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□【地獄も天国も見た男 波瀾万丈サッカー50年】 [ゲンダイ]
▽「脚だけは切らないでくれ」救急車の中で思わず叫んだ
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=24939
2007年3月12日 掲載
「脚だけは切らないでくれ」救急車の中で思わず叫んだ
●銅メダルから15年目の悲劇
遠いメキシコの地で銅メダルを首にかけてから15年後、まさか死線をさまようほどの惨劇に見舞われるとは――。
68年10月24日。メキシコ五輪サッカー3位決定戦。日本代表は釜本(邦茂・現日本サッカー協会副会長)の2ゴールで地元メキシコに完封勝ち。銅メダルを獲得した。今なお日本サッカー史に燦然(さんぜん)と輝く金字塔である。
その時の銅メダリストが紅蓮(ぐれん)の炎に包まれた。
全身の40%の皮膚が火傷でただれ落ち、左手の指を4本失った。死者14人、重軽傷者28人を出した「静岡・つま恋ガス爆発事故」である。
83年11月22日。東洋工業(現マツダ)人材開発部の担当者として、静岡県掛川市のヤマハのレクリエーション施設・つま恋「満水亭」にいた。
翌日には就職内定者800人が集まる。研修会の準備をしながら、昼食を済ませた後だった。想像を絶する惨事だが、淡々と振り返る。
「漏れたプロパンガスが引火して大爆発。体が宙を舞った。それから天井の骨組みの鉄骨、吹き飛んだ畳が降ってきた。脱出せねば、と思って足を踏ん張っても両手を伸ばしてもダメ。両手足の骨が折れ、左手首からは骨が出ていた。腹ばいで両ヒジ、両ヒザを使って前進した。背後から熱気を感じた。足先から体が燃えていく。たちまち上半身に及び、一瞬にして髪の毛が燃えたのが分かった。“おい、人が出てきたぞ!”の声を聞きながら気を失いました」
救急車で運ばれる途中に、「サッカーが出来なくなる。脚だけは切らないでくれ」と懇願したという。後日、担当医から聞かされた。もっとも、本人は覚えていないと言うが――。
●生死の境をさまよった1週間
1週間、生死の境をさまよった。朦朧(もうろう)とした意識の中で「まだ生きてる」というセリフも聞こえた。当時、通信社運動部の記者が「経歴を教えて欲しい」とサッカー専門誌編集長に電話している。あらかじめ「死亡記事」を用意しておくためだ。何とか一命を取り留めたが、「社会復帰に2年はかかる」と宣告された。転院先の東京慈恵医大で両手足の治療、皮膚移植など延べ8回、計35時間の手術を行った。
「火傷を負ったところに子豚の皮膚を張った。そうすると半年で自分の皮膚が再生する。懸命にリハビリに励み、翌年春には病院近くの愛宕神社の石段を上り下りした。半ズボンに半ソデ姿。ケロイドになった皮膚を見られても気にしなかった」
驚異的回復を見せ、84年7月に退院した。苦笑いしながらこんなエピソードを明かす。
「火傷のあとがしばらくかゆくてね。満員電車の中でモゾモゾ動きながら手をかいてたら、チカンに間違えられたことも」
九死に一生を得た松本を待ち構えていたのは、波瀾(はらん)万丈のサッカー人生だった。
◆まつもと・いくお 1941年、宇都宮市生まれ。早大3年で日本代表に選出。64年マツダに入社、68年メキシコ五輪銅メダリスト。引退後はユース代表監督、日本代表コーチなど。96年マツダ退職後は、京都GM、川崎監督、長野・地球環境高監督を経て04年に鳥栖の監督に就任。今季から鳥栖の専務執行役員GM。近々「天命 我がサッカー人生に終わりなし」(クリーク・アンド・リバー社)が出版される。
▽J2川崎の監督に就任した時「最悪な指導者」と酷評された
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=24954
2007年3月13日 掲載
J2川崎の監督に就任した時「最悪な指導者」と酷評された
●京都でオフト監督と対立
死傷者42人を出した「静岡・つま恋ガス爆発事故」(83年11月)から奇跡的に生還した。
85年にユース代表監督として“現場復帰”。その後は社業(東洋工業=現マツダ)にいそしみながら東洋工業サッカー部監督、五輪代表監督、日本代表コーチなどを歴任した。96年に一大決心をした。54歳になり、定年を1年後に控えていた時だ。
「サッカーの道を極めたい。そう決断した。役職定年を待って“どっかに働き口はないか”ではサッカー界にも、そして会社にも失礼。あえて《退路を断つ》ことで周囲に意気込みを示したかった」
退職して2カ月。京都から「統括GMをやって欲しい」とオファーが届いた。クラブは開幕17連敗の泥沼に沈んでいた。
「難しい仕事でした。中でも2人目のオフト監督には苦労させられた。練習場に顔を出すと露骨に嫌がり、ミーティング出席も拒絶する。金銭への執着も強過ぎた。勝てないと“GMが悪い。松本を辞めさせて自分をGMにしろ”と言い出した。オフトは結局、契約途中に帰国しましたが、完全に見込み違いでした」
2年半の京都GM時代には結果を残せなかったが、99年シーズン開幕直後に当時J2の川崎監督に就任した。1勝3敗1分け。完全にスタートダッシュに失敗していた。
「基本プレーを大事にする。厳しい練習に打ち勝つ。選手には“オレが死ぬまで(練習を)やれと言っても死ぬわけではない”とも言いました。あと乙武洋匡氏の著書『五体不満足』を全員に読ませて“彼のチャレンジ精神を見習え。甘えるな”と伝えました」
●最後はいつもケンカ別れ
監督就任が報じられた後、セルジオ越後(評論家)に「最悪。他に指導者はいないのか」、リトバルスキー(現J2福岡監督)には「100年前のサッカーを教えている」と酷評された。
「心の中では“結果が出たら、もうオレのサッカーの評論はさせんぞ”と誓った。でも、本当は気にならなかった。プロにも“勝つための基本”がある。何を言われようが信念は揺るがなかった」
松本体制になってからは24勝5敗2分けの驚異的な勝率でJ2を制し、J1昇格に花を添えた。
02年には長野県に設立されたばかりの地球環境高サッカー部の監督に就き、7カ月後には全国選手権の出場を決めた。
04年には前年3勝の弱小クラブ、J2鳥栖の監督に就任。06年は22勝でクラブ史上最高の4位に躍進した。
「新設高校やお荷物Jクラブの監督なんて銅メダリストの経歴にキズがつく、とは思わなかったのか」とよく聞かれた。
「何事にも全力を尽くしてチャレンジする。これが私のモットーです。そんなことは、頭の片隅にもありませんでした」
もっとも、川崎、地球環境高では結果を出しながら、最後はケンカ別れの形で袂(たもと)を分かった。
▽J1昇格を決めた後に、屈辱の“お飾り社長”に追いやられた
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=24965
2007年3月14日 掲載
J1昇格を決めた後に、屈辱の“お飾り社長”に追いやられた
●編成や強化もカヤの外
川崎は、97年から2年連続でJFLからJリーグ(当時)への昇格を逃していた。97年は勝ち点が1足りず、98年は入れ替え戦で敗れた。
あと一歩でJリーグに手が届かなかった。J2が発足した99年はスタートダッシュに大失敗。6試合目から松本が指揮を執ることになった。
これでチームは生き返った。終わってみれば2位に勝ち点差9をつけて優勝。「J1で思う存分に暴れてやる」。はやる気持ちを抑えられなかった。ところが、運営会社幹部に「もうグラウンドに立たなくて結構。(運営会社の)社長をやって欲しい」と言われた。青天の霹靂(へきれき)だった。唖然とするしかなかった。
「(親会社の)富士通と運営会社との人事に複雑な事情があり、その犠牲になった。念願のJ1のピッチに立てない。ハラワタが煮えくり返りました。“クラブの経営を学びなさい”ということなのか、と自分で納得するしかなかった」
しかし、何の権限もない、お飾り社長だった。
「チームは前社長と強化本部長が取り仕切り、編成、強化に関してもカヤの外。社長であっても決裁書類にハンコを押す欄もなかった。納得がいかず、熟考の上で建白書を富士通本社に送った。すると前社長らが“恥をかかされた”と激怒し、いよいよ疎外された」
01年、特別顧問の肩書で川崎を去った。
「長い人生で、あれほどの屈辱は経験したことがなかった」。今でも口惜しさが蘇(よみがえ)ってくるのだろう。いつもの丁寧な物言いに怒気が含まれる。
●高校ともケンカ別れ
2002年4月。長野・地球環境高校サッカー部の監督に就任した。
「開校したての広域通信制の高校でサッカー部員は未経験者4人を含む総勢17人。人工芝グラウンドは縦の長さが通常の半分しかなかった。地元の佐久市から借りたグラウンドは荒れ放題。毎朝5時に起きて石拾いと雑草抜きの毎日でした」
松本は、サッカー部員に「オフ・ザ・ピッチなくしてオン・ザ・ピッチなし」と口酸っぱく教えた。「一日の練習時間が3時間とすれば残りの21時間はピッチ外で生活をする。この21時間をどう有意義に過ごすか。これが重要になる」。そしてアルバイトを奨励した。
「サッカー選手は、プレー中に自己表現がどれだけ出来るか――が非常に大切となる。社会勉強で得た“自己判断力”をピッチの上で表現して欲しかった。部員のアルバイト経験は、サッカーに大いに役に立ちました」
創部7カ月にして全国サッカー選手権長野県予選を勝ち上がった。全国大会では初戦突破して話題を集めた。しかし、03年春には「知名度アップのためにサッカー部員を大量に引き入れ、全国大会常連校にしたい」とする経営陣と衝突し、ケンカ別れの形で長野を離れることになった。
04年12月。鳥栖の監督就任会見で第一声は「覚悟して参りました」だった。
▽鳥栖ではシーズン中になんと3度も解任された
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=24981
2007年3月15日 掲載
鳥栖ではシーズン中になんと3度も解任された
JR鳥栖駅から徒歩1分。スタンドと屋根を支える「むき出しの鉄骨」が、独特のムードを醸し出す。鳥栖スタジアムは「国内トップ級のサッカー場」と高く評価されている。
03年の鳥栖は3勝(30敗11分け)しか出来なかった。J212チームの最下位。オフに「鳥栖を救って欲しい」とJリーグから連絡が入った。
「あえて火中の栗を拾う監督はそういないと思っていましたから、胸騒ぎというか、予感めいたものがありました」
●困った時に声がかかる
自ら「私は《お助けマン》なのです」と言う。
「京都ではJ2降格を阻止。川崎ではJ1昇格のお手伝い。その後に地球環境高を全国大会に導いた。そして鳥栖の立て直し。困った時に声が掛かる。スタジアムが04年中に解体される。そんな噂も聞こえてきた。あの素晴らしいスタジアムをなくしてはいけない。報酬や条件は二の次でした。そういえば“冷蔵庫、洗濯機、ベッド、テレビ、食器と何でも揃っている。身ひとつで来て下さい”と言われて用意されたマンションに入ったら、前年に在籍していたジーコの長男ジュニオールのお古でした」
そう苦笑いするが、就任1年目は予想もしなかったトラブルに翻弄される。
「04年シーズン中、私は3度、当時の球団社長から解任されました」
●球団トップが現場介入
前球団社長は、「ウチは貧乏。J1に上がれなくていい」と公言。3DFで負けると「次の試合はDFは4人に」、正GKが失点すると「次は第2GKを使え」。現場介入も日常茶飯事だった。
「言うことを聞かない監督だった。目障りだったのでしょう。もうクビにする。来季は構想外。事務所に出入り禁止。そう言われました。若い監督なら動揺するところでしたが、もう還暦も過ぎており平常心でいられました。しかし、ある団体の集まりで挨拶をして欲しいと言われ、行ってみたら某政党の主催だった。Jリーグからおしかりを受けましたが、これには本当に参りました」
04年は11位(8勝25敗11分け)。最下位は免れたが、「精いっぱいの成績だった」と言う。
05年1月17日。人材ネットワーク会社のクリーク・アンド・リバー社の井川幸広社長が、代表取締役を務める「サガンドリームス社」にクラブの経営権が譲渡された。
「04年中に古川佐賀県知事と極秘会談を持ちました。私は“鳥栖再建のためには金ではなく、優秀な人材を下さい”と訴えました。佐賀県は4人の人材を派遣してくれました。脆弱(ぜいじゃく)な組織を立て直すには、関わる人たちの情熱も大事です。佐賀東高サッカー部OBの井川社長、東京Vから来てくれた岸野ヘッドコーチ(靖之、07年から監督)、2人の力は大きかった」
体制の整った05年は3年ぶりの2ケタ勝利(14勝20敗10分け)。順位を8位に押し上げた。
▽05年、鳥栖は8位に食い込みJ2の“お荷物クラブ”返上
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=24993
2007年3月16日 掲載
05年、鳥栖は8位に食い込みJ2の“お荷物クラブ”返上
●成績不振は自分が責任取る
今季の鳥栖はスタートで大きくつまずいた。
地元での開幕戦は、福岡との「九州ダービー」。0―5の屈辱的な大敗だった。2節は敵地での札幌戦。19歳のMF藤田にプロ初ゴールを決められ、2試合続けて完封負けを喫した。
今季から専務執行役員GMに就いた松本は、それでも迷うことなく、毅然として言い放った。
「たとえ成績が上がらなくて批判されても、自分が矢面に立って岸野監督を守る。成績不振の責任を監督一人で負うのは間違っている。チーム作りはフロントの仕事でもある。まずは自分が責任を取る、という筋道を作る。岸野は素晴らしい指導者であり、必ず立て直してくれると信じている」
松本監督―岸野ヘッドコーチ体制は05年にスタート。1年目は4年ぶりの2ケタ勝利(14勝)で8位に食い込んだ。優勝してJ1に昇格した京都相手に3勝1敗。地力をつけ、J2のお荷物クラブを返上した。
「ようやく“プロ”としてスタートラインに立てたと思った。06年は飛躍の年にしなければ。身が引き締まった」
●「オレのために勝ってくれ」
06年の前半戦は8勝10分け6敗。勝ち越しての折り返しはクラブ史上、初めてだった。終盤まで優勝争いに食い込み、ついに最終戦を迎えた。札幌ドームが、監督・松本にとっての「最後の働き場所」となった。
前半にMF高地が先制ゴール。後半早々には05年、06年の「J2日本人得点王」FW新居(今季からJ1千葉に移籍)が追加点を決めた。
松本は「試合前に切り札を出してしまった」と述懐する。初めて選手に言った。「オレのために勝ってくれ」。選手はこう応えた。「戦って白星をプレゼントする」と。
「札幌の柳下監督が、試合後の会見で《情熱は選手に伝わっている。鳥栖を見ていると“育夫さんのチームだな”と誰もが分かる。それは指導者としてすごくいいこと。自分もそうなりたい》とコメントしてくれた。うれしかった。基本を大事にする、選手個々の個性を伸ばす、あくまで勝利にこだわり、90分間闘争心を持ってプレーする。鳥栖のスタイルにしたいと思ったことの集大成となった試合だった」
昨年11月、シーズンが終わってない段階で「来季(07年)は岸野が指揮を執る」と会見で発表した。現役監督が次期監督を指名するのは異例だ。
「どんな名監督でも“まだやっているのか”と非難されたり、シーズン途中でクビになったりする。後継者を育て、温かい送別の辞をいただいて辞めていく。こんな幸せな指導者人生はありません」
▽東京五輪メンバーから外れ悶々と屈辱の日々を送った
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25017
2007年3月19日 掲載
東京五輪メンバーから外れ悶々と屈辱の日々を送った
●高1の時“五輪出場”宣言
高校3年生でユース代表に選ばれた。
もっとも、高校に入るまでは“サッカー素人”だった。中学時代(宇都宮大付属中)は卓球、陸上、バレーボールを掛け持ちした。それも正式な部員ではなく、大会ごとに駆り出される「臨時要員」だった。
中3の時に宇都宮市陸上大会の800メートルで優勝。そして助っ人として呼ばれたサッカー部では、栃木県大会で優勝した。
それを見た宇都宮工高から「ウチでサッカーをやらないか」と誘われた。
「サッカーとの付き合いが短く、それだけに新鮮な思いで向き合った。猛烈なしごきに歯を食いしばり、先輩のイジメに耐え忍び、サッカーにどんどんのめり込んだ。高校1年生の時に“日本代表になってオリンピックに出る”と宣言した。60年に早大入学。誰よりも早くグラウンドに出ていき、誰よりも遅くグラウンドを後にした。大学1年生で日本代表候補に選ばれ、64年東京五輪を目標に猛練習を積んだ」
こんな《松本伝説》がある。大学3年で日本代表に選ばれた後、スランプで代表から外れた。そこで代表復帰のために「代表選手と同じ時間帯に練習する」ことにした。
「いつ代表に呼ばれてもいいように《代表選手と同じ生活》を送った。たとえば代表合宿で午前9時半から11時半、午後3時半から5時半が練習時間だとすると、同じ時間にひとりでトレーニングをやった。こうしたことの積み重ねが、五輪出場につながると信じた」
●西独合宿でギプスの大ケガ
しかし、「東京五輪出場」という夢は、若かりし頃のDFベルティ・フォクツ(元ドイツ代表監督)の悪質なタックルによって無残にも砕かれた。
大学4年生で日本代表に復帰すると、西ドイツ(当時)で行われた夏合宿に参加。到着したその日に西ドイツユース代表候補と練習試合を行った。
開始早々、小柄なフォクツが仕掛けてきた「カニばさみタックル」で左ヒザの靱帯を伸ばし、すぐにギプスが巻かれた。
西ドイツ夏合宿、翌春の五輪選考合宿でアピールできず、東京五輪メンバーから外れた。
五輪期間中は、東京・本郷の旅館に泊まり込んだ。選考に漏れた選手を集めた「代表Bチーム」として、五輪出場国との調整試合を務めた。早い話が「スパーリングパートナー」というわけである。
「屈辱だった。もうサッカー人生は終わった。そこまで思い詰めた」
悶々とする日々を送ったが、「縁は異なもの」を実感する。那須旅館の娘・邦子との出会い、生涯の伴侶を見つけたのである。(敬称略)
▽人の3倍練習し早大時代の川淵先輩から代表を奪い取った
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25030
2007年3月20日 掲載
人の3倍練習し早大時代の川淵先輩から代表を奪い取った
●途方に暮れた採用取り消し
早大4年(63年)の夏。日本代表に復帰してドイツ・デュイスブルクでの合宿に参加した。翌年には東京五輪が開催される。代表定着に向けて「充実した日々」を送っていた。そんな時に一通の国際電報が届いた。
「古河電工の採用取り消し」と書かれていた。業績に陰りが見えていた古河が「サッカー新人の採用」を取りやめたのだ。
「一瞬、頭の中が空っぽになった。実は高校2年の時、古河OBの長沼さん(現日本サッカー協会最高顧問)に“ウチに来ないか”と誘われていた。古河以外の誘いはすべて断っていた。行くアテがなくなった」
途方に暮れていたところに、同郷の先輩が手を差し伸べた。栃木出身で東洋工業(現マツダ)所属の小沢通宏(当時日本代表主将)が奔走。入社試験を受ける段取りを取り付けた。ドイツ夏合宿から帰国した翌日が入社試験だった。
「サッカーひと筋だったので筆記試験はチンプンカンプン。でも、小沢先輩に“とにかく答案用紙を埋めろ”と言われた通り、答案用紙を真っ黒にした。2次試験の面接を経て合格。入社後に役員から“筆記は零点。面接は満点。面接での立ち居振る舞い、敬語の使い方がしっかりしていた。人間性を買った。これから頑張れ”と言われた」
●五輪出場逃し酒びたりの日々
しかし、マツダ入社後に行われた「東京五輪代表選手選考合宿」で候補から外れ、7月発表の最終メンバー18人の中にも名前はなかった。
「ショックで腑抜(ふぬ)けになり」酒びたりの日々を送った。
「仕事の後、練習グラウンドに移動して午後6時から2時間の練習。それから独身寮までバスに揺られて帰る。途中で八丁堀、薬研堀といった繁華街を通る。毎日、途中下車です。五輪出場を逃して“サッカー人生が終わった”と自暴自棄になっていた。週に3回は午前さま。いつも二日酔いだった。入社1年目の実業団リーグでチームは3位に入ったが、試合に出てもフルに動けず、前半の45分しか持たなかった」
入社2年目に目が覚めた。この年(65年)から実業団リーグが日本サッカーリーグ(JSL)に衣替え。代表級の有力新人も入団してきた。
「このままではサッカー人生が終わる。再起してみせる」。こう誓った。
「人の3倍、練習する」をノルマに課した。猛練習を重ね、65年からマツダのJSL4連覇の原動力になった。
68年メキシコ五輪。同じポジションを争った早大の先輩、川淵(現日本サッカー協会キャプテン)から代表メンバーの座を奪い取り、銅メダリストの一員となった。
(敬称略)
▽ユース代表をしごいた時、“血のションベン事件”“ナイフ事件”が相次いだ
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25043
2007年3月22日 掲載
ユース代表をしごいた時、“血のションベン事件”“ナイフ事件”が相次いだ
●クラマー氏を目指した
サッカー指導者としての原点は何か。
ある「出会い」があった。それは、今から47年前にさかのぼる。
1960年に早大に入学。1年生で五輪代表候補に選ばれ、夏の欧州遠征に帯同した。
ドイツ・デュイスブルクの合宿地に小柄なドイツ人が立っていた。
東京五輪開幕を控えた日本代表のコーチを務め、後に「日本サッカーの父」と呼ばれるデットマール・クラマー氏である。
合宿3日目のことだ。1日7時間の猛練習に疲れ果て、選手はみな熟睡していた。その夜、寝室のドアが音もなく開き、男がスッと入ってきた。
ベッドから掛け布団が落ちている選手がいると、そっと布団を掛け直す。再び音もなく部屋を出ていった。廊下の常夜灯で横顔がチラッと見えた。クラマーだった。
「鳥肌が立つほど驚いた。彼は24時間、選手のために行動している。現役を退いたら、彼のような《心の通った》指導者になろうと決心した」
数年後、あるサッカー関係者がクラマーに会った際、「マツモトにはユース年代の監督をやらせたい。若い選手に『人生も教えられる』からだ」と伝言されたという。
その言葉が現実となり、現役引退後はU―19(19歳以下)代表、U―23(23歳以下)代表の監督を務めた。79年9月には、日本で行われた世界ユース選手権の指揮を執った。
本大会1年前から1カ月の長期合宿を計4回行った。
合宿では「練習で死んだヤツはいないんだ」と怒鳴りながら、選手を徹底的にしごいた。
●井原DF転向を決めた
信じられない事件が起きた。“血のションベン事件”である。
「79年夏の直前合宿で尾崎加寿夫(83年からドイツ・ブンデスリーガ1部でプレー)が、血の入ったコップを持って『血のションベンが出ました』と見せに来た。“ナイフ事件”もあった。G大阪などでプレーした佐々木博和がナイフを持って寝ていた。『これ以上やれと言われたら殺してやる』と半ば本気で思っていた。でも、佐々木は『松本が憎い』からではなかった。オレが犠牲になれば仲間が楽になる。そう思うヤツだった。天才肌の選手でしたが、親分肌のところもあった」
猛練習だけの「ド根性監督」ではない。元日本代表DF井原正巳。高校までFWだったが、ユース代表合宿中にDFに転向させた。翌年、井原は日本代表に抜擢された。
「すぐに前(攻撃系)の選手じゃないことが分かった。パスコースを予測したり、とにかく守備がうまかった」
井原が日本代表最多123試合出場の金字塔を打ち立てたのも、指導者としての慧眼(けいがん)があったればこそ、なのである。
▽「マツ、お前の会社はどうなっている!」と川淵さんに怒られた
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25057
2007年3月23日 掲載
「マツ、お前の会社はどうなっている!」と川淵さんに怒られた
●現場、フロント幹部と頭下げる
開幕3連敗。今季の鳥栖は最悪のスタートを切った。21日、草津戦(アウェイ)のキックオフ前に背広姿でピッチに下り立った。井川社長、岸野監督とともにスタンドの一角に陣取ったサポーターの前に歩み寄り、深々と頭を下げた。
そして、「プロとしての自覚を持って、遠路はるばる応援に来てくれたサポーターに感謝しながら戦って欲しい」と、選手を激励した。
結果は1―1。今季初の勝ち点を挙げたとはいえ、選手は「開幕から動きが鈍いし、キレも悪かった」。
25日には地元に徳島を迎え撃つ。立ち直りのキッカケをつかむ一戦となる。
15歳でサッカーを始め、瞬く間に50年が経った。いろいろな出来事に遭遇した。
93年、Jリーグ発足前には「サンフレッチェ広島」誕生に関わった。
90年、所属するマツダが「Jリーグ不参加」を表明した。当時は東京本社勤務だった。営業本部長に「広島の人間は残念がっています。何とかなりませんか」と直訴した。
「東京本社の営業本部長は(メーンバンクの出身で)発言力のある人だった。『Jリーグ参入の関連資料を持ってこい』と言われた。時効なのですべてをバラしますが、Jリーグ参画予定の某クラブの幹部から極秘資料を拝借し、それを基にプロ参入メリットを説明した。結局、本部長がマツダ本社常務理事会で押し切り、91年1月にプロリーグ参加を表明した」
この時、川淵Jリーグチェアマン(当時)からどやしつけられる。
●一転したマツダのJリーグ参加
「川淵さんは早大の3年先輩。私が出向いて事情を説明した。すると、『マツ、おまえの会社はどうなっている! 社としての決定をすぐに覆すような会社なのか!』と怒られた。でも、『関西以西にひとつは欲しい』という本音を知っていた。すぐに広島本社の役員と川淵さん、協会幹部との会合をセッティング。それから話はスムーズに進んだ」
64年にマツダの前身、東洋工業に入社。サッカー部は地元出身者がほとんどで、入社時に県外出身者はわずか3人しかいなかった。
「栃木出身者には、広島は遠い“異郷”だった。広島気質にも、なかなか馴染めなかった」と述懐するが、今となっては「第2の故郷」である。
出身母体マツダのJリーグ参入は、もちろん大喜びである。(敬称略)
▽闘争心のない代表はプロではなく。ただのサラリーマン選手だ
http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25073
2007年3月24日 掲載
闘争心のない代表はプロではなく。ただのサラリーマン選手だ
●ボール回しは猿真似
83年11月。死傷者42人の「静岡・つま恋ガス爆発事故」に巻き込まれた。両手足を骨折し、全身の40%の皮膚がただれ落ちた。死線をさまよいながらも驚異的な回復をみせ、87年には「燃えてみないか、今を!」(ぱるす出版)を上梓した。
この中で当時の日本サッカーの現状について言及している。「中盤でボールを華麗に回しあうだけ。これはブラジルなどラテン系チームの猿真似に過ぎない」「機敏に動きながら速いボール回しで相手を翻弄する。この戦術的サッカーが日本には合っている」――。
06年ドイツW杯でジーコ日本は惨敗した。W杯後、オシムが日本代表監督に就いた。就任会見で「俊敏性、アグレッシブさ、技術。この特性を生かした“日本らしいサッカー”を目指す」と話した。20年前の「松本の思い」と符合している。
06年12月、Jリーグ監督会議で「ドイツW杯の3試合は見ていられなかった。選手に“戦う”心がなかった」と発言。さらに同席した反町五輪代表監督に、「06年アジア大会で北朝鮮に負けてしまった。選手から闘争心が感じられなかった。どうしてなのか」と問いただした。反町監督は「選手の闘争心を見極める大会でした」と答えた。
「国際試合は、国の名誉のために戦うもの。それなのに“見極める”もないだろう。そもそも闘争心のないサッカー選手がいるとしたら、彼らはプロじゃない。ただの“サラリーマン選手”。W杯で誰もが知っているスーパースターでさえ、勝つために必死の形相で戦っていた。ジーコ日本はどうだったか。出場32カ国中、最も“戦えないチーム”だった」
●「全力悔いなし」
Jリーグ監督会議で「W杯で勝てなかった責任は誰が取るのか」とも発言した。刊行間近の「天命 我がサッカー人生に終わりなし」(クリーク・アンド・リバー社)でズバリ、こう言う。
「ジーコは《自由》をベースにチームの指揮を執った。自由には義務と責任が伴う。ジーコは日本人に《自由》の意味を指導せず、規律のない《野放しの自由》が与えられただけ。ジーコの《個人の自由》に任された4年間は、日本に何をもたらすこともなかった」
65歳まで指導者を続けられた秘訣(ひけつ)は何か。そう聞かれると「24時間、常に選手と真剣に向き合ってきたから」と答える。
座右の銘は「全力に悔いなし」。50年のサッカー人生を振り返って「迷いも、悔いもない。サッカー人生は終わらない。鳥栖GMとして全身全霊を尽くす」と言い切る。
(おわり、敬称略)