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“共同主観は規範として見てこそ無視すべき複雑さ…共同性を問う前提が公的支配の使用価値”
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共同主観性が、たとえ学問的に厳格に規定でき、それが事実と対応していたとしても、
それが即ち、超市場的に何か特別な意味を持つかといえば、それは個別消費的な意味での、個人の生活上の、
(使用予想の)評価と、そして使用そのものでしかないのではないか、と思われる。
つまり、いかに「物凄い」事実が発見されようが、定説を覆して事実として確立できたとしてさえ、
「それ」と「普遍的価値」とは別問題であるはずなのだ。
もとより、その価値が場合によってでも、はたして価値として
普遍といえる(ことがある)のかということのほかに、
そもそも価値が普遍たりうるかという問題が控えているのだと思うが、
だとしたら「共同性という概念」は善悪の規範に「乗せられなくなる」かもしれないわけである。
つまり、善悪の問題を巡る「公的な命題」展開(…結論だけでも断定的に語られる思考や、
議論というもの)に、その概念を(特段の理由無く)用いることが禁止されるはずなのだ。
もし、共同という概念に価値が無ければ、事実として共同の可否や
成否・当否を問うことに、もはや何の意義も見出せないことだろう。それはあたかも、
「君の家の前の街路樹は、窓から見える範囲で何本あったか」と問うに等しいのではないか。
そのことが事実であれ、どうあれ、それ自体は規範とは関係しないはずであるから。
「共同主観性が、いかに、どう有ったか」に関わらず、「その価値」
「その概念を導入すること」「その概念を導入する価値」というものは、
すでに「主観性‥‥個別主観性に」支えられているはずだから。
規範であれば他者との関係(性)は問題となっても、
共同性を問題とすることは、規範を語る上で自明に不可欠ではないはずなのに、
それを巡る議論に「意義」があるかということが吟味される以前に、
そのようにして「価値あり」とすることが即ち、「主観」もしくは「主観価値」、「主観たる価値」、
「主観としての価値」、「主観の表れ出でたる主観としての価値」に支えられた、そういう「価値」であろうからである。
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これは実は、「驚くべき怖さ」を喚起する概念ではないかと思う、主観的に(笑) いかに議論をすり替え、フライングしてきたことか…。
共同とか、そういう形式を、自明に評価する特異性吸着こそが、主観でしかなかろうと言っているつもりなんだが。
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「彼ら」の議論らしきものは読んでないけれども、まるで“目に見える”かのようだ。
「君ら」読者と、そしてキャラ化け常連投稿者たち、特に、たまにくる投稿者が
僕のを滅多に開けないだろうことと同じように、僕もキャラ化け君らの
投稿は殆ど読まないわけだ・・・やはり読むと吐き気に近いものが催されるようである。
よく、そこまで歪めて書けるなと‥‥その「善人
ぶり」ぶりに、たまに読んでも、
うーんと後悔するわけだ(笑)
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