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(回答先: 教育基本法を巡る議論(1) [国会TV] 投稿者 white 日時 2006 年 11 月 09 日 13:48:24)
>2006年11月8日
>教育基本法を巡る議論(1)
> 文明論という大きな視点から教育を語ったのは自民党の鳩山邦夫議員である。
> 鳩山議員は世界の文明を「自然を破壊する人間中心の文明」と「自然と共生する文明」とに分類してこう述べた。
> 「植物文明、動物文明という比較でもいいんですが、要するに、稲作をやって森の中で暮らす。自然と共生する。永劫の再生と循環という思想の中で、太陽は、夜になると死ぬけれども、また朝よみがえるというような考え方、冬から春へ来るときも同じでございましょう。森の中でいろいろなものを収穫する、あるいは稲をつくる。彼らは、土地を拡大する必要が全くありませんから、自然と共生して、同じ領地というか同じ土地の中で幸せに暮らすことができる。
> 縄文文明は武器をつくることさえ知らなかった。中国の長江文明も武器すらつくる必要がなかった。しかも、病気がなかった。動物を無理に飼育しませんから病気はない。はしかというのは、あれは犬の病気です。これを人間の世界に取り入れている。ハンセン氏病は水牛です。結核、ジフテリア、天然痘は牛です。インフルエンザは豚と鶏から人間はうつるわけです。縄文時代や、あるいは同じ自然と共生する民が住んでいたアメリカ大陸、インディアン、インディオは一切そう言う病気はなかったわけです。まことに平和だ。宗教的に言えば、仏教の山川草木悉皆成仏という考え方。神道、ありとあらゆるものに神を見る。要するに、自然界のすべてに対する畏怖ですね。
> ただ、一神教ですと、どうしても、人間、愛を中心に訴え、人間のためには他を奪ってもいいというような。(中略)あのイラク戦争が始まったときに、ああ、なるほど、自然と共生しない文明同士が戦争を始めたなという印象を私が持ったのは事実です」
> 「日本には縄文時代以来、自然と共生する立派な文明があった。この文明原理はずっと根本において続いてきていますから、我が国の森林被覆率が6割を優に超すというのは、こういう日本のすばらしい文明のお陰であり、いろいろな方が日本人の美徳と言われるものは、やはり文明の質だと思うんですね」
> 「この森の民由来の先進国というのは、実は日本だけなんですね。例えば、自然と共生するケルト人の古ヨーロッパ文明というのがあった。ゲルマン民族に追われてイギリスへ、イギリスを追われてアイルランドへ。そのケルト人の歌がエンヤさんのつくる歌であり、C・W・ニコルさんが日本でアファンの森づくりをやっているのではないか」
> 「私は、そういうすぐれた文明の担い手だった日本、そのことを理解させることがあって初めて、国を愛する心や態度が生まれるのではないか。それが日本人の誇りになり、アイデンティティになると思うのです。誇りもアイデンティティもなかったら愛国心は生まれてこない」と鳩山邦夫議員は述べた。
> 鳩山議員が言うように日本人の中には自然に対する畏怖と感謝の心があり、それは綿々と受け継がれてきたと思う。食事をするときキリスト教徒は神に感謝をささげるが、日本人は「(命を)いただきます」と言って人間のために命をささげてくれた植物や動物に感謝する。樹木や岩石に霊的なものを感じ、それらを神として祀り参拝をする。そうしたことは今でも違和感なく受け入れられている。古来から日本人が育まれてきた文明を評価し、それを教えることに全く賛成だが、そのためには明治以来の教育の在りかたを根本から考え直す必要があるのではないだろうか。
> 「西洋に追いつき、追い越せ」と猛烈な勢いで西洋文明を取り入れた明治政府は、そのために日本人が古来から受け継いできたものの多くを犠牲にした。中でも私が問題にしたいのは音楽教育である。明治政府は五音階の日本の音楽を教えずにむりやり七音階の西洋音楽を教えることにした。義務教育の小学校でドレミファソラシドが教えられるようになり、日本人は自分たちが受け継いできた音楽の世界を忘れさせられた。
鳩山氏の文明観は、今の文部省などの官僚やゼネコン・軍需・自動車産業などの財界、自公両党の政治家とは相容れないものを持っていると思う。自公所属でこういう思想の持ち主は今の支配層の方向性とは逆の方向性な訳だから、 離脱して自公連立の政策とは闘った方が良い。今の与党には軍需やゼネコン、自動者・石油・金融などの勢力が強すぎて、上記のような文明観の持ち主の活躍できる場がないのである。
国民から英雄視される傾向が強い田中角栄すら批判する程、自民党官僚の政策を徹底的に批判し検証することなしに、近代文明の超克はないだろう。
「近代の超克」が叫ばれた戦中日本の体制やファシズム体制、スターリニズム体制、田中角栄の日本列島改造論ですら、「自然を破壊する人間中心の文明」の範囲内であり、上記の人々ですら戦争や開発で自然を破壊しまくっているのであり、決して本物の「近代の超克」派や「自然と共生する文明」派ではないからである。彼らの存在は、どこまでいっても近代の範囲内の超克でしかない。もし、こういう運動を「近代の超克」というなら、結局人間にとって「近代の超克」は不可能だと言うことである。ファシストやキリスト教原理主義者が環境に優しかったなどという人間がいるなら、何を見てそう言っているのかと言いたい。彼ら程人間中心主義で環境破壊をした連中もないだろう。
自然とは竜巻であり、地震であり、洪水であり、猛獣なのである。政府行政も公的な医療も教育機関も人工的なものである。そもそも自然との共存が可能なのか、せいぜいが人工的なものと自然とが別居できるだけではないのか?という議論にまでなってくるだろう。
我が国の森林被覆率が6割を優に超すと言えど、今の自然はすでに縄文時代どころか昭和30年代の杉植林によって昭和戦前期の自然ですらないのである。まして、昭和30年代初期にすらあった土の道はアスファルトに覆われて、もうほとんどないのである。では、土の道に戻すか?現在物流の主流となり、大惨事を起こす可能性のある自動車の使用を止めて、牛や馬の時代に戻すか?日本全国の物流業者にそれが可能か?いくら近代に対し、縄文や江戸の良さ語っても、じゃあ明日からすぐに縄文時代なり江戸時代のライフスタイルに戻れる業者がどれだけいるというのか?キューバですら脱近代農法と言っても近代的なバイオ研究をやっているのである。近代の弊害と縄文、江戸の良さを語る割には、具体的な政策の話が今までなかったのだ。しかし、具体的な話をする必要はもう出てきている。それは相次ぐ熊被害であり、猿被害であり、クラゲ被害である。そして、今までの自民党や官僚、財界の政策の延長で、それらが解決できるとは思えないのである。超薄型のテレビを買い、CMで見たトヨタの新車とソニーのゲーム機を買い、ネットで株の売買をしながら、尚かつ江戸時代や縄文時代の生活をして自然と共生するというのは、今までの流れを見る限りではあり得ないのである。
日本庭園は自然そのものではない。日本庭園が美しいのは人工的なのに自然に見せているからである。東京や京都にある神社仏閣の森も手入れをしている。何も手を加えない自然が美しいとは限らない。広大な皇居の森や代々木公園が自然ではないのだ。公園やとの共生ならもちろんすぐにできる。時代劇や太秦映画村と実際の江戸時代は=ではないのだ。
まして縄文時代は文字以前だから実態すらまだ不明なのである。むしろ人類の将来の文明のあり方を考えれば、縄文こそ歴史論争のし甲斐もあるだろう。少しずつ見えてきたとはいえ、まだほとんど手がつけられておらず、トンでも本で取り上げられるイメージの段階なのだ。この時代がもっと解明されていかない限り、自然との共生云々も簡単には言えないのではないか?結局我々は今の時点ではまだ文字以後の歴史しかほとんど知らされてないのだから。
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