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考え方を誤まると、心は空虚になるし議論は空回りしがちであり
何より自身の進歩が得られないものとなるでしょう。
そこで侑が見つけ出した「不変の方法」を一つ。
「事実をありのままに見る」
大切なのは、そこに“あるという事実”(存在により証明しているもの)を
そのままに認める事(認める行為そのもの)であろうかと考えます。
その事実(真実)にたいして、評価を下すのは各主観(立場の違う個々人)であること。
事実認識の評価は当然分かれるでしょう。
評価の違いを巡る論争は不毛です。
(時間にゆとりのある人はそれも楽しい部類の論争でしょう)
事実(あるいわ真実)を、ありのまま認めて干渉しない姿勢も貴重な立場でしょう。
否定しても肯定してもその事実は変わらないのですから。
事実に対し、90%の人がその事実はないと否定しても、
その事実はあるのであるから、否定に加われば結果的に同罪になるでしょう。
見方で事実の評価は分かれるものだから、
成否の論争より自ら事実(真実)を確認し見極める努力、
見極めた上でその根拠を展開する方法を取ればよいでしょう。
そして、すでに見極めている人がいるのかどうかも確認すれば、
すでに見極めた人たちと共に行動ができるでしょう。
裁判で「〜に誓ってあなたの真実を述べなさい」
というように社会的事件の一つ一つに事実があり
事実不確かな曖昧な判定を避けようと、事実が真実であることを
念押しで確認していく。社会的な事件にもその数だけ真実がある。
一般的表現でも、言葉の区別は重要。
事実は真実とも表現できるが
事実は真理とは表現できない
事実というものと、真理というものは同じ規準では測れない
事物をありのままに見る。
社会的な評価を下さない立場(主観をすぐに表現しない立場)も、
価値ある自己主張であり、無関心とは別の覚醒的存在証明ともなりましょう。
抜き差しならない過熱した論争場面で、孤軍奮闘者を守ってくれる力を
もっているのが、この覚醒的な頭の良い人々なのでしょう。
その事実(真実)に対して
真理から見ると、社会的にどうなのか
その判断が出された時、判断に合わせて
社会的に動けば波にのれる良い運動にもなるのではなかろうか
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