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(回答先: 共同主観について一言! 投稿者 CCマーク 日時 2006 年 10 月 14 日 12:47:57)
4)"主体"の共同主観的自己形成
http://homepage1.nifty.com/office-ebara/philos.htm#共同主観
フェノメノンの二重性を発見した後、廣松氏は、今度は、主体の方に眼を向ける。
「フェノメノンがフェノメノンとしてあるのは、差し当たり誰かに対してである。今手元にペンが在るのは "私に対して" であり、子供が牛を見てワンワンだと言う場合、当のフェノメノンが『ワンワン』としてあるのはその子供に対してである。」(29頁)
「フェノメノンが "に対して" あるところの者、いわゆる "主体" の側がこのように『誰かとしての誰』という二重化構造をもつことによって、諸個人単独にはとうてい与えられないようなフェノメナが人びとに与えられることになる。普通の言い方でいえば、人びとは伝達された "知識" をもつようになる。人びとがフェノメナルな世界として現にもつところの "世界" は、その実、このような "伝達" をまってはじめて成立しているものである。」(30〜31頁)
廣松氏の言う「反省以前的な意識に現われるがままの世界」このフェノメナルな世界を意識している主体は個人である。個人の意識というこの命題の中に、個と社会性(意識)という二重性が含まれている。しかしここでも、廣松氏が注目するのは「"主体"の共同主観的自己形成」であり、個的であると同時に社会的な主体の自己形成のことである。
廣松氏は、この共同主観的に自己形成される主体の構造を、イデアールな誰か或る人がレアールな個々の主体に肉化するものと捉える。
つまりこうなる。フェノメナルな世界(精神現象、あるいは意識世界)の一つの項をなすフェノメナはイデアールな或るもの(意味)がレアールな所与において肉化した二肢的統一構造物であり、もう一つの項をなす主体は、イデアールな誰か或る人がレアールな個々の主体に肉化した二肢的統一構造物なのだ、と。▲目次