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60年前の今日11月3日に日本国憲法は公布された。
還暦を迎えた日本国憲法に「時代にそぐわないところがある」とアベは言う。「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の憲法の理念は国民に定着している」とする一方で、「時代にそぐわない」条文の代表として第9条を挙げる。第9条の自民党改正案は、
第二章 安全保障(平和主義)第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(自衛軍)第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する2 自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。3 自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。4 前二項に定めるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関する事項は、法律で定める。
となっている。現行の第9条第1項をそのままに、第2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」を削除して「自衛軍」の保持とその活動内容を定めている。一見すると事実上軍隊である現在の自衛隊を「自衛軍」として憲法に明記しているだけにも見えるが、アベの狙いはそれだけではない、と疑っている。
アメリカがアフガン戦争を始めるにあたり、日本はテロ対策特措法を定めてインド洋上での後方支援を可能にした。イラク戦争ではイラク特措法を定めて“非戦闘地域”における後方支援を可能にした。いずれも支援する主な相手はアメリカ軍である。これらの自衛隊の活動は明らかにアメリカ軍の戦争と一体化したもので、直接銃をぶっぱなしてはいなくても、国際法上は戦闘行為と看做される。つまり、テロ対策特措法の時点ですでに集団的自衛権を発動していることになる。これは「第9条は集団的自衛権の行使を認めていない」とする従来の政府の憲法解釈を逸脱するものだ。コイズミは「憲法の範囲内でできる限りのことをする」と言って自衛隊派遣に踏み切ったが、正式に憲法解釈変更を表明した訳ではない。表明せずに、事実上、集団的自衛権の発動に踏み切ったと解釈できる。
(実態としてアフガン戦争もイラク戦争もアメリカの自衛戦争ではなく、明らかに侵略戦争だから、正確には“自衛権”の発動ではない。この二つの戦争を支援した日本は侵略に加担してしまったのである)
ところで、ここで考えてみたいのは、自衛隊がイラクに派遣されても実際の戦闘に直接参加しなかったのは何故かということだ。もちろん憲法第9条があったからである。事実上、集団自衛権の発動に踏み切ったコイズミも、さすがに露骨な憲法違反はできなかった。公布から60年を経てなお、第9条は戦争への道の歯止めとして生きているのである。
仮に、自衛軍が発足し、集団的自衛権を公的に認めた場合、どうなっていただろう。アフガン戦争・イラク戦争について、アメリカは表向き「自衛戦争」としている。国際法上認められる戦争は自衛戦争だけだから、どんな戦争であれ大義名分は「自衛戦争」という看板を掲げるのだ。アベは日米同盟の強化と称して日米安保の片務性を解消し、双務的な同盟関係にしようとしている。片務性とは、日本が敵国から攻撃された場合、アメリカは日本の防衛戦争に参加するが、アメリカが攻撃された場合、日本が参加する義務は負わない、ということだ。双務的になるとそうは言っていられない。アメリカが「自衛戦争」を始めたら日本はそれに参加する義務を負う。
イラク戦争がアメリカの自衛戦争だとすれば、日本はこれに参加する義務を負うことになり、米英軍と一緒にイラクでゲリラ相手にドンパチやらなければならなかった。何人もの自衛軍兵士が死ぬことになっただろう。言い換えれば、憲法第9条が自衛隊員の命を守ったのである。
日米安保の体質は、周辺事態法や在日米軍再編などにより変質しつつある。アメリカ軍と自衛隊の一体化、というより、自衛隊がアメリカ軍の指揮下に置かれつつある。アベの言うような改憲、集団的自衛権の行使が実現すれば、“自衛軍”はアメリカの手先となって世界中に派遣されることになるだろう。
果たして日本国民はそんなことを望んでいるのだろうか。
憲法を考えるときに忘れてならないのは、憲法は国家権力を縛る道具であるということだ。その目的は国民を守ることにある。個人を尊重するために国家権力を縛るのが憲法の役割である。ところが権力の目的は必ずしもそうではない。
だから国民は常に監視を怠らず権力が憲法違反しないようにしなければならない。それには常に国家の言い分を疑うことだ。権力の盲信は民主主義の敵である。「信頼はどこまでも専制の親である。自由な政府は信頼ではなく猜疑に基づいて建設される」(トマス・ジェファーソン)のである。
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