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(回答先: 共同主観について一言! 投稿者 CCマーク 日時 2006 年 10 月 14 日 12:47:57)
5 制度的現実としての自由
http://sonoda.e-jurist.net/text/ishijiyu.html
人間の意思や認識、行為や実践、これらは一般に考えられている以上に実は社会的文化的に規定されている。それらは、特定の社会構造においてすでに共同主観(社会)化されている。われわれが「自由に」「行為した」と信じているものも、実は社会的文脈においてのことなのである。
たとえば音声言語。物理的なものとしての音声は、人の肉体的構造によってある程度規定されている。人が発する音や生理的に聞くことのできる音には物理的限界がある。しかし、音声が言語として意味をなすためには何よりも文法というルール(規範)が前提とされなければならない。その国の言語をあらかじめ学習しなければ、声帯から発せられる物理的な空気振動を適切に言語として分節化することはできない。つまり、発話という行為が意味をなすためには、それに関係する者に文法というルールがあらかじめ共同的に主観化されていることが不可欠なのである。あえて言えば、ある国の言語を「自由に話せる」状態というのは、個人がその文法的ルールの全面的支配下にあり、そのルールの中に完璧に埋没している状態なのである。
生理的に支配されていると思われる食欲ですら、文化(すなわち共同主観化された制度)の問題である。日本人はタコの刺し身を見て食欲を感じるが、ある民族では食欲どころか嫌悪感すら生じる。われわれがタコを自由な意思によって食したとしても、それは文化的社会的に決定された選択なのである。人は食事という行為を通じて、肉体的生理的欲求を充足させるとともに、「食」にまつわる社会的文化的なさまざまな意味をも消化するのである。このことは(さらに本能的と考えられている)性欲に関してもよく当てはまるだろう(お歯黒の女性にセックスアピールが感じられていた時代もある) 。
このように考えると、自由であるか否かということは、物理的に決定されているか否かということとは別の次元で考えた方がよさそうである。自由とは、(社会的文化的に規定されている)行為の始動者となりうるということである、と定義してみよう。それは、その行為者を「主体性」や「人格」、あるいは「賞と罰」といった基本的な制度のネットワークの中に位置づけることに他ならない。われわれの肉体的動作は不断に他者によって意味づけられ続け、人は何層もの多重的な意味的空間において生きる存在となる。このような意味的空間のいずれかの次元において行為の始動者として他者によって承認される場合に、われわれはその限りにおいて自由であると言える。したがって、同一の人物がある局面では自由であり、他の局面では自由でないとされることもありうるのである(そして、多くの悲劇はここから生じる)。犯罪行為を犯す自由があったか否かも、刑罰が社会的制度である以上、このような多面的な自由を前提とするものでなければならないだろう。