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中国人監督が見すえる8月15日の「日本刀」
巨大な鳥居と長い参道が出迎える。正面に重厚な甍とともに鎮座する靖国神社。
李纓(リイン)監督は、カメラを片手に一人で境内の奥へと足を踏み入れていく。冒頭、目に飛び込んでくるのは赤く焼けた鉄。刀になろうとする一塊の鉄が叩かれようとする瞬間だ。
カメラは、靖国神社の刀匠・刈谷直治さんが、「ご神体」の日本刀を鍛えるところを捉えていく。刈谷さんは90歳。一心に槌を振り下ろす姿に老いはない。
8月15日、日頃は静寂につつまれた靖国神社の境内は様々な人々が往来し、まるで祭りの日のような賑やかさだ。
一転、カメラは8月15日の靖国神社境内に向けられる。スクリーンいっぱいに、騒然とした光景が映し出される。旧日本軍の軍服を身につけた人々、遺族の合祀取り下げを求める台湾人・韓国人・日本人遺族たち、反戦活動家も…。「靖国問題」が抱えるさまざまな姿なのだが、李監督はあえて問題追及を行おうとはしていない。鍛冶場の静けさと、境内の喧噪をただ対比させているだけだ。
それにしても、一心不乱に刀を打つ刈谷さんの姿は、実に印象的にインサートされている。
鍛冶場の外で繰り広げられる論争、いさかい。李監督は、刈谷さんを、同じ「靖国」という空間の中に見据えながら、もっと高い次元で捉えているかのようだ。
映画のテーマを監督は、「記憶」と「忘却」という言葉で表す。境内で日本の戦争を「記憶」しようとする声と、「忘却」しようとする力が衝突しているのだとすれば、刈谷さんの静けさは「沈黙」なのだろう。
戦時中、「靖国刀」と呼ばれる8100振りの日本刀を作った「日本刀鍛錬会」と呼ばれる集団があった。刈谷さんは靖国刀を打てる最後の刀匠だ。「日本刀鍛錬会」について聞かれても刈谷さんは、口をつぐみ、黙々とただ刀を鍛えるだけだ。
刀が徐々に形作られ、鋭さを増すとともに、スクリーンに映し出されるのが、「記憶」と「忘却」と「沈黙」である。そうしたコントラストはラストに近づくにつれ次第に際だっていく。
自民党の一部議員は、客観性を欠いたドキュメンタリーと批判している。客観的なドキュメンタリー作品などあるはずない。監督の意図が客観という体裁の中に隠されている。作品の評価は、その意図の高さによってきまるということを、実は自民党議員らは分かっていない。「特別な意図はない」と答えた李監督だが、映画では質の高いそれがうかがえた。
4月12日、都内3館にてロードショー (文化部・秋一紅)
interview 李纓監督
「より制限のない作品撮りたい」
検閲かどうかをめぐって話題を呼んでいる映画「靖国 YASUKUNI」の劇場公開が2週間後に迫った。李リ纓イン監督は「より制限のない映像作品を撮りたい」と19年前に中国から来日した。今の心境を聞いた。
一部週刊誌で「反日映画」と書かれ、国会議員らから事前上映を求められましたね。
「文化庁関連団体の芸術文化振興会から助成金を貰っていました。政治的メッセージがないことと日本映画であることが助成金支給の条件だったのですが、この条件に沿っていないのではないかと一部の議員が疑問を持ったようです。反日映画であるのかどうか。それは見た人に判断していただくほかありません」
映画で伝えたかった点はどういうところにありますか。
「政治的・宗教的に特別何かを伝えたかったということはまったくありません。議員の皆さんというより、見ていただいた一般の人がどう受け取るのかが大事です。靖国神社のご神体は刀。そのご神体を作る職人や刀に込められた精神的なものにスポットを当てました。靖国神社と、8月15日にそこで起きる出来事も映画に含めましたが、それは舞台とその上で繰り広げられる演出のようなものにすぎません」
公開前に自民党議員から上映要求があって、映画の内容以前に注目されるようになりましたね。
「私の映画人生は日本で始まったと考えています。日本では思想・言論の自由が保証されている。中国でできなかったこともできる。それを考えると非常に残念です。今回の件はある種の検閲ではありませんか。日本社会にとって危険なことだと思いませんか」
作品を見る人たちに一言。
「靖国神社は複雑な問題を抱えています。ですが、靖国の中心にあるのは刀とそこに込められた魂というシンプルなものです。個々人の、疑問とか、問い掛ける姿勢をもって大事に見てほしい」
http://www.onekoreanews.net/news-bunka01.cfm