべくもない、と思ったにちがいありません」
「何時だったか、ヒトラーの強制収容所のフイルムを見ましたが、そんなことが起こる筈がない、そんなことがある筈がない、と思っていましたから」
「しかし。ポル・ポトの統治下で、似たような恐ろしい出来事の中で生きてきたのです。気持ちが安らぐことはありませんでした」
「ほかの二人の娘が餓死したとき、私たちは逃げ出すことにしたのです。4号地区にたどり着いたとき、私には息子一人だけが残されていたのです」
「ある村で幸運にも同情してくれる人に出会いました。その人を通して避難先を見つけることができたのです。私と息子は解放されるまでそこで暮らしました」
「昨年(1977)3月、私たちはプノンペンにもどりました。強制労働で知り合った多くの人に出会いました。しかし、食べるだけの十分な米はまだ無かったのですが希望がありました。私たちを助けるためにきてくれたベトナムの友人を見たとき、救われたと思いました」
「私はカンボジアの人々が体験した苦しみを知っていますし、ポルポト政権下で夫と子どもを亡くしました。今はカンボジアの人々の幸福のため戦うことが出来ると信じて暮らしています」
「キャンプにいた時、これから先に希望や幸せがあるだろうか、と瞑想しました。奴隷か家畜のように強制労働をさせられ、殺されていく人々を目の前に見て、恐怖の中で自問したのです」
「人々は戦いのために再び立ち上がる時があるだろうか? その時こそ、私は自分のすべての力を捧げ、ポル・ポトの統治が永久に戻ってこないようにしなければならないと思いました」
「あなたはシアヌークについて質問しましたが、シアヌークも王子であり、私も王女ですが、見る目が違っています」
「シアヌークも4年間、ポル・ポトに捕らえられていたのです。でも彼は宮殿に住んでいました。彼はほかのカンボジア人にもたらされた苦しみの中に生き抜くことはなかったのです。彼は私のように小皿の米のために、朝3時から夜中まで働かされることはなかたのですよ。だからカンボジア民族がこうむった悲惨な運命をいつまでも理解することはできないでしょう。彼はわが民族の苦しみについて何も知らないからです」
「今、私は外務省議定書部で働いています。外交上の人たちともよく出会います。そのような仕事を私は好きです。彼らと一緒にいろいろな町や村を訪ねます。そして確固として宣言します。『わが国の情勢は正常に戻りつつある』と」
「もし私に時間が出来たら自分の思い出を本にしたいです。その題名は『地獄の中から救われた』としなければなりません。本当にその地獄の中を私は生きてきたのですから」
その後、シソトバ王女が手記を書いたかどうかわからない。
今、国連管理下でこの大量虐殺の裁判が進められようとしている。日本からも検事が派遣されたようだが、すでに30年も経ちポル・ポトも死んだ。虐殺の証言をする人はもうとっくにいないのではなかろうか。
しかし、まったくいないわけではない。数え切れない“しゃれこうべ”が成り行きを見守っているのだから。
(熊木秀夫)