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11月15日、与党の単独強行採決で、教育基本法改正案が衆院特別委員会を通過した。与党は16日に衆院本会議に同法案を上程。形式的な審議をした上、採決まで一気にやってしまった。法案はすでに参院に送付されている。
それほどバタバタ大騒ぎでやってしまったのは、12月15日で会期が切れてしまう今国会の会期中に、同法を成立させるためである。よく知られているように、衆院を通過したあと、1カ月の時間が経過すれば、参院の審議内容がどうあれ、法案は自然成立の運びになる。
これこそ1960年5月19日・20日の安保国会で、岸信介がやったことと同じである。
実質審議ゼロの最重要法案
あのときも、与野党間で最大の対決法案であった安保条約を無理やり通すために、自民党は特別委員会での単独強行採決に踏み切った。そして、委員会の強行採決後、すぐに衆院本会議に上程し、実質審議は何もなしで採決まで一気に突っ走ってしまった。
参院でもめること必至の条約案であったから、参院の審議がどんなに難航しても、1カ月後の参院での自然成立を確実にするための強行採決だった。
このときは、実は会期も不足していたため、会期延長も一括に決議してしまうという無茶苦茶が行われた。今回は会期がかろうじて残っているため、そこまでは行われなかったが、この強行採決はやり過ぎである。
野党はこの強行採決に怒って、本会議をボイコットしたが、当然である。
要するに、与党の特別委でのやり口は、国会の完全な軽視というか、事実上の無視である。教育基本法の審議は、尽くされたどころか、これからが議論の本番というほど、さまざまの問題点が洗い出されたところである。それなのに、そんな問題点は全部おっぽり出して、一挙に採決に走ったのである。
国会は、与党と野党、議案の賛成者と反対者が議論を尽くすところである。その議論が滞りなく行われることにこそ、民主主義の根幹がある。
それを問答無用で審議を打ち切り、直ちに強行採決に走ったとあっては、民主主義のルールの完全無視である。しかも、衆院本会議に上程されてからがまたひどい。野党がボイコットしたから、実質審議ゼロなのである。
安倍内閣は、教育基本法を今国会の最重要法案と位置づけてきたが、最重要法案を審議ゼロで通してしまってよいのだろうか。
野党がなぜこの法案の審議をボイコットしたのかというと、安倍内閣が衆院どころか参院でもこの法案をまともに審議しようとせず、実質審議ゼロのまま通してしまう(要するに自然成立を待つということ)が明らかだったからだ。
実質審議の拒否は暴力的クーデターと同じ
60年安保国会で、実質審議を途中で打ち切り、あとは強行採決に次ぐ強行採決ですべてを突破していった岸信介は、民主主義の破壊者といわれた。独裁者と同じといわれた。
強行採決に際して、激しい野党の抵抗をおさえこむために、岸は500人の警官隊と数百人の暴力団組員を含む院外団を国会内に導入した。彼らの実力行使によって、野党は抵抗を実力で排除された。国会の議場は、阿鼻叫喚の場と化した。
そのような暴力を用いての議会の反対者制圧方式を指して、「岸のクーデター」といわれた。
今回は、野党の反対がおとなしかったため、政府側も警官隊導入などの暴力的手段に訴えることはなかった。しかし、やったことは同じである。
要するに野党側との実質的な審議に応じることなしに、ひたすら多数の暴力をもって、強行採決に次ぐ強行採決で押し切っていったのである。このプロセスのどこに民主主義があるというのか。
強行採決にいたる以前の、一見もっともらしい審議が積み重ねられていたかに見える部分についても、地方公聴会のプロセスで、実は政府側がお金をバラまき、ヤラセの質問をさせるなどしていたことが国会でバクロされた。民意を直接に問う民主的な手続きだったはずの公聴会が、民主主義とはほど遠い、見せかけだけの民主主義で、実は官製のサル芝居プロセスだったことがバラされてしまったのである。
その問題が国会の場で追及されようとしたまさにそのときに、15日の強行採決に次ぐ、強行採決となったわけだ。
いったい政府は何をそんなに急いでいたのか。それほど急いで採決する必要がどこにあるというのか。
教育の理念を変更する理由はどこにもない
安保条約のときは、安保条約の国会通過に合わせてアイゼンハワー米大統領が来日することが決まっていた。それに合わせての強行採決だった。
だが、今回の強行採決はいったい何のためだったのか。そのような日限を決められた重要日程は何もない。
教育基本法が安倍新内閣の最重要法案というなら、何よりも審議を十分に尽くすべきではなかったのか。
子供たちの自殺の問題、いじめ問題、学力低下問題、高校での必修課目未履修問題等々、日本の教育に問題が山積していることはよくわかるが、それらの問題と、教育基本法はまるで結び付きがない。
教育基本法は、まさに「基本法」そのものであって、教育というのは、そもそも何をどうすることをいうのかなど、教育の基本的な理念を論じた「理念法」である。高度に抽象的な思想的内容の法律である。日々の教育に具体的にどのような内容を盛り込むべきなのかなど、具体的条目をテンコ盛りにした学習指導要領のような「具体的コンテンツ法」ではないのである。
現行教育基本法の理念の部分は、世界のどこに出しても恥ずかしくないような立派な理念がきちんと盛り込まれており、その内容に、昨日、今日、明日でバタバタと改変しなければ困るような部分は一切ない。
強行採決に次ぐ強行採決をしなければならないような特段の事情は何もない。
「第二の岸信介」目指す安倍首相
安倍首相の書いた本を読むと、自分の幼少期に側近くで見た安保時代の岸信介の姿が、政治家のモデル像として、頭の中にしっかり刷り込まれてしまっているようだ。
世の中のゴウゴウたる大反対を押し切って、自分が正しいと思い込んだ方向に敢然と進む政治家こそ、正しい政治家であるとの強い思い込みが安倍首相にはあるようだ。
だが、そのような思い込みは正しい場合もあれば、誤っている場合もある。政治家の誤った思い込みに国民が引き回されると、しばしば取り返しのつかない不幸に国家全体が引き込まれてしまう。
だからこそ、強い賛否両論がある議案には、国会で徹底的な議論を尽くす必要がある。
今後も強行採決が続く05年体制負の遺産
実質審議ゼロの強行採決など、近代民主国家であってはならないことである。安保国会のときのおじいちゃんの独断強行路線こそ、戦後日本を正しい路線に導いた、というような歴史の錯誤的認識の上に、自己の政治決断をのせているようでは、安倍首相はただの強権政治家にしかなれないだろう。
民主主義の時代において、正しい政治家の道は、あくまで民主主義のルールに従って、反対派とも議論を尽くす政治家の道である。
60年安保時代に強硬路線で突っ走った岸信介の姿は、民主主義時代のモデルには全くなりえない古い時代にのみありえた化石的強権政治家の姿である。
いま「第二の岸信介」を目指して走りはじめたかにみえる安倍首相の姿は、見かけ上の若さに全く似合わぬアナクロ政治家としかいいようがない。
しかし、それにつけても今回つくづく感じたことは、05年体制の恐ろしさである。自民党と公明党の与党が圧倒的多数を保持する05年体制のもとで、安倍首相のような強権政治に目覚めた人間がトップに座ると、これからこれと似たような実質審議なしの強行採決路線で、国家の大事が次々に決めていかれることになるのだろうか。
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