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イラク・ホープ・ダイアリー
iraqhope.exblog.jp緊急支援続行中
イラク支援を続けるというのは、本当に、本当に難しくなってきました。現在、私はヨルダンにおります。この数ヶ月に、コンテナ輸送のほかにも緊急支援などを続けてまいりました。国際NGOとも協力しています。現在も緊急支援の対応に追われています。支援先の近辺はしょっちゅう道路が封鎖されるのと、現地で動くスタッフが無事であることを最優先にしているため、時間がかかっております。10月、11月に行った緊急支援と、現在検討中の支援は以下の通りです。
10月:ラマディ総合病院宛に輸血用バッグ(針とチューブ付)
11月:命の水支援プロジェクトファイナル(国際NGOと協力)
※以前の「命の水支援プロジェクト」に関しては、右のバナーをクリックしてください。今回はそのファイナルアクションとして行っています。
12月:サマラへの緊急支援(検討中)
詳細については、いましばらくお時間をいただきたいと思います。年明けのイラク報告会にはいくつか映像などをお見せできると思っています。
これらの支援が可能なのは、すべて皆様のおかげです。非常に困難な状況で、イラク支援など不可能かと思われる中、それでもカンパを寄せていただけることに深く深く感謝いたします。おかげさまで、現地での信頼もさらに回復の兆しを見せています。また、この私にイラク支援を続けさせてくださることに重ねて感謝申し上げます。
# by nao-takato | 2006-12-13 00:52はい、私は日本人です。
しばらくこのブログから遠ざかっていたため、みなさまにはご心配をおかけしておりました。お気遣いのメールをくださった方々には、返信もできませんでしたが、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
この2年半、ずっとイラクのことばかり考えていて、死者の無念を晴らしたいとの一念でイラク報告会をやってまいりました。イラク情勢が急速に悪化し、報告すべき事柄が次々と増えていき、しかもどれひとつとっても良い知らせはなく、死体の検証と暗殺団の動向を調べる日々でした。そして、この数ヶ月の間に、私の友人たちが殺され、拷問され、捕らえられ、行方不明になるということが続いていました。セキュリティ上、その詳細をここに記すことも難しく、何より自分自身が完全に「デスモード(DEATH MODE)」になっていました。流行りの映画ではないですが、デスノートに名前を書いてみんなを殺すか、自分を殺すか。なんて、馬鹿げているけど、真剣に何かを破壊したがっている自分がいました。
2004年4月の拘束事件後、日本に帰国してから受けたバッシングに、ただ私は力尽きていました。手も足も動かない、完全に抜け殻になりました。私が伝えたかったことは、イラクで理不尽にも殺されていった彼らのこと、ただそれだけでしたが、あの時、そのことに耳を傾けてくれる人はあまりにも少なすぎました。私は日本で殺された、そう思っていました。本当に怖かった。今でもその恐怖は心に残っています。
数ヵ月後にイラクの隣国ヨルダンに戻り、イラクへの支援を再開するようになりました。再起を誓ってヨルダンにやってきた私は、ここでイラクの人たちの命からパワーをもらいました。そして、すべての時間をイラクに費やし、報告会をさせてもらえるならどこへでも、海外にも行きました。そのことしか考えられませんでした。1分たりとも無駄にできない。一つでも多くのことを、一人でも多くの人に伝えることだけに集中していたので、どんなに体調が悪くても、演台に立てば、吐き気は止まり、頭痛は消え、ひたすらにイラクで何が起きていたのかということを話していました。報告の最中に目の前が真っ白になることもありました。「イラク情勢も怖いが、話している本人が怖かった」ともよく言われました。時々、私の背後にはイラクで死んでいった人たちがいると感じていました。彼らが、私の体を使って話しているのかもしれないとさえ思っていました。
イラク報告会を企画してくださったみなさんには、本当に感謝しています。私のせいで嫌がらせを受けてしまった方々がどれほどたくさんいたことか…・。実際に危害を加えられた方々、私の身辺を警護してくださった方々には、本当にご迷惑をかけてしまいました。体調も優れず、精神的に追い込まれた状態で、まともな会話もできなかったりもしました。せっかくの懇親会もお受けできませんでした。人との接触をできる限り避けていました。一人でいる方が楽でしたが、一人でいると、時々自分がどこにいるのか、何をしているのかがわからなくなったりしました。突然、涙が止まらなくなったり、消えてしまいたい衝動に駆られることもしばしばでした。イラクで起きていること、今私が話していることは、きっとみんな夢なんだと思うこともありました。2、3日休息日を取ると、ジンクスのようにイラクから緊急連絡が入りました。気分転換に友人と出かけても、幸せそうに笑っていることに自己嫌悪を感じ苦痛でした。その場から逃げることもありました。どうしてよいかわからず、精神科の先生に電話をしたこともありました。今でも、精神安定剤や導眠剤が必要な時があるので、お守りのように持ち歩いています。
正直言って、私は自分のこれからの人生のことは考えていませんでした。ただ、イラクが今より良くなってほしいとだけ願っていました。食前の祈りでは、イラクのことを強く強く祈り続けています。私は生きるためにイラクの話を語り続けていたように思います。それ以外に、私が生きる方法はありませんでした。私は息をしている、私は生きている。生きているのは、そのためなのだと信じていました。
今年に入って、私は自分のことを考え出しました。自分自身について、あの事件についても考えをめぐらせました。考え続けていたら、私たちを拘束したイラク人たちに対して激しい憎悪を覚えました。あるいは、「なぜ、私たちだったんだろう?なぜ他の人ではなかったんだろう?もっと強い人はいるのに」と自分の運命を呪いました。気がつけば、自分の人生はどこかに置き去りにされている。あんな事件さえ起きなければ、私はもっと前向きな気持ちでイラクと向き合えているはずなのに、と。このままだと私は本当にイラクを憎んでしまう、そう思うと逆に怖くなりました。イラク人から八つ当たりされることもあり、イラクから逃れたいと思うようになりました。そんな私をそのまま受け入れてくれたのが家族でした。ありがたかったです。
私は、たった一つの理由で殺されそうになりました。それは「日本人である」ということです。「お前は日本人だから、殺す。なぜ、日本軍をイラクに送った?お前はスパイに違いない」。なんて、受け入れがたい理由でしょうか。でも、これが事実です。あんなに親日家ぞろいだったイラク人が、ファルージャの人たちが怒り狂っていました。あの凄まじい怒りは、今までに体験したことがありませんでした。言葉では説明できないほどの圧力を持ってのしかかってきていました。日本の人たちにあの怒りを伝えることはほとんど不可能でしょう。
私はそれまで、「地球人」としてこの広い世界で生きていきたいと強く願っていました。日本と世界に境界線を持つのではなく、「地球に属する一人の人間」としての感覚の方が強かったと思います。日本の問題は国内問題ではなく、国際問題の一つと考えるのが私にとっては普通でした。私にとって一番大切なのは、今も昔も「自分の命」です。だから、日本でも外国でも他人の命も大切にしたいと思っています。私は自分の命をおろそかにしたことはありませんし、イラクにも死にたくて行ったわけじゃありません。むしろその逆です。イラクの人たちの命を危険な状態にしてしまったことへの償いの気持ちがありました。一緒に生きたいと思っていました。しかし、ここへ来て私は「日本人」という理由で殺されかけたのです。そして、本当に殺されてしまった人たちがいるのです。
今、私は自分が殺されかけたファルージャという町を中心に、「ファルージャ再建プロジェクト」をイラクの仲間たちと一緒に進めています。最大の目的は、「破壊ではなく再建を!家族を失った人たちに武器ではなくスコップを!」というものです。これは、私にとっての生きている証でもあります。やっぱり、私は一人の人間として生きていきたいと思います。でも、今のこの世界で生きていくには、どうしても日本人であるというバッジをつけざるを得ません。私はそこに「生きていたい」と思う理由を見出しました。地球規模でものを考える日本人として生きていこうと思います。
私は、「日本人だから殺す」という恐怖を、ほかの日本人には経験してほしくないと思います。今、このヨルダンにもたくさんの観光客がいて、日本人もたくさんいます。彼らに、あんな恐怖を味わってほしくないと強く思います。あれから時は流れ、アメリカの進めた「テロとの戦い」はイラクを地獄にし、アメリカを支持する日本に対して抱かれる「日本人だから殺す」という殺意は、イラク国内に限らなくなってきました。
「死」は誰にでも訪れるものです。「死」は「生」の対極にあるのではなく、その一部であることは体験から学んでいました。しかし、戦争や「テロ」という理不尽な死に方をした場合、その死はどう受け入れるべきなのか、イラクに初めて行ったときからの私の命題でした。まだ、その答えは見つかりません。しかし、一つだけ戦場での体験からはっきりとしたことがあります。それは、「殺す」という行為は、途方もない負のエネルギーを放出するということです。自殺が連鎖反応を起こすのも、戦争がなかなか終結できないのも、この巨大な負のエネルギーの放出によるのではないかと思います。「殺す」という行為は、人間を追い詰め暴発させてしまいます。しかも、戦争状態というのは、基本的人権もルールも法律も取り外された中で起こる殺人行為。私は、暴発したファルージャの人々の姿を忘れることができないのです。
私はイラクでのプロジェクトを展開するとき、日本人であることを強く意識します。そして、どれほど自分が日本を好きであるかを実感します。怖い目に遭っても、日本が好きです。日本の自然が大好きです。昔習った、お琴や茶道の作法も好きです。実は和服が好きです。「和」を大切にする心も好きです。でも、和菓子よりケーキの方が好きです。まだ、演歌よりダンスミュージックの方が好きです。他に嫌いなところもあるけど、完璧な人間がいないように完璧な国なんてないんだと思います。私はこのプロジェクトを展開するとき、日本にいる家族を思い浮かべます。イラクで亡くなった日本人を思い浮かべます。幸せな家庭を持った友人たちを思い浮かべます。辛くなったときは、愛すべき甥っ子たちの写真を見ます。そして、この子たちを守りたいと強く思います。いつか彼らが成長して、「世界が見たい。日本を外から見たい」と言った時、安心して送り出せるような日本人でいたいと思います。だから、私はイラクとちゃんと向き合いたいと思います。異なる文化や宗教の人たちとお互いを理解し合いたいと思います。このプロジェクトを続けます。危機を感じるからこそ、続けます。
その時に出会った人のイメージでその国のイメージが決まってしまうことが往々にしてあります。実際に、日本人に対するイメージが良かったので命拾いをしたという話もしばしば耳にします。そう考えると、海外旅行というのはとっても大切だなと思うわけです。今年のお正月はみなさんどこにお出かけですか?
殺意渦巻く最低な世界で生きていくために…。
# by nao-takato | 2006-12-10 02:23