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阿修羅に新右翼の主張が載ることがたまにあってもいいでしょう。
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(1)だらしのない民族だ。ペッ!と思ってたのに
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波新書)
「何読んでんの?先生」と聞かれた。
ウルセーな、と思いながら答えた。
「ジョン・ダワーだわ」
「ダワーダワって人の名前ですか?」
「ちゃいまんねん。ジョン・ダワーが名前だよ。その後の“だわ”は強調の接尾語だ。助詞かな」
あっ、いかん。読書を邪魔されちゃった。早く読まなくちゃ。東中野図書館に返す日がもう過ぎている。でも、いい本だね、これは。ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波書店)だ。敗戦直後の日本人に対して、私は、今までは、「何とだらしがない」「ふがいない民族だ」と思っていた。
「鬼畜米英」がコロリと変わり、「ギブミー・チョコレート」だし、「民主主義万歳!」だし。何と節操のない国民かと思ってきた。押しつけ憲法も有りがたく受け入れるし。マッカーサー万歳だし、英語か仏語を国語にしろという奴はいるし…。
病人だと思った。日本が病んで、熱にうなされて、あらぬことを口走っているのだ。そう思っていた。「占領下だったし、仕方ないか」と。日本の歴史の中のエアー・ポケットだ。「空白」だ。目を覆って通り過ぎればいい。そう思っていた。
ところが、「空白」と思われていた時代にも、民衆の力強い生活があった。まぎれもなく、ここも、「日本の歴史」だった。敗北に打ちのめされ、絶叫し、あらぬことを口走っても、それだって「日本人」の現実だった。それを含めて、この日本を慈しみ、抱きしめる必要があるのだろう。私はそう思いましたね。この本を読んで…。本の帯には、こう書かれている。この本の内容をよく表わしている。
〈1945年8月、焦土と化した日本に上陸した占領軍兵士がそこに見出したのは、驚くべきことに、敗者の卑屈や憎悪ではなく、平和な世界と改革への希望に満ちた民衆の姿であった。勝者の上からの革命に、敗北を抱きしめながら民衆が力強く呼応したこの奇跡的な「敗北の物語」を、米国最高の歴史家が描く。
20世紀の叙事詩。ピュリッツァー賞受賞〉
上、下二巻あるが、とても読みやすい。珍しい写真も沢山あるし、「日本再発見」の旅でもあった。こんないい本を教えてくれた太田さんに感謝します。太田さんて、あの太田総理ですよ。「太田総理と秘書田中」の。別に、本人に直接聞いたわけじゃないが、本に書いてあったんだわ。太田光・中沢新一の『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)だ。
これもいい本だ。「憲法九条は改正しろ!」と思ってる人にも読んでほしい。それに、宮沢賢治や田中智学、石原莞爾の話が出てきて、二人で熱く語る。田中智学は国粋的な宗教団体「国柱会」の創始者だ。そこに賢治も石原も入っていた。ここから二人の対談は始まる。太田が聞く。
〈あれほど動物や自然を愛し、命の大切さを語っていた賢治が、なぜ田中智学や石原莞爾のような日蓮主義者たちの思想に傾倒していったのか〉
〈彼の感情を信じたいと思う。彼の感性を信じるならば、むしろ田中智学の思想を「間違いだった」ですましてきた戦後の判断を疑うべきではないか。賢治を信じる限り、「田中智学は悪だった」ではすまなくなる〉
この太田の「疑問」をスタート台に壮大な対話が展開されてゆく。太田も勉強家だ。深いね。この問題は「賢治」研究者・ファンも避けていた問題だ。又、右翼の側も深く入っていない。それをこの二人が解き明かしていく。「右翼の思想史」にもなっている。中沢は言う。
〈西欧的な見方によるんじゃなくて、日本人のやり方で世界史をまるごと理解してみせたうえで、危機的な状況の新しい日本の方向性を示そうとした。そういう田中智学の思想に、宮沢賢治は深い共感を覚えて、それこそ、雨にも負けず風にも負けず、その活動に邁進していこうとしました〉
(2)宮沢賢治、石原莞爾。そして憲法第九条に行くダワー
さらに二人の話は深まってゆく。それはぜひ本を読んでみて下さい。さて本題だ。「太田さんはどんなシチュエーションで、『憲法九条を世界遺産に』というすばらしい発想を思いついたんですか」と中沢が聞く。それに対し、太田が答える。
〈最初は、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店)を読んだときですね。この本で、日本国憲法ができたときの詳しい状況を知って、ああ、この憲法はちょっとやそっとでは起こりえない偶然が重なって生まれたのだなと思ったんです。まさに突然変異だと。(中略)
戦争していた日本とアメリカが、戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢(むく)な理想憲法を作った。時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向かい合えたのは、あの瞬間しかなかったのじゃないか。日本人の、十五年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとできた。これはもう誰が作ったとかという次元を超えたものだし、国の境から超越した合作だし、奇跡的な成立の仕方だなと感じたんです〉
これを読んで衝撃を受けたんだわ、私は。河合塾コスモの「基礎教養」ゼミで、この本を生徒と一緒に読んでいた。エッ!太田はこの本を読んでるのか! チクショー、負けてる。と思った。岩波だし、外国人の書いた本だし、2巻もあるし、難しくて読みにくい本だと思っていた。ところが、「爆笑問題」が読んでる。負けちゃいられん。オラも読むだわ、と思ったんだわ。
続いて、太田はこう言うちょっただわ。
〈この憲法は、アメリカによって押しつけられたもので、日本人自身のものではないというけれど、僕はそう思わない。この憲法は、敗戦後の日本人が自ら選んだ思想であり、生き方なんだと思います〉
ウーンと、唸った。私はここまで言い切れる自信はないが、あるいは、「進んで選んだ」と思い、喜んで受けとった国民も多かったのかもしれない。〈もう一つの日本〉があるのかもしれない。「あの時代」を見る時、人々は初めから、「立場」「視点」を決めてから見ている。右の人は右からしか見ない。左の人は左からしか見ない。初めから「結論」を持っていて、それに都合のいい「事実」を探すために歴史を見る。これではいかんだろう。白紙の立場で、「あの時代」も見る必要がある。ジョン・ダワーは書いている。
〈アメリカ人たちの多くは、日本にやってきたとき、狂信的な天皇尊拝者たちとの不快なぶつかりあいを予期していた。
ところが完全武装した先遣部隊が日本の浜辺に上陸してみると、女たちは「こんにちは」と声をかけ、男たちはお辞儀をして、何がお望みでしょうかと勝者たちに聞いたのであった。
アメリカ人たちは、素敵な贈り物や娯楽、そして日本人の丁重な物腰に(自分で気づいている以上に)魅了された。なにより、アメリカ人たちが見たのは、人々を破滅に追いやった軍国主義者を憎み、戦争を嫌悪し、破壊された国土で現状の困難に、ただただ圧倒されている民衆の姿であった。ほかの何よりも敗者が望んでいたものは、過去を忘れ、過去を乗り越えることであった〉
特に最後の一行だ。確かにこれはあっただろう。単なる「敗北感」や「虚脱感」だけではない。「過去を忘れ」たいというニヒルで、デスペレートな感情だ。前に紹介したが、『ベルツの日記』を思い出した。明治に東大に呼ばれたお雇い教師(医者)のベルツは、「私は医学を教える。皆さんからは日本の歴史を教えてもらいたい」と言ったら、日本人(それもインテリだ)は、口々に、「日本に歴史なんかありません」と言い、「歴史はこれから始まるんです」と言う。何とも自虐的な人々だ、と思ったが、これも「謙遜」なのだろう。そして、こうした人々によって明治の日本はつくられていった。
敗戦直後の日本も同じなのだろう。「過去は忘れたい」のだ。
今、ことさら敗戦を「屈辱的な時代」として描いている人が多い。保守派マスコミやオピニオン雑誌だ。敗戦の時、日本人全てが、「今に見ていろ、アメリカめ!」と思ったと報じる。しかし、これは「嘘」だし、意図的なものらしい。この本では言う。
〈現代の日本には、新ナショナリズム的な強い主張があり、そのうち、もっとも強力な声のいくつかは、まさに本書が論じた敗戦後の年月に照準をあてている。それは敗北と占領の時期を、自由な選択が実際には制限され、外国のモデルが強制された、圧倒的に屈辱的な時代として描きたいのだろう〉
あっ、確かにこれは言える、と思った。どこかに〈敵〉を求めたいのだ。今の日本がダメなのは、「あの時」のアメリカの圧力があったからだ。それが「憲法」や「教育基本法」として、今も残っている。だから、それを改めなくてはいけない。アメリカによって奪われたものを取り戻す。あの「屈辱的な日々」から、今こそ脱却しよう…。そういうことなのだ。
(3)オラも「パンパン遊び」をバンバンしたかったダワー
つまり、敗戦直後の「占領期間」は、日本人は、日本人でなかった。日本も日本でなかった。恥ずべき空白の時間だった。そういう認識だ。実際、僕もそう思ってきた。しかし、ジョン・ダワーは、「それは違うだろう」と言う。あの「空白」の日々にも日本人はいた。しっかりと生活していた、と。
〈私自身は、この時代がもっていた活力と、また日本の戦後意識の形成において日本人自身が果した役割の創造性とを(どのくらい実際に証明できるかは別として)、このような見方よりも積極的に評価している。
大切なことは、当時、そしてその後、敗戦というみずからの経験から、日本人自身が何を作り上げたかということである〉
白状するが、今まで、こういう「視点」は僕には無かった。だから大いに勉強になった。「空白」ではなく、日本人はしたたかに、希望を持ち、たくましく生きていたのだ。あの時代を無視し、「見ないようにしよう」というのは、いけないことだろう。
でも、一億国民が虚脱状態になり、皇居の前では人々が土下座し、泣き崩れていたじゃないか。そう思うだろう。僕も思っていた。新聞、雑誌、テレビでも「敗戦」というと、その写真が出る。しかし、奇妙なことに、「その写真」は一枚だけだ。他のバージョンは見たことがない。ジョン・ダワーは、それについて驚くべきことを言う。
〈人々が皇居前の玉砂利にひざまずき、天皇の期待にこたえられなかったことをわびて、悲しみに頭を垂れている写真がとられ、これが後に、敗北の瞬間の決定的な映像とされるようになった。
実は、これは人を誤解に導く映像であった。皇居前に集まった人の数は比較的少数であった〉
エッ、そうなのか!と思った。だから、あの写真しかないのか。普通の人々は各地で涙を流したが、それは天皇を思っての悲しみもあったろうが、それ以上に、苦悩、後悔、死別、だまされたという思い。怒り、突然の目標喪失と空虚感、不幸と死の恐怖が終わったことへの単純な喜び。…そういったものが混ざった無数の感情の表われであったという。ウーン、これはありうるな、と思った。
「敗戦で、皇居の玉砂利で土下座する人々」「天皇への期待に応えられないことをわびる人々」…というのは、確かに「絵」になる。その写真ばかり見せつけられていたから、「一つの物語」として、僕らは刷り込まれてしまったのだ。現実はそれほど単純なものではなかったのだろう。
さらに、こんな凄い記述もある。
〈内大臣で、天皇裕仁がもっとも信頼した側近であった木戸幸一は、皇居前で実際喝采していた人々がいたことを日記に書いており、明らかに解放感がみられたことを証言している〉
「土下座して泣き崩れた人」は本当は少なかったのだ、という〈事実〉だけでもショックなのに、さらにショッキングだ。戦争が終わって「万歳!」を叫んだのだ。苦しい思いをしたり、軍人に痛めつけられていた人々からすれば、いたのかもしれないな。前に書いたと思うが、会津若松では、「薩長の日本が敗けた!」「万歳!」と叫んだ人々がいたというし…。明治維新で賊軍にされた恨みを根強く持っていたのだ。
歴史は、単純化してはならない。「分かりやすい」ものだけを見てはならない。もっと複眼的に見なければいけないということだろう。
この本を読んで、さらに驚いたことがある。「パンパン遊び」の写真だ。こんなの見たことないよ。貴重な写真だ。多分、米軍側が保管していた写真ではないのか。他にも、「国辱的」な写真が紹介されていて、驚いた。こんな珍しい写真だけでもこの本の価値はある。「パンパン遊び」の写真はアップしたので見てほしい。こう説明が書かれている。
〈米軍兵士と売春婦に扮する「パンパン遊び」は、幼い子供に人気のある遊びであった。子供たちは、ほかにも闇市ごっこや、労働者のデモのまね、すし詰めの列車のまねをする遊びなどを発明した〉
「パンパン遊び」をする子供たち
この写真の男の子は、頭に帽子(のようなもの)を載せている。米兵だ。パンパン(売春婦)に扮した女の子は、その「米兵」と腕を組んでいる。この後、何をするのか分かっているのだろうか。それにしても、ヤケに明るい。他の女の子たちも明るく、笑っている。「わー、いいわね」「いい兵隊さんをつかまえて、よかったね」と祝福しているようだ。
もしかしたら、「ねえ、兵隊さん。私の方がずっといいわよ」「あーら、私はもっと安くするわよ」と誘っているのかもしれない。それにしても、「人気のある遊び」だったという。そうなのか。私は、東北の田舎で、メンコかカン蹴り遊びをしてたから全く知らんかった。東京のガキたちは、こんな楽しい遊びをしてたんだ。オラもやってみたかった。女が群がってオラ(米兵)に寄ってくるんだろうな。よりどり見どりだ。バンバンとやり放題だ。いいなー。
…と、悔しがったところで終わる。でも、「パンパン遊び」をしてる所に右翼が来たら大変だな。子供とはいえ、叩き殺されるかも知れん。じゃ、田舎にいてメンコやってた方がよかったんだわー。