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客観的に物事を判断する当事者とは
<当事者とは>
ものごとを主観では評価せずに
あらゆる個人の主観として表明されたものを(知り得る範囲で)認識する
という事でそれら(個々の主観)をどのように総合的に評価するかという
第二段階のステージでの主観の立場では
当事者そのものが何を目的に、それら主権を評価するのかと考えてみる場合、
客観的な評価を下す当事者の客観的評価もまた主観的要素が含まれてしまう
と考えられるでしょう。
当時者の客観性とは、客観的主観のレベルと言えよう。
当事者(第二段階の)の客観的主観であるなら
多数の当事者の、各々の目標・目的・価値観により、そこで評価が分かれる。
分かれた客観的主観により評価する立場(それぞれの分野の指導的レベル)
に対して、そのままに存在は認めても、評価を下さない主観が存在する。
超党派・超宗派・超システム派というような客観的視点の存在(国民)がある。
第一段階の主観で現政権を支持してしまう多数派と少数の客観的立場がある。
このように第二ステージを客観的に見る第三の主観が存在している。
第二の客観的主観の立場は人数的には少数であるが、各々に組織で多数を維持している。
人数的に少数であるが、個々の目標・目的によって主観が分かれている。
第三ステージの主観が、方向を一定方向に定め得る価値を創造した時は、
客観的主観が客観性として、大勢を動かす流れが出来るが、
この客観性は、その時最善と思われる社会的真理であり進化が可能で、一歩
でも進化が進んだ時に大勢が動く。時間で刻々と変わる性質も含んでいる。
客観的主観から確かな客観性へと到達するまでは客観的主観の情況が続く。
最終段階の客観性で判断できるのは(主観者たるものは)
人間の創造者である自然界か。不変の真理の中では、人間はなす術もない。
自然界が目標・目的をきめているのかもしれない。
客観的に物事を判断し得る当事者とは五段階の自然界であろうか。
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以上では「個の主観」、個人の見方・意見など、思考するところの
存在(実在)というものを人間生命の第一ステージと折込み済み
というのは、既存の実在として認識した上での社会的展開です。
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個の見方・意見の存在(実在)は、否定しても存在している事実は変わらない。
個々人による、個の思考の段階で、既に自然界との共同作業が行われている。
思考能力を発揮する脳という器官は
人体に備わっている機能です。
人体とは自然界の創造物であり
その人体を使って思考することは
与えられた人体と、その機能を働かせる事であり
自然界が作業(思考)している事でもありましょう。
人体というものが存在していなければ、思考も生まれない。
存在が先で認識・能力(機能活用)があとです。
人間の存在を大切にする社会でないと、能力は育たない。
能力一辺倒の産業社会では、当然の結果として人類社会は崩壊する。
バランスのとれた社会制度が必要でしょう。
<当事者>の客観的主観による指導的立場は、
なにを目標・目的で評価するのかか分かれているために
複数の指導的立場が意見をだしあう議論の場が必要になっている。
主観で判断する一個人から客観的主観、第二,第三段階の客観的主観があり
第三ステージを客観性で主観的に評価する極少数が第4ステージを張っている。
第4ステージに問題が生じており、対立があり、知らず滅亡を選択しているもの
(権力を指し図しあやつる駄天使)
が優勢となって社会全体を混乱させて終りに向っているが。
(権力を指図しあやつるもの)
人類生命の創造主の自然界と近い位置にいる人たちという事であろうか
そして自然界の手に負えなくなった錆びた権威達を一掃できる方法は滅亡しか
ないと自然界が判断していたのかどうかは(主観としての意見でしかないが)
善悪も混在するこの人たち(第4のステージ)を最終的な評価で、目標・目的に
むかわせるのが自然界の力ではないか。
個の主観〜客観的主観、客観性,客観性の主観と辿ると自然界の主観へと
そして社会の一単位の個々の生命の主観(存在・思考)は、
自然界宇宙の機能と連動している。
自然界宇宙の機能と連動した人間生命の生存し得る
自然な人間社会のありようとは・・・、
現在、そこから、かけ離れた社会になって生きられない生命が
過半数を超えそうな勢いであり、殺しあっている。
自然界の創造力は、人類の滅亡を放置するはずはないと思う。
再生を決意しての滅亡ではないかと考察すしている。
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(以上、主観的観測ですが,)
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