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http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=817219035より一部抜粋・転載。
島根大学法文学部助教授 植松 健一
(前略)それでは、「愛国心」を「大義のために、為政者に異を唱える心」と読み替えてみるのはどうか。
主君をいさめ刑死する臣たちを繰り返し描く史記や十八史略は、「反逆による愛国心」の意義を説く古典としても読める。
この「反逆による愛国心」から儒教的なものを除去した現代バージョンといえそうなのが、「市民的不服従」という発想だ。
現代を代表する社会学者J・ハーバーマスは、社会的な不公正を感じながら有効な是正手段を持たない市民たちの異議申立行動は、仮にそれが違法であっても(非暴力であることが前提だが)正当な場合があると説く。
民主的な法治国家においても、「法律に定められている」(legal)ことが常に「正当である」(legitim)とは限らないからである(『近代−未刊のプロジェクト』岩波現代文庫)。
これを市民的不服従と呼ぶ。
市民的不服従をどう処遇するかは、その社会の寛容さを測る「ものさし」となる。
最近の日本では、反戦や政府批判を説くチラシの配布は、住居侵入、威力業務妨害、国家公務員法違反などの罪で逮捕され有罪となってしまう。
被告たちの政治的異議申立はハーバーマスの言う市民的不服従であり、法律とそれを適用する側こその正当性が疑われる場面であるというのにだ。
職務命令違反による処分覚悟で「君が代」斉唱の指導を拒む都立高校の教員たちもまた、「良心の自由」を守るために市民的不服従を貫いている。
この五月に逝去された箕輪登・元防衛政務次官の手による自衛隊イラク派兵違憲確認訴訟も、首相の靖国参拝の違憲判断を求めて各地で争われている訴訟も「反逆による愛国心」の発露といえるのかもしれない。(以下略)