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下関で「原爆と戦争展」が開幕
何のために320万人も殺されたか
2006年11月20日付
「第2次世界大戦の真実を語りつごう」を合言葉とする「原爆と戦争展」(主催・下関原爆被害者の会、共催・原爆と戦争展を成功させる会)が19日から、福田正義記念館3階で開幕した。下関からはじまった峠三吉の原爆展は、広島・長崎・沖縄をはじめ全国に広がり、大きな反響を呼び起こしてきた。今回は、「原爆と峠三吉の詩」「沖縄戦の真実」「下関・全国空襲の記録」のパネルとともに、戦争体験者の証言をもとに新しく作製された「第2次世界大戦の真実」が展示されている。被爆体験者を軸に戦地での体験、空襲の体験などが1つに結びついて交流され、共通の疑問である「負けるとわかっていた戦争によって、なぜ320万人もの命が奪われねばならなかったのか」の論議が発展している。
第2次世界大戦の真実パネルに共鳴
午前10時から、原爆展を準備してきた被爆者や戦争体験者、来場した市民など40人が参加して開幕式がおこなわれた。
冒頭、下関原爆被害者の会・副会長の窄頭アキ子氏が伊東秀夫会長の挨拶を代読した。下関では、原爆被害者の会が中心となり、7年前から原爆展を取り組んできたこと、昨年「原爆と下関空襲展」として開催して以後空襲の体験はもとより、これまで語れずにきた戦地での体験、引き揚げの体験、戦後の苦労が堰を切ったように語られ、「日本の敗戦がはっきりした段階で、沖縄戦や空襲、原爆投下は必要ではなかった」という体験者の共通の問題意識が表にでてきたことを、様様な声を紹介しながら報告。
「戦争体験世代には大いに語っていただき、若い世代にはしっかり学んでいただいて、あの戦争がいったい何のための戦争であったのか、日本の現状はどうなっているのか、これからの日本を戦争のない平和で豊かな国にするにはどうしたらよいのか、一緒に考えていきたい」と述べた。
続いて、「原爆と戦争展を成功させる会」代表世話人の1人である安岡謙治氏(山口県甲飛会会長)が挨拶。「今、若い人が戦争ゲームなどで、簡単に勝った負けたとやっている。実際の戦争というのは生やさしい物ではない。私自身零戦に乗り、仲間が80%以上戦死した。何のための特攻であったか、残された者はたまらない。毎年供養をしているが、世間からは、昔の軍人が集まっている、あれは右翼の連中ではないかと悪口もいわれているが、右翼どころか1番戦争の悲惨さを知っている」と強い思いを込めて語った。そして、「今日こられた原爆被害者の方も本当の戦争を知っておられる。くしくも八月六日は私の誕生日。だから私は1度もお祝いをしたことがない。そういう本当のことをいろいろお話して、今から日本、世界の平和をいっそう強固にしてもらえたらと思う」と結んだ。
次に、賛同人の1人である竹村馨氏が、「中国に出征しており南京で原爆のことを聞いたが、実際のことはよくわからなかった。今日、たくさんの資料やパネルを見せてもらい、実際に軍隊で戦争をしていたが、原爆の悲惨さがそれの何倍もひどい大きな恐ろしいことだったということがわかった。原爆は2度とやってはいけない。私たちが集まることによって少しでも援助になればいいと思う」と述べた。
最後に原爆被害者の会の前会長で、長年会を引っ張ってきた吉本幸子氏が挨拶にたった。「主人は2度出征し、銃後の守りの私は原爆にあうなど、人生でいろいろな苦しみをしてきたが、今、こうして被害者の会のお世話になろうとは思ってもいなかった。それが、何かの縁で13年たった」と語り、被爆者は隠れていてはいけない、原爆の悲惨さ戦争の無意味さを知らせるために語らないといけないとがんばってきたと振り返った。そして、「今、原爆展は広島・長崎へとどんどん広がっている。ここまで広がるとは思わなかったが、今日こうして戦争体験者の方ともお会いできることをとてもうれしく思う」と喜びを語った。
激しく語る体験者 じっくりパネル参観し
初日は、被爆者や下関空襲の体験者、地域の戦争体験者、高校生などが、互いの体験を交流しながらじっくりパネルを参観していく姿が目立った。
会場での展示は、この度新しく作製されたパネル「第2次世界大戦の真実」30枚を、経過にそって「沖縄戦の真実」「下関空襲の記録」「全国空襲の記録」「原爆と峠三吉の詩―原子雲の下よりすべての声は訴える」と組み合わせて構成。被爆資料や市民から提供された資料なども展示され、第2次世界大戦の全容が浮き彫りにされている。
原爆展を取り組んできた被爆者や戦争体験者も、あらためてパネルを見ながら、「新しいパネルの追加で、戦争の全体像がよくわかるようになった」「戦地と原爆、なんであれだけ殺されたのかがつながってくる」「両方とも、隠されてきた」などと語られている。
参観した戦争体験者と交流していた80代の婦人被爆者は「被爆体験を語ってきたが、戦地での体験については知らないことばかりだった。被爆者も戦後、体験を語られぬままにきたが、兵隊にでていた人たちも一切語れなかったことがよくわかった。まだまだ、隠れている真実があると思う」と話した。
別の被爆者は「私の主人も、戦争については1言もといっていいほど話さなかった。弟も同じだった。弟は、少し前にはじめて、いつどこにいたという記録だけを見せてくれたが、“仲のいい戦友は助からず、自分だけが生き残った”と大泣きしてそれ以上は話さなかった。原爆展を続けてきて、戦争体験者の方も語りだしてくれていることがすごく嬉しい」と喜びを語った。
彦島から訪れた80代後半の男性は、昭和14年に志願して海軍に入隊したこと、航空母艦「瑞鶴」に配属され真珠湾攻撃にも参加したこと、魚雷が命中しても不発だったり、ラバウルでは銃弾が首をかすめたがわずかに血管をそれ助かったことなど、「何度も、これで終わりかという経験をしながら生き延びてきた」と体験を語りだした。
「終戦は、パラオで迎えた。そのころは食糧もなく戦争どころではなかった。最初は、山鳩などたくさん鳥がいて銃も知らなかったため助かったが、後は飢えとの斗いだった」と振り返る。いろんな植物を食べたが南方の植物には毒のあるものが多い。虫が付いているものなどを探して食べた。大きなカタツムリも食糧にした。蛇やカエルも食べた。食糧があるときには蛇やネズミを見ると逃げていたが、「いよいよになるとその蛇を探していた」という。
「食糧を巡って日本人同士が争っており、戦争ができる状態ではなかった。悲惨だったのは戦死した戦友の肉まで食べたことだ。戦後、戦死した戦友たちに申し訳ないという気持ちで、体験を人には話せなかった。今、アメリカではブッシュ大統領がイラクでも戦争をしているが、あれは父親の時代から親子2代に渡っての戦争好きだ! これからは、前の戦争のようなものをやろうとすれば周囲の国が許さないと思うし、許してはならない」と強い口調で語った。
戦時中鹿児島におり父親がサイパンで戦死したという男性は、「米軍は、私のいた小学校まで空襲で焼き払った。死んだ者は少なかったが、焼夷弾と機銃掃射で追いかけられた経験は忘れられない。大和魂とか、神風が吹くといって、竹槍で訓練させられていたが、上層部だけが生き残って、一般庶民が1番殺された。今日の展示をみて、60年疑問に思っていた謎が解けてきた気がする」と話した。「もっと早く戦争が終わっていれば、国民の半分も死なずにすんだだろう、父親も生きて帰ったのかもしれないと思うと腹が立ってくる。国の指導者とは、国民が全滅しても惨いことを続け、負けたとなるとコロリとひっくり返るような人間だ。白人からジャップといわれて人間扱いもされていないのに庶民を殺し日本を売り飛ばしたやつがいる。今では、アメリカの属国以下ではないか。中国、朝鮮を馬鹿にしているが、向こうからはもっと馬鹿にされている関係だろう。2度と戦争をさせてはいけない」といった。
テニアンで終戦を迎えたという戦争体験者は、「地獄のような戦争だった。飛行隊といっても、壊れた物も含めて30機しかなく、食料や部品の補充もない状況だった。なぜ勝つ見込みもないのに、どんどんのめり込んでいったのだろうか。このまま、アメリカと協力していれば、また戦争につっこむような気がしてならない。アメリカが日本を守っているというが、いざとなったら逃げるのは目に見えている。アメリカは、戦後の世界制覇までにらんで戦争をやった。インディアンを殺していったのと同じように日本人を殺したんだ。広島・長崎の原爆、全国の空襲も同じようなものだ」といった。
新垢田からきた80代の男性は、小学生時代大阪空襲にあった。パネルを参観後、「アメリカは、平和とか民主主義のような顔をして戦後、宣伝してきたが、やっていることは残虐きわまりない。日本軍が悪いとか、ナチスが悪いというが、戦争とは軍隊同士のはず。アメリカは、民間人をこれだけ殺している。日本は、表面上独立し豊かな国になったように見えてきたが、中身は腐りきっていると思う。60年の安保斗争などあったが、いまから若者がもう1度やるべきではないか」と話した。