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(回答先: 朝青龍連敗に騒然=影落とす八百長報道−大相撲春場所2日目 [時事通信] 投稿者 white 日時 2007 年 3 月 13 日 02:05:03)
□八百長考察 [EL PARQUE 〜Sports & Outdoor! 〜]
http://elparque.cside1.jp/sports/kon/pre_c7.html
八百長考察
ジャンル:相撲
さて、昨今、板井圭介氏(43、大相撲元小結)が、「相撲界には八百長がある」と外国人記者クラブで公表して話題を呼んでいますが、八百長というものは今に始まったことではありません。私は八百長という行為が絶対に間違っていると考えているわけではありませんが、ともあれその起源と経緯を探ってみました。なお、コラム3の「力士対戦の変遷と今後の展望」を参照していただくと、よりわかりやすいと思います。
1. 八百長の起源と大相撲の礎
相撲が公式的な行事となったのは、江戸時代中期、「力士」と呼ばれる強者たちが、各藩に抱えられ、藩の交流を目的に対戦したのが始まりである。
そこにおいて存在した、藩の力関係が今に言われる「八百長」の起源とされる。力の弱い藩の力士が、強い藩の力士に勝つことは、時と場合によっては許されないことがあり、そこで金や物を与えて、あらかじめ勝負の行方を決めておく、ということがあったという。
加えて言うのであれば、弱い藩にいながら、実力のある力士は、より高い褒賞を与えることを約束に、強い藩に抱えられる、といったケースもあった。そこで動いていたのはやはり、金銭や高価なものであった。
19世紀中頃には江戸幕府が崩壊し、藩という存在がなくなると、力士たちは途方にくれた。そこで時の権力者、とりわけ旧幕府にあたる者たちが動いて、東京市に設立したのが「東京大角力協会」である。これが現在の「日本相撲協会」の前身にあたる。
が、しかし、後ろ盾を失った「相撲」という行事は次第に小規模化し、その存在も希薄になっていった。その証拠に、明治元年(1868年)から明治30年(1897年)までの間、横綱はわずか5人しか出ていない。加えて、東京以外にも、大阪、京都に相撲協会が設立され、各協会ごとに「別物」として場所を開催していたのである。明治後期まで、その状態は続いた。
しかし、ある人物の登場で、「相撲」が、「行事」ではなく、「競技」というものになった。
2.「出羽海部屋」 黄金時代
板垣退助は無類の好角家として知られていた。大横綱として知られる太刀山峰右衛門(第22代)を相撲界にスカウトしたのも彼だし、「大日本角力協会」の援助も積極的に行ってきた。
その彼が東京市両国(現在の東京都墨田区両国)に国技館の建設を提案し、実行に移されたのである。今までは旧幕府の名残であった「土俵」で行われてきた相撲であったが、「相撲専用競技場」を作ることにしたのである。
それと同時に彼は、数字的な部分を整えた。
記録を公式化し、優勝制度を作り上げ、安定しなかった本場所の開催日数を10日と決め、現在の基礎となる形を作り上げたのだ。
そんな中で生まれてきたのが「出羽海部屋」である。
相撲の現在の制度の基礎が確立したときに第一人者として君臨していた常陸山谷右衛門(第19代横綱)は引退後、「出羽海」というちっぽけな部屋を継承し、まったくのゼロから弟子探し、弟子育てをはじめた。
そして板垣退助の死後、協会の大ボスとして君臨し、元横綱としての人脈の広さ(彼は認知した子供だけでも30人以上いると言われ、各地方に多くの親族、知人がいた)、豪放磊落なその性格、「御大」と呼ばれたカリスマ性で、出羽海部屋は瞬く間に角界ナンバー1の部屋となり、横綱大錦(26代)、栃木山(27代)をはじめとして、100人以上の幕内力士を輩出した。
そして番付の片側を独占し、実質は出羽海部屋が幕内の星勘定を支配するようになる。そこで再び「八百長」の色が再浮上してきた。 大正11年(1922年)の彼の死の前後から、今度は「出羽海と出羽海に取り入る者」と「その他大勢」という図式が濃くなり、激しい対立軸が発生した。現在の金銭の支払いや制度に不満を持つ出羽海勢と、西方の番付を独占し、好き勝手に勝敗を引っ掻き回していたことに対する不満を持つその他大勢。協会内で「高砂」という強い新勢力も発生し、いつ爆発するかもしれない状態で、本場所は開催されていた。 そんな中で翌年初頭、力士の待遇改善を求めて、横綱大錦をはじめとする出羽海勢が篭城事件を起こした。これが「三河島事件」である。
調停は不調に終わり、大錦は責任をとって引退したが、これが「八百長」の存在に大きく影響することになる。対立のおかげで、表立った八百長が減少したの だ。そして同年9月の関東大震災により、壊滅的なダメージを受けた「東京大角力協会」は、経営不振の続く「大阪大角力協会」と合併、「財団法人大日本大角力協会」とし、ようやく安定期に入ったかのように見えた。
しかし、東京場所と関西場所では別の番付とし、東京場所は東京場所での成績、関西場所は関西場所の成績で番付を作るなどの不条理が発生するなど、なかなか思うように軌道に乗らなかった。出羽海部屋は相変わらずの大所帯だったものの、玉錦(第32代横綱)や清水川(大関)といった、出羽海に対抗する勢力が生まれたり、常陸山の弟子と、次の出羽海である横綱常ノ花(第31代)の弟子という派閥が発生するなど、相変わらず問題は多く、加えて「天竜と武蔵山の大関昇進問題(先代の弟子である天竜を、次代出羽海の弟子である武蔵山よりも先に大関に上がるらせるべきだと盛んに八百長が行われていた)」で、武蔵山(後33代横綱)が天竜側から様々な妨害を受けたにもかかわらず、天竜よりも先に大関に昇進した。これは権力の強い出羽海と、協会とが生み出した対立軸で、これが後に大事件の発生につながる。
そこで起きたのが、昭和7年(1932年)1月6日に起きた「春秋園事件」である。出羽海部屋の関取が東京市外大井(現在の東京都品川区外大井)の「春秋園」に立て篭もり、協会に改革を迫ったのである。
しかしこれは建前で、実際は大関に上がれなかった天竜に、武蔵山偏重の協会に対する反感も相重なって同情が集まったことにより、「三河島事件」でも不調に終わった力士待遇改善を「ついでに」行ったものである。 果たして、交渉が不調に終わると、2月12日、関脇天竜(後解説者)、大関大ノ里をはじめとした出羽海部屋の西方力士、関係年寄などは協会を脱退、東方力士の一部も同調して脱退し、それぞれ「新興力士団」と「革新力士団」を設立し、双方で「大日本相撲連盟」を設立、協会はそれら力士、年寄を除名処分とした
ここに、中軸がもぬけのカラとなった「大日本大角力協会」は大打撃を受けたが、後年には天竜の高すぎる理想についていけない力士が相次いで帰参することとなり、まもなく廃れていった。
天竜と大ノ里はその後、満州の大連に渡り、細々と相撲興行を続けたが、大ノ里は現地で結核にかかって非業の死を遂げ(享年45歳)、天竜は戦後に帰国して、解説者を務めることになる。
ともあれ、「出羽海」という軸が一回抜けた以上、そこから帰参した力士に対する協会の扱いは極めて辛辣なもので、ここに出羽海黄金時代は終焉を遂げた。
3. 双葉山
「春秋園事件」で大量の関取が抜け、カラとなった番付。そこで協会に残った幕下、十両の力士が繰り上げで幕内に昇進した。その中に彼はいた。
彼の名は「双葉山定次」。後に相撲界全体を背負っていく人物である。
連勝を続け、事件で落ちた相撲人気が爆発的なものになるにつれ、いわゆる「スポーツマンシップとしてのライヴァル意識」が生まれるようになった。玉錦(二所ノ関部屋)と双葉山(立浪)、羽黒山(第36代横綱、立浪)と名寄岩(大関、立浪)、他にも照国(第38代横綱、伊勢ケ浜)や安藝ノ海(第37代横綱、出羽海)などがしのぎを削り、八百長などまったく囁かれなくなった。
しかし昭和21年11月の双葉山の引退後、出羽海とその他大勢という派閥は細分化し、立浪系統、高砂系統、出羽海系統、二所ノ関系統と、より複雑になり、そこでの派閥争いは激化した。とりわけ、出羽海理事長時代(元横綱常ノ花が昭和32年5月まで)は衆議院でその体制について審議されたり、問題の多い時代であった。
土俵の上ではというと、栃錦と若乃花の栃若時代が展開されるなど、華やかで、人情で負けてやるというようなことはあっても、あからさまで悪意のある八百長はほとんど展開されない、古き良き時代であった。
その様相が変わってきたのが柏鵬時代中期からである。
4.現代の八百長の方法論が露呈される
そもそもは昭和38年(1963年)9月場所、それまで3場所休場(うち2場所全休)していた横綱柏戸が、千秋楽に全勝同士で当たった横綱大鵬を一気に寄り切った相撲に対して、作家の石原慎太郎(現東京都知事)が新聞紙上で痛烈に批判したことがきっかけである。
「見る人間が見ればわかるよ、相撲協会さん。千秋楽の優勝決定、あれは一体何ですかね。中継のアナウンサーも、柏戸優勝と声を震わせて見せるのに苦労したろう。アナウンサーにまで芝居をさせるとは、協会も罪なものだ。
あの日、冷静で目の届くところに座っていたテレビ数百万の観客がいる。テレビというものの恐ろしさを相撲協会さん、あなたは考えたことがあるか。
協会は横綱までをよく飼い馴らしたつもりでも、観客を飼い馴らすことは出来ない。お前さんたちが千秋楽の土俵に上げた二人が大根役者なのはみんなが見て知っている。
大鵬君、北葉山(注、14日目、対大関)をもろくも土俵にひねりつぶした君の力が、なぜ柏戸に向かって全く出ずに終わり、あんなにもろくも敗れるのだ。人を愚弄するなと言いたい。八百長で保たれる横綱の権威なんてものは全体、スポーツとは何の関係もない。
あんな相撲がどうして国技なのか、あれが日本の精神ですか。尊い国歌をあんなつまらぬ八百長のショーの後にぬけぬけと歌わないでくれ。」
これが当時花形の作家の物言いということで、大反響を呼び、ひそかに内在していた八百長に対する議論がにぎやかとなったのである。
工作相撲が起こるケースとは、当時も今もいっしょである。十両や幕下に落ちるか否か、もしくは逆のケース、三役、大関、横綱、優勝などが絡んでくるとき、である。
簡単に言えば、前頭10枚目ほどで8勝6敗の力士と前頭13枚目くらいで6勝8敗の力士が千秋楽にあたる場合、前もって13枚目は10枚目にいくらかの金を払い、「星を買う」のである。これがいわゆる「注射」である。もちろん、別の場所で、13枚目が10枚目に返す機会があるときに返すのである。それが重なりに重なって八百長が横行し始めたのが昭和40年代の中頃である。
大鵬が衰え、しきりに星を買いに走ったことと、北の富士(現解説者、第52代横綱)と玉の海(第51代横綱)が台頭してきたことが主な要因だが、タニマチ(後援者)に強い者がいる北の富士は、実力は関脇並なのに、大関になる前からしきりに星を買っていたことは有名で、彼が軸となって、昭和40年代の相撲は八百長地獄に陥った。
そんな中で横綱玉の海はガチンコ(真剣勝負)で通し、やがて病のために早逝することになると、ますます八百長がはびこった。
表沙汰にはならなかったが、この時代に八百長が大きく拡大したことで、「見るものが見ればわかるよ」と石原慎太郎が言ったとおりに、観客動員は激減した。
昭和49年(1974年)7月場所に北の富士が引退し、北の湖(現北の湖親方、第55代横綱)が土俵に君臨するころにはそれほど盛んには「注射」が行われなくなっていたが、北の富士の弟子である千代の富士(現九重親方、第58代横綱)が台頭してからは、再び八百長地獄に陥った。
見てもわかるとおり、八百長の軸は九重部屋である。九重部屋は「高砂一門」に属し、ほかにも井筒部屋、高砂部屋、大鳴戸部屋などがあるが、そこを軸に昭和50年代後期から、平成初期にかけて八百長が展開されたという。
そこで冒頭に登場した板井(大鳴戸部屋)は、師匠(元関脇高鐵山)が北の富士の手先として八百長を仕切っていたこともあって、千代の富士の手先として八百長を取り仕切った。実力は相当なものといわれながら、小結どまりだったのはそのためだという。本人は言及していないが、八百長組の対立軸である藤島(現二子山)、三保ヶ関、放駒、時津風などの力士を痛めつけたらしい。
とりわけ板井が大乃国(放駒部屋、第62代横綱)をテーピングでグルグル巻きにした張り手で土俵に沈めたのは有名で、この頃は「千代の富士(か板井)に取り入るか否かで相撲人生が決まる」とまで言われた。
しかし、平成3年(1991年)5月場所の千代の富士の引退で一気に沈静し、さらにガチンコとして有名な二子山部屋の力士が土俵に君臨したことで拍車がかかり、現在に至っている。
ともあれ、板井氏が今頃になって「八百長」があったなどと大々的に言い出しましたが、私は現在は相撲自体のレヴェルが下がっているとしても、八百長の存在はほとんどなく、あるとしてもごく些細なものでしかないと思っています。とりわけ、ガチンコが上位を占めている現在では、幅を利かせようもありません。
力士は「プロ」ではなく、月給制の「サラリーマン」ですので、ほかの専門プロ選手よりもはるかに収入が少ないのが現状で、古くからの慣習で、弟子に大盤振る舞いをしたりするとはいっても、金銭的にそう余裕があるわけではありません。ですから星の売り買いも存在するのでしょう。力士は「相撲のプロ」というよりも、「相撲の商売人」なのではないかと私は思います。
ですから、星の売り買いは、相撲界で生きていくための「手段」であって、八百長、八百長と大仰に騒ぐ前に、その辺から議論を突き詰めていったほうが、より建設的でもあるし、実際に八百長があるとしたら、そのほうが追求しやすいのではないかと思います。
もちろん八百長が正当ということではありません。数百年も続く慣習(伝統ではなく)を排除するには、ただ現実を暴露して非難するだけでなく、相撲界の本当の仕組みも知っておかなければいけないでしょう。もし協会が「八百長はない」といえば、いくら証人がいても、あくまでそれは具現物ではない言葉であって、実際の証拠はないのですから、マスコミはよりこのことを追求したければ、もう少し相撲の歴史を勉強しなければいけませんね。<了>