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インド映画「私はガンディを殺していない」
監督は人なつっこい笑顔がとても印象的だった。
大学教授が、認知症にかかる。
定年退職したのに、大学の授業に出てしまったり、さっき食事をとったことを忘れてしまったりする。
間違いを指摘された時に、悔しそうな、でも、努力ではどうすることもできないやりきれない表情を、俳優はよく表現できていたと思う。僕の祖母も時折、そういう表情をする。
この大学教授は、娘と一緒に住んでいる。彼女が一番、彼のことを理解しているのだ。
時には間違いを指摘するのではなく、彼が話していることが絵空事ではなく過去のことでもないことを、一緒に「演技」しようとすることすらあるのだ。
彼は認知症が進むと「私はガンディを殺していない」とおびえながら言うようになった。
それは真実ではない。でも、殺したと思っている。それは、なぜなのだろうか。
実は、彼は少年だった頃、友達と壁に貼った紙を的にして、何かで射る遊びをしていた。
彼が射ようとする時に、友人がふざけてガンディの新聞の切り抜きを壁に差し替えた。
彼が矢を放つと「ガンディ」を射抜いてしまったのだ。
彼は、おびえた。そして、間の悪いことに、この時、彼の父親らしき人が出てきて、
「なんてことするんだ!」と強く叱ったのだ。
そして、こともあろうに、ガンディの暗殺事件がこの日に起きてしまった。
ガンディの暗殺と、彼が「ガンディを射抜いてしまったこと」には、何ら関連はない。
しかし、彼は、そのことが心の傷として残ってしまった。
そして、認知症が進んできてから、自分はガンディを殺してしまったのではないかと、おびえ始めたのだ。
娘たちは、当初、なぜ彼が「私はガンディを殺していない」と言ってはおびえるのか、わからなかった。しかし、親戚などをたずねまわって、謎を説き明かす。
しかし、それだけでは、解決にはならない。
そこで「模擬裁判」を行うことにしたのだ。心理カウンセラーに相談をし、裁判の内容を決めて、俳優たちや、現職の法曹関係者を雇った。
検察は、彼がガンディを殺したと言い張る。そして「証拠の品」をビニール袋に入れて裁判長に提出する。この「おもちゃの銃」は、適当に用意したものなのだ。
そして、執拗に、彼が殺したんだと主張する。
「私はガンディを殺していない」と教授はおびえながら言う。
形勢不利になった時、弁護士がかっこよく、理路整然と説明をし始める。おもちゃの銃ではガンディは殺せないこと。彼がガンディのポスターを射抜いたのは、故意ではなく、友人が紙を貼り替えたために起きた事故だったこと。
検察官は「私が間違っていた」と引き下がり、裁判長は「無罪」の判決を出した。
「こうした心理療法は有効なのかどうかはわからないが、カウンセラーや医師は、有効性もあるかもしれないと映画を観て言っていた」と監督は、映画上映後のティーチインで答えていたそうだ。
さて、話はここでは終わっていなかった。
この模擬裁判による心理療法が成功すれば、無罪と認められた大学教授は苦しみから解放される。娘や意思にとっての賭けは成功するのか。
なんと、教授は、裁判後こう言い放つのだ。
「いや、私がガンディを殺した」と。
あぜんとする妹や医師、そして傍聴席の人々。
「私がガンディを殺した。いや、ここにいるみんながガンディを殺したんだ」
非暴力を貫いたガンディは、暴力によって暗殺をされてしまった。
しかし、彼の遺志が受け継がれていれば、ガンディはまだ死んでいないとも、ある意味では言える。
ところが、インドでは非暴力を貫くという思想は広まらなかった。全世界を見渡しても、軍拡は進み世界のあちこちで紛争は続いている。
だから、みんながガンディを殺したのだ。
そう言い放つ彼に、法廷にいる人たちはじっとして聞いていた。
最後のシーンは、夕暮れ時か、薄暗くなった時間に、海を散歩している彼と娘の姿を遠くから映しているシーンである。もう、彼の記憶も、夕暮れのように、輪郭が消えていっている。
本作品は「コダックアワード」という、観客による五段階評価の平均点がもっとも高かった作品に贈られる賞を受賞した。
ぜひ、劇場公開して欲しい。でも、興行的には難しい作品だとも思う。
この映画、観る人によって、どの登場人物に感情移入をして見たのかが異なるようだ。
僕の知り合いは、献身的な介護をする娘の姿に感動をしたと言っていた。
僕は、少し俯瞰的な位置から見ていたように思う。認知症の人に対して、どういう態度をとっていくのがいいのか。もし自分が認知症になったら、また、周りの人が認知症になったとしたら。
僕は、ここ数年、過去に読んだ本や講演の内容などを、なかなか思い出せなくなってきている。数年前までは、見たもの、聞いたことに対して、鋭敏に反応することもできたように思う。そして、内容を詳細にわたって、他の人に言葉で伝えることもできていたように思う。
だから、すばらしいものは伝えようという「メッセンジャー」として生きていきたいと思っていた。
ところが、昨年当たりから、それができなくなってしまったのだ。
読んだ本のタイトルを見ても、それがどんな内容だったのか、さっぱり思い出せなくなっていることすらある。疲れが取れたら、それは治るのだろうか。
知り合いたちにたずねると「忘れるって?そんなこと当たり前ですよ。忘れたらまた読めばいいんです」と口々におっしゃる。
そういうものなのだろうか。もし、そうなら、疲れをとってぼけっとすることを考えるよりも、どんどん本を読んでいけばいいのかな。
面白いことに、書いたことすら忘れてしまうことがよくある。
作文教室の先生に尋ねると「そういうものだよ」と言われていた。
僕は、書きたくてもうまく書けないテーマがあって、それを何度も書き直したり、温めたりすることがある。ところが(まあ、何とか書けた)と思うと、書いた内容を忘れてしまうのだ。
おそらく、それらのことについて「心残り」というものがなくなってしまうからだろう、と思う。
そういう「心残り」をどんどん捨てて、人は齢を重ねていくのだろう。と言いたいところなのだけれど、どんどん「心残り」は、増えていくばかり。なんとまあ、欲張りなのだと思う。
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