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映画「イオージマ」の頃の政局>「今一度戦果を上げてから」(昭和天皇)
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今一度戦果を上げてから
一九四五年二月戦局に不安を懐いた昭和天皇は、重臣(元首相たち)を次々に呼んで、対策を聞いた。東条英機のみは本土決戦を唱え、意気軒昂であったが、他の重臣たちはあいまいな言に終始し、天皇の決断を求めた。そのなかではっきりとこのままでは敗戦が必至として、講和交渉の即時開始を提唱したのは、近衛文麿であった。
近衛は、敗戦よりは敗戦に伴って起こる共産主義革命の方が恐ろしいとし、国体の護持のために即時講和を力説した。これに先立って近衛たちは、昭和天皇を京都仁和寺に押し込め、三人の弟のいずれかを後継天皇として、戦局の打開をはかろうとしていた。
近衛はグルー国務次官(もと駐日大使)などアメリカの一部の天皇家への尊重の空気を指摘しつつ、英米は輿論の国であり、このままでいけば国体そのものの存続が危なくなるとし、今講和に踏み切ることが最後のチャンスであると主張した。
しかし昭和天皇は「今一度戦果をあげてから」といって近衛の進言を退けた。近衛はそのような戦果は期待できないと食い下がったが、軍部の甘い情報を鵜呑みにしている昭和天皇は耳を貸さなかった。
http://www1.vecceed.ne.jp/~swtamura/minaosu24.htm
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最初に言ってしまうと、昭和天皇はこの時点(’45,02)頃には、不利な条件でも講和して体制維持だけするというつもりになっていたのではないか?と思います。
もう一点は、昭和天皇退位を画策した、あくまで国体護持であり、即事講和はその付随的な目標だったと考えます。
近衛ら講和派=降伏派も「一発クリーンヒットしてから・・・」という発想は持っていたでしょう。
その点が、異見ですが、その他の点では概ね事実だろうと思います。
後世からみれば、三年前のミッドウェー海戦が攻勢最終端でありました。大日本帝国は、対米英蘭開戦後半年で敗北の路についていたのです。