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植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(7)
幻想と虚構の繁栄がもたらした日本の虚無
1970年とは、私にとってはきわめて面白くもあり落ち着かない年でもあ
った。この年は3月に大阪万博があり、高校3年生であった私たち生徒は、
先生の引率の下、万博会場を見学に行って来た。覚えているのは人ごみ
と異様な熱気、一瞬も絶えない喧騒であった。大阪万博の真のテーゼ、
それは「進歩と調和」などではなく、科学技術が日本の直線的な右肩上
がりの繁栄を確実に保証したかのような幻想をしめす「無限繁栄」だった
に違いない。国民全体が地球の有限性を感じない無限繁栄の幻想に酔
い痴れていたのである。
面白いことその二は、この年の6月に第二次安保闘争があり、私のい
た高校の校門にも、大学紛争の波が押し寄せてきて、学生デモ隊を教師
たちが必死な形相で堰き止めていた光景を思い出す。当時、私はこのム
ーブメントにはまったく興味はなかったが、今から思えば70年安保闘争で
は、学生を中心として急進左翼が反米独立を謳っていた。けっして皮肉で
はないが、今の従米保守連中の軽薄さや脆弱さに比べたら、この時代の
左翼闘志の方がよっぽどまともな保守に見える。
面白いことその三、というよりもショックだったできごとがその年の秋に
起こった。11月、教室は倫理社会という授業に入っていた。先生の表情
がいつもとは違い、少し蒼ざめた深刻な感じがあったので、これはただ事
じゃないという気配は何となく察していた。先生は開口一番にこう言った。
「さっき、作家の三島由紀夫が切腹したというニュースがあったぞ」。教室
内はざわついた。先生は一通り事件の概要を説明した後、本来の授業を
そっちのけにして、国粋主義や天皇のことなど、三島にまつわるさまざま
な話を語り始めたのである。そして、最後に「君たちは同じ日本人なのだ
から、これを切腹の事件として観るだけではなく、君たち自身がこれから
生きていくうえで、三島由紀夫が行ったこと、考えたことがどういう意味を
持っているのか、君たち自身でこれからもよく考えてみなさい」と言って授
業を締め括ったことは覚えている。我々生徒は、「現代社会で切腹だっ
て?」というニュース性に気をとられ、あまり熱心には聴いていなかった。
私はそのあと、三島にも左翼にも国粋主義にもまったく興味を持たなか
ったが、あの三島事件は心のどこかにへばりつき、意識の底に沈殿した
まま時を過ごした感じがある。それがここ十年くらいの間に意識の表層に
浮かび上がってきている。私はここで三島由紀夫論をぶち上げようとして
いるのではない。そのような知識も気迫もない。私が言いたいことは、三
島由紀夫の異常とも思える時代への洞察力である。三島は割腹自決の
四ヶ月前に、日本のその後を見通した有名な文章を書いている。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま
いったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深
くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュ
ートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東
の一角に残るであろう」( 私の中の二十五年・昭和四十五年七月七日発表)
また、最後の檄文に書かれているが、自衛隊は「護憲の軍隊」であり、そ
の行く末は「アメリカの傭兵になる」と言っているのである。どうであろうか。
これも安倍政権とその後に続く政権の喫緊の課題になりつつあり、北朝鮮
の核武装問題でその動きはますますエスカレートする趨勢である。この預
言ももうすぐ可視的に実現するだろう。しかし、その本質はけっして日本国
家の主体性から生じているものではなく、アメリカの国際戦略上の一駒とし
て位置づけられていることを忠犬のようにやっているだけである。
日本人の精神が無機的でニュートラルになってきたのは漸次的であった
が、自衛隊の位置づけは、憲法の私生児から、いきなり米国の傭兵に変
わろうとしているのは急激である。我々はその動きを皮相的な意味での愛
国という言葉で自身を欺瞞しているのだ。それはあたかも、心のまったくな
い小泉が、靖国神社に参拝に行く行為と一致している。村山談話を踏襲し
て靖国に行く行為は「護憲の平和」という「呪詛」を英霊に向ける行為であ
る。
ここで、佐藤優氏の「国家の罠」を思い出していただきたい。今から36年
も前に非凡な直観力で今日の時代を見据えていた三島の近未来把握は、
奇しくも小泉純一郎と言う稀代の亡国宰相によって鮮明に実現化、可視
化されようとしているのである。佐藤優氏は小泉政権の時を「時代の転換
点」と位置づけている。佐藤氏の書いている次の文章に注目して欲しい。
「小泉政権成立後、日本の国家政策は内政、外交の両面で大きく変化し
た。森政権と小泉政権は、人脈的には清和会(旧福田派)という共通の
母胎から生まれてはいるが、基本政策には大きな断絶がある。内政上
の変化は、競争原理を強化し、日本経済を活性化し、国力を強化するこ
とである。外交上の変化は日本人の国家意識、民族意識の強化である」
(「国家の罠」P293より)
佐藤氏は言う。社会哲学風に整理すれば、ハイエク型新自由主義社会
モデルで構造変革をすることと、国家意識、民族意識の強化を同時的に
行うことは、それぞれのベクトルが逆向きである。従って、これを矛盾なく
包括的に成し遂げるためにはパラダイムの転換が必要とされるのだと。
しかし、時代構造を分析する手段として、作業仮説として捉えたとしても、
果たしてそれはどうだろうか。今の日本で生起している排外的ナショナリ
ズムは、皇統と神道を基底にした真の憂国気運、愛国情念とはまったく
かけ離れている。私には小泉純一郎も、安倍晋三も、偽装ナショナリズム
を気取った左翼的情熱で動いているとしか映らない。
理由は排外という「外」にはアメリカが含まれていないからである。ナショ
ナリズムやパトリシズムと言うからには、あらゆる国々からの内政干渉を
毅然と斥けることが最低の姿勢であろう。中国や大韓民国の干渉には憤
然としても、アメリカの内政干渉については、意識、無意識レベルで受容
するこの国、このどこが民族主義、愛郷主義だと言うのだろうか。今の日
本人は明らかに国家意識も民族情念も溶解しかかっているというのが実
相である。それをもたらしている本当の元凶を見定めずに愛国も独立もあ
り得ない。勿論、安倍晋三のいう「美しい国」は幻想の中の幻想に過ぎな
い。残念ながら三島由紀夫の眼力が見通した通りにことは進んでいるの
である。
しかし、佐藤優氏の言う「森政権と小泉政権の間にわたる深い断絶」は
決して見逃せない時代のターニングポイントである。すなわちこの「時代転
換」の狭間に、植草一秀氏の国策逮捕が生じているのである。私が植草
氏の擁護論展開において、最も訴えたい部分が小泉政権が行った「時代
転換」なのである。この重要な事実にこそ、植草氏の国策逮捕を矮小化で
きない巨大な問題が秘められていたのである。なぜなら、小泉たちが行っ
たこの時代転換は、一般国民には意識されないように非常に注意深く行
われたからである。
一般国民はフリードマンにしても、ハイエクにしても、その新自由主義モ
デルが、日本の国柄や伝統、皇統という歴史のレジティマシーにとって、
どういう意味を持ったものかまったく考えないでいる。なぜなら、小泉たち
は「構造改革」という経済修正的な言葉で、その時代転換の真相を覆い
隠していたからである。国民は小泉たちが行った政策を単なる「経済的
試み」としてしか受け止めていない。しかし実態は「国替え」なのである。
だからこそ、関岡英之氏や私はフリードマン・モデルの向かう先が「極左
急進的アナーキズム」だと断言しているのである。
思い出してみるといい。小泉政権のスタッフから、自分たちが行ってい
る構造改革が、新自由主義をモデルにしているとか、ハイエクやフリード
マンを参考にしているなどという話を一度でも聞いたことがあるだろうか。
彼らはそのことをどこかで発言し、どこかで文字化しているのを見たこと
があるだろうか。私にはまったく覚えがない。ということは、小泉政権は
構造改革の本質が新自由主義に基づいている事実を故意に隠蔽し、
「従来経済路線の思い切った改革」という旗振りで国民をペテンにかけ
ていたのである。この意味がわかるだろうか。私が小泉政権を「転換」と
か、「時代の位相転化」だと言うのは、この短い五年間に日本という国の
質がすっかり変わって別のものになってしまったからである。すなわち国
替えされてしまったということなのである。
小泉政権が行った、この「国替え工作」の頂点、すなわち国政ベクトル
が鋭角に変わった転換点に当たるのが「りそな金融ショック」だったので
ある。それまでは、戦前精神のイナーシャがかろうじて継続していたが、
小泉政権はその最後の力まで消滅させてしまったのである。国内外の
金の動きを監督するために、最も厳しいモラルを必要とする金融庁が、
日本人の誠実な魂を踏みにじる行動を行った時点で、それまでの日本
は終わったのである。現時点でも、このことに気が付かない国民は小泉
ポピュリズムを醸成した大衆層でもあるが、彼らは三島の預言にあるよ
うなニュートラルで無国籍な日常に揺曳しているのである。そのニュート
ラルという意味は極限的な空疎感、つまりは虚無感である。
小泉純一郎を好ましく思った国民は日本人としてのリアリティを完全
に喪失しているのである。これほど不幸なことがあるだろうか。市場原
理主義に埋没した政権は、かろうじて残存していた日本の伝統精神や
共同体的原風景を憎悪し、敵視し、その殲滅に乗り出した。規制の徹
底解除とは日本的なるもの、伝統的なるものへの熾烈な憎悪に他なら
ない。これこそ新自由主義の思想的行動力学にほかならない。
この本質を最も的確に説明しうる立場にあった識者が植草一秀その人
だったということである。りそな問題を彼が究明し、その国家的犯罪性を
暴いていくと、最終的には小泉構造改革が、ただの経済政策ではなく、
米国の思惑に百パーセント従った、非日本的な新自由主義構造に日本
社会が転換されたことに国民が気付いてしまうからである。つまり、小泉
が行ったことは、先祖に泥を塗る国体破壊であったことに気が付くのであ
る。りそなインサイダー疑惑で、謀議者たちが儲けた金が数十億円か、
あるいは数百億円かわからないが、問題は金銭的授受を超えて、小泉
たちの売国実体が白日の下に晒されることになることなのである。
植草氏が踏みつけた虎の尾とはそういうことなのである。国民が国体
破壊の実態に気が付いた場合、瞬く間に世論形成が起こり、国民は二
大政党の政権交代実現などということよりも、新自由主義という構造改
革、いや、「構造転換」をやった政権や政治家たちを真っ先に糾弾する
だろう。それは一種の覚醒である。これが民族を囲繞している極東国際
軍事裁判の桎梏を解放し、WGIP(War Guilt Imformation Program)の
鎖を解き放つ可能性がある。だからこそ、国内売国勢力もアメリカもその
ことを最大限に警戒しているのである。植草氏がその起爆剤となる最も
危険な人物であることを彼らは知り抜いているのである。
さて、今回は時代のマクロ的な俯瞰を行ったが、次回は「りそな金融ショ
ック」のミクロ的な観点に視線を持っていく。物事は大きな視座から生々し
い現在性へ、そしてまた大きな枠組みに視点を換えるという焦点の当て
方を繰り返しながらやる方が自分の性に合っている。
(次回につづく)
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