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躾と云ふ言葉、概念を忘れた者は、人で在る事を放棄するのみならず、
自ら進んで家畜以下の存在と成る。
衝撃レポート 家畜化する子供達
御尻が拭けない、朝食は布團の中で。
恐るべき事態だ。
ノンフィクション作家 石川結貴
「衣食足りて禮節を知る」と云ふ。だが、私が取材する子育ての現場では、「衣食足りず、
禮節を知らず、自立出來ない」子供達が統出してゐる。
衣食が足りないとは意外に思はれるかも知れない。ブランド品から激安衣料まで溢れん許り
の服があり、一日三食だけでなくスナック菓子やペットボトル飮料等、何時でも何處でも食べ
放題、飮み放題の時代だ。
住の方も附け加へれば、其の環境は快適に成る一方だ。エアコンや牀煖房、温水便坐式トイ
レに火を使はないIHクッキングキングヒーター。エアコンは自動温度調節だし、便坐の蓋や
水はセンサー式で反應する。IHクッキングヒーターでタイマーセットしておくと、例へば御
湯の沸騰を感知して「御知らせ」して呉れ、同時にヒーターも止まる。子供の生活からは不便
や不自由が消え、衣食住、全て滿ち足りた状況と云つても過言ではない。
ところが、其の實態を丹念に見て行くと、本來の「育ち」を與へられない儘、寧ろ奪はれて
いく現實が浮き彫りに成る。
まづは、衣である。大量の服や靴を持ち、アイドル竝みに着飾る子供も珍しくないが、實は
肝腎の事が足りない。服を脱ぐ、着る、疉むと云つた行爲が出來ず、要するに服は有つても、
其れをどう身に附ければいいのか知らないのだ。
例へば、小學生に成つても釦が嵌められない。トレーナーやTシャツなど、伸縮性素材の服
許り着てゐるせいもあるが、抑も親が「釦の嵌め方」を教へないのだ。
釦を嵌めるには、指先の微妙な使ひ方を覺える必要がある。其れには何度も繰り返し教へ、
襃めたり叱つたりし乍ら時間を掛けなければならない。だが、かうした家庭教育は今の親に
とつて「面倒でストレスが溜まる」事だ。根氣よく、少しづつ、「子供が一人で出來るやうに
成るのを待つ」くらゐなら、釦の附いてゐない服を着せた方が簡單か、さもなくば親の方でサ
ッサと釦を嵌めた方が早い。
同じ事は、紐の結び方、ファスナーの噛み合はせ、服の前後ろや裏表の見分け方、靴の左右
の違ひ、等にも云へる。紐の結び方を知らない子供は、何時までたつても紐靴が履けないが、
心配無用(?)、今はマジックテープ式の子供靴が主流である。
服の前後ろや裏表を教へられてゐないから、「後ろ前」や「裏返し」と云ふ言葉を知らない
。取材先の子供に、「靴下が裏返しに成つてるよ」と注意してもキョトンとする。幼兒なら兎
も角、小學生に成つても着替えは親任せの子供さへゐる。脱いだ服は疉めず、グチャグチャの
放り投げ状態だが、親はロ先で叱りはしても、其の疉み方、整理整頓の大切さを教へない。抑
も今、家庭内から「疊む」と云ふ習慣が減つてゐる。
子育て中の若い家庭では殆どがベットを使つてゐる爲、まづは布團を疊まない。乾燥機能附
きの洗濯機が普及し、乾いた衣服を取り出して其の儘着る事にも抵抗がない。箪笥や押し入れ
への收納より、クローゼットやハンガー式のパイプラックが人氣で、疉むより「吊るす」方が
主流に成つてゐる。
ファッションセンスに拘る母親達は、Tシャツ一枚が一萬圓もするやうなブランド子供服を
着せたり、「モテ服コーデ」と云つて、周圍にモテる、人氣を集めるやうなコーディネートに
腐心する。だが、其の内實は御寒い限り。出來ない事を「教へよう」とするのではなく、出來
ないなら「しなくても濟む方法」を與へていく ー 此れが、衣に對する親の考へ方なのだ。
蛇口を捻れない
だが、親の庇護の元を離れ、幼稚園や學校等の集團生活に入れば、子供は「出來ない自分」に
直面する。問題は衣に留まらず、特に最近の傾嚮として、手が使へない子供が増えてゐる。
東京都の私立幼稚園では、夏休みを利用して水道設備の改修工事を行つた。舊式の蛇口から
レバー式に替へたのは、此處數年、入園する園兒が蛇口を捻れなく成つてゐたからだ。同園に
勤務する女性教諭(三十三)は、困惑し乍ら云ふ。
「蛇口を捻れないだけではありません。御辨當には御箸でなくフォーク持參の子が殆どだし、
折り紙や切り紙等も年々苦手に成つてゐます。ボール遊びをさせると、投げるのは出來ても受
け取れない。腕と胸でガッチリ抱へるのよと教へても、指先だけで?まうとして突き指する事
もあります。中には、手を附かずに跳び箱を跳ばうとする子、前轉をしても旨く手が出せず頭
だけで廻らうとする子もゐるくらゐです」 リズム體操で手足の動きが合はせられなかつたり
、「使へない」とは少し違ふが、子供同士で手を繋ぐのを嫌がるケースもあると云ふ。
其れでも小學校に入れば、成長に應じて出來る事は増えるが、反面では手が使へない場面も
また増える。紐が結べず、紐靴が履けないと前述したが、例へば運動會なら二人三脚で互ひの
足が縛れない。競技に成らない爲、紐の代はりにマジックテープを使用する小學校もある程だ
。ゼッケンや順位リボンを留める安全ピンが使へず、針を指に刺してしまふ。握力が無いのか
、其れとも根性が無いのか、綱引きの綱は「手が痛い」と言つて強く握りたがらない。
授業中にも、樣々な異變が生じてゐる。高學年に成つてもコンパスが使へず圓が描けなかつ
たり、ノートの升目内に字を書くだけで「疲れる」と訴へる。リコーダー(縱笛)の演奏は穴を
指で塞がなければ出來ないが、何故か指の動きが非常にぎこちない。ピアニカは、「重い」と
云つて持ちたがらない爲、專用の演奏臺を使ふ學校もある。家庭科の裁縫では、簡便な「キッ
ト」を使ひ、説明書通りに作ればいいやうに成つてゐるが、針に絲が通せない、布を眞つ直ぐ
に切れない等、授業時間内ではなかなか作業が進まない。ワンプッシュ式の蓋やプルトップの
罐に慣れてゐるせいか、工作の螺子が囘せなかつたり、罐切り、栓拔き等は全く使へない、と
云ふか知らない。
千葉縣の公立小學校で六年生を擔任する男性教師(四十四)は、兒童の宿泊研修先でこんな現
場を目撃してゐる。
「入浴の時間、服を疉んでないのはもう仕方ないとして、ふと風呂場での樣子を見たら前しか
洗つてない子供が何人もゐる。ちやんと背中も洗へと言つても、背中に手を囘せないんでず。
當然、體も拭けないまま上がつて來るので、脱衣所は濡れ放題。持つてるタオルで牀を拭かせ
ようにも、其のタオル自體、全く絞れてなくて水が滴り落ちてるんですから……」
人類は手を使ふ事で進化したと云ふのに、此れでは退化ではないか。尤も、テレビゲームの
コントローラーやパソコンのキーボード、携帶電話の釦は目にも止まらぬ速さで操作出來る譯
だから、單純に「退化」とも云ひ切れないのか。
男性教師は、「思ふに、子供達は働く手が育つてゐないんですよ」と云ふ。勉強が出來たり
、機械類の操作は上手でも、暮らしに必要な手の使ひ方が分からない。手作業、手作り、と
云つた生活上の手が育たないだけでなく、「手を合はせる」とか、「手加減する」等と云ふ
lb面、心の成長の方が、寧ろ退化と呼べるのかも知れない。
鹿尾菜、切干大根は「蟲だ!」
食もまた悲慘な状況である。飽食の時代、何處の家庭も食べる事其の物には困らない。だ
が、子供達は食べ物や飮み物の、本來の姿を知らずに育つてゐる。
例へば、お茶。私も取材先でよく御馳走に成るのだが、今は大抵ペットボトルでポンと出
される。聞けば、急須も湯呑みもお茶葉もない。さうした家庭で育つ子供は、「お茶とは葉
に湯を注いで出來る飮み物」だと知らないし、湯呑みと云ふ「食器」を使ふ事さへ覺えない。
お茶は冷やして飮むのが普通、と勘違ひしてゐる事もある。
野菜は、「洗ふのが面倒」「無駄が出る」「價格が安定してゐる」等の理由で冷凍食品や罐詰が
人氣だ。ほうれん草、牛蒡、人參、南瓜、里芋、ピーマン、椎茸、刻み葱に至まで、冷凍食
品を利用する母親も珍しくない。少人數家庭では、サラダパックやカットフルーツ、各種鍋
セット等を利用する事も多い。豫め洗滌され、綺麗にカットされ、封さへ切れば直ぐに使へ
る野菜や果物しか食べた事が無い子供達は、土や樹、畑を聯想し、季節感を知るどころか、
其の原形さへ分からない。
東京都の公立小學校で四年生を擔任する女性教師(三十九)から「給食のデザートで干し芋
が出た時、クラス全員が食べ物だと信じなかつた」と云ふ話を聞いたが、家庭の現状を考へ
れば少しも不思議な事では無く、寧ろ納得してしまふ。鹿尾菜や切干大根等の乾物類を見て
「蟲だ!」とパニックに成る子供もゐたと云ふが、恐らく生まれて此の方初めて目にした食
材なのだらう。
肉や魚を調理出來ない母親も増える一方だ。肉を切るのが怖い、肉を捏ねると手がベタベ
タするから嫌、等と話す母親達が、一方では「ウチの子は御肉が大好物」と云ふ。よくよく聞
くと、「燒肉、ハンバーガー、フライドチキン」で、成る程調理要らずである。
魚は刺身と切り身と干物だけ、そんな家庭が多いが、中には「兔に角魚が嫌いで賣り場の
前を通る事も駄目」と云ふ母親がゐる。ぢやあ子供には魚を食べさせないの?と尋ねると、
いいえ、食べさせてます、さう胸を張り、「ツナ罐」と答へるのだ。
最近では、御飯を炊かない家庭迄ある。理由は「節約」で、御飯を炊くより、百圓ショッ
プでホットケーキ粉やパスタを買つた方が安いから、と云ふのだ。御飯にはお菜が必要だが
、ホットケーキならシロップをかける程度で「十分イケる」と、其の食生活が如何にも自慢
話のやうに語られる。
取材した家庭の一つに、適々幼稚園に通ふ子供がゐた。母親(二十八)に、「御飯を炊かな
いで、幼稚園の御辯當はどうしてるの?」と尋ねると、「ああ、御辨當にはコーンフレーク
を持たせてます」、さう平然と云ふではないか。
「幼稚園では御辨當の時間に牛乳が出るんですね。其れをコーンフレークにかけて食べれば、
榮養ばつちり。子供は飯事み度いな感覺で喜んでるし、我乍ら良い考へだなあと思ふんです」
要するに彼女は、「コーンフレーク辯當」が恥づかしいどころか、白慢なのである。無駄
が出づ、作る時間も手間も要らず、其れでゐて榮養的には優れてゐる譯だから、かうした食
事を子供に與える事に「積極的」なのだ。
當初は、流石にレアケースだらうと思つてゐた。だが、一日に約百五十組の母子が訪れる
都内の育兒支援施設を取材すると、同施設の所長(四十五)はかう歎息した。
「ウチの施設では御辨當持參で遊びに來る母子が多いのですが、最近はゼリータイプやビス
ケットタイプの榮養補助食品の人が増えましたね。給湯室に粉ミルク用の御湯を用意して有
りますが、其れを使つてカップラーメンを食べる人もゐる。御飯とレトルト食品を持つて來
て、職員に『電子レンジで温めて下さい』と頼む人迄ゐます」
また、此の施設では母親達の間で屡々「キワモノ系食事」が話題に成る。御飯の上に駄菓
子のソースカツや酢烏賊を載せ、マヨネーズをかけて食べる「駄菓子丼」。鰻や燒肉、照り
燒き風味等の「タレだけ」を御飯にかけて食べる「タレ丼」。遊び心でやつてゐる部分もあ
るだらうが、其れにしても御飯とタレだけと云ふ獻立が、果たして食事と云へるものなのか。
實際に「タレ丼」を食べてゐる母親に話を聞くと、「下手に具を載せても子供が嫌がるし
、タレだけでも十分美味しい」と云ふ。何でも「感覺的にはつゆだく(牛丼店で出されるタレ
がたつぷりかかつた牛丼)に近い」さうだ。「でも、御飯とタレだけぢや、榮養が心配でしよ?」
と尋ねると、「だつて、サプリメソト使つてるから」と餘裕で笑ふ。
子供達は、慥かに食べてはゐる。御腹が滿ちる、榮養が足りる、と云ふ意味では、十分すぎ
る程かも知れない。だが、心が滿ちると云ふ點に於は、明らかに足りてゐない。食に對する基
本的な智識、食を通じて得られる樣々な體驗は急速に失はれ、食べ物を味はふと云ふより、た
だ詰め込んでゐるやうな氣がして成らない。
もう一つ、食に關して私が着目するのは、「食べる形」である。此のところ、朝食を食べ
ない家庭が話題になつてゐるが、取材する範圍では少なくとも何等かの物を食べてはゐる。
問題は、食べ方、食べる場所で、例へば「朝食は布團の上」と云ふ家庭がある。
「幾ら子供を起こしてもグズグズしてゐるから、パンとコーヒー牛乳をベッド迄運んでます
」と話したのは、小學二年生の男兒を持つ母親(三十五)だ。子供は布團の上で着替えをし乍
ら、同時に朝食を濟ますと云ふ。「ベッドや布團が食べこぼしで汚れる」事には「困つちや
ふ」と顏を顰める母親だが、食卓に就くと云ふ基本的な躾が出來ない事への反省は見られな
い。
三歳女兒の母親(三十四)は、「朝は私が起き度くないので、前夜から枕元に子供用のお握
りを用意しておく」と云ふ。彼女もまた、「色んな所がベタベタになつて嫌だ」とし乍ら、「
でも、私自身が布團に入つた儘食べるのが好きなんですよね。獨身の頃からの癖もあつて…
…」と屈託がない。
病氣でも無いのに、寢る場所と食べる場所を一緒にして平氣な母親達は、「立ち食ひ」や
「歩き食べ」にも躊躇を見せない。キッチンカウンターで立つた儘朝食を濟ます事や、登校
中に歩き乍ら菓子類を食べさせる事を「樂ワザ」だと話す。「手拔き、樂チン家事の裏ワザ
」、略して樂ワザだ。
樂なら何でもアリ、と云ふ考へ方は朝食に限つた事では無い。取材先では、「牀食ひ」、
「ソファー飯」といつた奇妙な言葉が出現してゐる。「牀食ひ」と云つても、無論牀を食べ
るのでは無く、牀に直接食事を竝べて食べる事を意味してゐる。要するに、食事の時卓子を
使はないのだ。
「牀食ひ」の母親達に理由を尋ねると、殆どが「暖かいから」と答へる。牀煖房が普及した
爲、牀に御尻や足をぺたんと附けて坐り乍ら食べた方が快適、だからと云つて坐卓を使ふ事
は、「ダサイ」と云ふのだ。一方「ソファー飯」の方はソファーに坐つた儘食事する事を云ふが
、矢張り卓子を置くのは敬遠されてゐる。代はりに鎭坐するのは、大畫面テレビ。迫力ある
畫面を見乍ら食事をし度いが、「インテリアの調和を考へると卓子は使ひ度くない」のだと
云ふ。
かつて、「食卓が消えた」と云へば、家族で食卓を圍む一家團欒の光景が無くなつた、と
云ふ解釋がされただらう。だが今の家庭では、食卓其の物がないか、あつても使はないと云
ふ、文宇通り食卓が消えつつある。其れは單に形が消えたと云ふだけに留まらず、食に對す
る「禮節」の消滅と云へるだらう。
かうした現状を舉げると、決まつて「だから最近の親はダメなんだ」とか、「親をどうに
かしろ」といつた意見が噴出する。無論、親の在り方を檢證し、其の資質を高めていく事は
最重要課題と云つていい。だが一方で、現實の家庭の問題は、「親をどうにかすればいい」
程度で解決する域をとうに超えてゐる。
最初に、子供の生活から不便、不自由が消えてゐる、と書いた。例へば最新式のトイレな
ら、ドアを開けるだけで點燈、換氣扇が作動し、便坐の蓋が上がる。便坐は何時も温かく、
用を足したら、温水のシャワーや温風が御尻を綺麗にして呉れる。消臭や脱臭、殺菌等の清
潔機能も備はる。終はつて立ち上がれば勝手に水が流れ、便坐の蓋が下りる。
假に、此れだけの設備がある家庭なら、自分でやる事はパンツの上げ下げくらゐのものだ
らう。場合によつてはそれさへ、召使ひよろしく驅けつけて手を貸す母親がゐる。
自分のカを使はなくても何の不白由も無い生活の中で、子供に「教へる」、「出來るやう
にさせる」事はさう簡單ではない。洋式トイレしか知らない子供に、和式トイレでの排泄方
法を教へるには、スーパーや公共施設等で和式トイレを探す事から始めなくてはならないの
だ。和式での排泄を「練習」させようにも、芳香劑やキャラクター柄のトイレマットが無い
トイレを、「臭ひ」「怖い」と拒絶する事は少なくない。宥め透かして何とか排泄方法を教へ
たとしても、家庭のトイレが快適である以上、子供はかえつて外のトイレの不快さを感じる
だけかも知れない。
御尻が拭けない?
實際に、學校生活の場では排泄を巡るトラブルが多發してゐる。例へば幼稚園のトイレは
、事故防止の爲ドアが通常の半分程の大きさで、上下から内部が覗ける構造に成つてゐる。
最近の園兒はかうした構造を、「誰かに見られさうで恥づかしい」と訴へる。トイレの前に
下着を脱ぐ、終はつたら穿く事を白分でせずに、誰かがやつて呉れるものと思つてボーッと
立つてゐたり、ウンチをした後で「拭ひて」と御尻を突き出す事もある。「潔癖症」とも云
へる程神經質な子供も増えてをり、少しでも匂ひのするトイレには入れない、大量のトイレ
ットペーパーを使つて繰り返し御尻を拭かないと氣が濟まない、等のケースもある。
また、小學校で目立つやうに成つたのは、低學年男兒の「御尻丸出しオシッコスタイル」
だ。ズボンの前チャックだけを開けて用を足す方法を取らずに、ズボンとパンツを膝迄下げ
てしまふ。男子用の小用便器ではなく、個室トイレしか使へない兒童も増えてきた。
女子の方は洋式便坐に直接御尻を着けて坐れない。「冷度くて嫌」と云ふ理由もあるが、
其れ以上に、知らない子供と共用する事への抵抗感が強いと云ふ。だからと云つて、和式で
は上手く便器を跨げず、下着を汚してしまふ事もある。
「マイペース」で排泄に時間をかける爲、休み時間内にトイレから戻らなかつたり、授業中
にも關はらず無言でトイレに行く兒童もゐる。きちんと水を流さず、手の空いた教師がトイ
レを廻り「後始末」するケースも少なくない。
手が使へない事や、食を知らない事、そしてトイレトラブルに至るまで、樣々な要因が複
雜に絡み合ひ問題化してゐる。一度便利に、快適に成つたものを後戻りさせる譯にはいかな
いし、親の躾や家庭教育に期待するのも無理がある。幼稚園や小學校での指導にも限界があ
り、「誰が惡い、何がいけない」と犯人探しをするだけでは何も解決しないだらう。「食育
」、「體驗學習」、「生きる力」等と掲げられるスローガンは、どれ程の現實性があるもの
なのか。現状を踏まえての可能性を採らなければ、所詮、繪に描いた餠のやうなものだ。
ところで、體驗學習と云へば、最近こんな話を聞いて苦笑した。埼玉縣の公立小學校に六
年生の男兒を通はせる母親(三十九)が、「子供の林間學校が變な事になつちやつて……」と
云ふ。
「林間學校では、飯盒炊飯の體驗學習をするんですね。薪で火を熾し、飯盒で御飯を炊き、
カレーを作ると云ふのが毎年恆例でしたけど、今年から御飯だけを炊く事に成つたんです」
火を熾すどころか、マッチさへ見た事が無い子供達である。米の研ぎ方を知らず、疱丁の
使ひ方も分からず、右往左往する許り。限られた時間内での調理はもう無理、と判斷した學
校は、今年から飯盒で御飯を炊く、だけの體驗學習に切り替へた。カレーの方は、何とレト
ルトが使はれたと云ふのだ。
學校側にしてみれば苦肉の策かも知れないが、「其れにしてもねえ……」と困惑して數日
後、別の取材で會つた東京都の母親(四十二)に此の話をした。てつきり驚かれるかと思つた
ら、彼女は笑ひ乍らかう話す。
「此の前、六年生の娘の林間學校があつたけど、ウチの學校は埼玉のケースとは反對ね。詰
り、カレーのはうを作つて、御飯は家から炊いたものを持參するの。御飯を炊かないで、飯
盒炊飯と云へるのかなあと思つたけど、まあ何處でも似たやうな状況に成つてるのねえ」
二人の母親の話から考へれば、體驗學習は有名無實と云つていい。だが、別の云ひ方をす
れば、學校にせよ、家庭にせよ、子供に眞の體驗を與へる事の難しさを見せ附けられる。エ
アコンやIHクッキングヒーターが備へられ、家庭内では「火」を見ない子供に、火を熾せ
と教へたところで、「未知との遭遇である。」恐らく數年後には、調理本にある「強火」や「と
ろ火」を見た事が無い子供が現れるだらう。
壯絶な「お受驗」用、躾
最早子育ての現場は總崩れ状態と悲觀し無いでも無いが、實はかうした現状と對極を行く
ケースがある。有名小學校受驗を日指し、子供の躾と教育に執心する「お受驗」家庭だ。
「お受驗」と聞くと、どうしても猛勉強と云ふイメージを持たれるだらう。無論、猛勉強は
する。幼兒教室と呼ばれる受驗專門塾へ通ひ、家庭教師を附け、一日の休みも無く勉強する
子供が殆どだ。だが、其れは漢字を覺える、數式を解くと云ふ類のものでは無い。抑も小學
校入學前の子供は、飽く迄も字が書けない事が「前提」である。
各小學校で若干の違ひはあるが、小學校受驗には、「ペーパー」と呼ばれる紙に解答を書
き込むテストの他に、行動觀察(着替え等生活面での躾を見る)、實技(運動や手先の器用さ
を見る)、面接等の科目がある。前述したやうに、字が書けない事が前提に成つてゐるから
、「ペーパー」のテストは、「○を附けなさい」とか、「― で結びなさい」等と出題される。一
見、簡單なテストのやうに思へるが、實際には非常に難しい。
ごく「初歩的」な例を舉げれば、「クレヨンを使つて、信號機の色を塗る」問題。赤、青、
黄色は誰でも分かるだらうが、其の配列が正しく答へられるだらうか。繰り返すが、此れは
ごく初歩的な間題であり、解答を求められるのは小學校入學前の幼兒である。
五年前に長女の、そして二年前に次女の小學校受驗を體驗した東京都の母親(四十)は、
「ズバリ、お受驗とは子供の『育ち』を判定するもの。其の爲には親の躾が出來てゐるか、
そして子供に濃い生活體驗をさせてゐるかに盡きる」と話す。
まづは、躾である。挨拶の仕方、言葉の使ひ方、歩き方に坐り方、等の「禮節」は序の口
で、例へば「おやつテスト」なるものがある。子供におやつの食べ方を繰り返し練習させる
のだ。
「たかがおやつと馬鹿にしたら大間違ひです。御煎餠に牛乳と云ふおやつだつたら、まづ御
煎餠を袋に入つた状態で一口サイズに割る。かうすれば滓が飛び散らず、上品に食べられま
すからね。同じやうに牛乳も、紙パックから適量をコップに注いで靜かに飮む。最後に空き
袋とコップを片附け、臺布巾でテーブルを拭ひて終はりです」
此の一聯の動作を、四〜五歳の子供に教へ、「完壁」に身に附けさせる。表面上、上品に
おやつが食べられれば良いと云ふ話ではなく、何故上品に食べる事が大切なのか、其處迄子
供に理解させなくてはならない。其の爲、昔話や童話、偉人の傳記、場合によつては「母親
自作の紙芝居」等を通じて根氣よく躾るのだと云ふ。
「お受驗」態勢の時の彼女は、毎朝子供を起こすと同時に、ストップウォッチを手にしてゐ
た。トイレ、洗面、着替え、食事、全てに制限時間を決めて、時間内での行動を嚴守させる
爲だ。洗面中でも、着替え中でも、彼女は子供に「今日は何の日で、どんな行事がある」等
とひつきりなしに話し掛けていたが、此れらは全て「濃い生活體驗」を意識してのものだつ
た。
「食卓に胡瓜を使つた料理を出したとしたら、胡瓜は何時の季節の野菜で、どんな風に花が
咲き、どう實るのかを教へる。言葉だけでは體驗にならないから、八百屋さんの樣子を見た
り、郊外の畑まで聯れて行きます。其れも家の車で行くのではなく、態々バスや電車を使ふ
んです。バスなら停留所の樣子、乘降の仕方、タイヤの本數や窓の位置等を勉強出來るし、
電車なら切符の買ひ方、改札やプラットホーム、吊革に車内廣告と、澤山の事が『實體驗』
として覺えられます」
同じやうに、動物だつたら圖鑑だけで教へるのではなく動物園へ聯れて行く。花ならプラ
ンターに種を蒔き、水をやつて、其の生長を毎日觀察、繪日記にする。火や煙なら七輪を贖
入して炭火を熾し、炎の樣子や煙の棚引く具合を見せ乍ら、熱さを實感させる。生活體驗の
中身は成る程濃い、そして相當凄まじい。
尤も彼女に云はせると、「私なんか未だ甘かつた」。より熱心な家庭では、例へば「御正
月」を體驗させる爲、驚く程の努力を惜しまないと云ふ。
「御節料理や御屠蘇、門松や御飾りを用意する位なら普通のお受驗家庭でも出來ますが、凄
い人に成ると、態々杵と臼を贖入して、家で餠突きをするんです。其處迄しないと、子供に
は御餠と云ふ食べ物、御正月と云ふ行事が本當に理解出來ないからと。お受驗に無關係な人
が聞けば仰天話かも知れませんが、何とか子供を合格させ度い、有名小學校に相應しい子に
育て度いと願ふ親にとつては、羨ましい話。ウチも其處迄遣らなくては、と一層氣合が入る
んですよ」
詰り努力とは、經濟力や體力、精神力等、親の綜合力の事である。特に經濟力は「お受驗
」の必須條件で、其の對策總費用は一人の子供に附き三百萬圓とも五百萬圓とも云はれる。
正確な金額が示せないのは、先に舉げたやうに各家庭によつて「何處迄遣る」が違ふからだ
。因に彼女の場合は、長女に總額約三百五十萬圓、次女の時には多少要領が良く成つて約二
百五十萬圓を掛けた。此れは、飽く迄も「お受驗」の費用であり、無事に合格してからの教
育費は一切含まれてゐない。
家畜やペットにも劣る
多額の費用と、壯絶とも云へる努力を續ければ、慥かに躾の行き屆いた子供は育つ。幅廣
い智識や體驗を持ち、衣服の正しい疉み方、品の良いおやつの食べ方、美しい御辭儀の角度
迄身に附ける事が出來る。
だが、かうした形の躾は、矢張り「特例」と云はざるを得ない。文部科學省によると、今年
の小學校入學者數は全國で約百二十萬人。此處内私立小學校へ入學した兒童は一萬三千人程
で、全體の僅か一パーセントでしかない。但し、東京都に限ると約五パーセントに達してゐ
る。有名私立小學校が集中する區内では二十パーセントを越える場合もあると云ふから、一
極集中型の、特別な家庭での話に成るだらう。
一體、子供の「育ち」とは何なのか、さう考へざるを得ない。一方では、基本的な生活習
慣さへ儘ならず、冷凍食品やインスタント食品を只御腹に詰め込んでゐるやうな子供がゐる
。また一方には、完壁な迄に躾られ、多くを與へられる子供がゐる。
一見、「經濟格差」の見本のやうだが、呆たしてさうだらうか。
釦を嵌められない子供は、釦の附いてゐないブランド服を持つてゐる。牀食ひやソファー
飯をする家庭には、牀煖房の設備や大畫面テレビが有り、決して貧しくはない。食事マナー
に無頓着な母親の殆どは其れなりの學歴を持ち、父親はごく普通のサラリーマン。云ふ成れ
ば、中流の家庭で、「禮節を知らず、自立出來ない」子供達が育つてゐる。
他方、お受驗家庭には、一部「良家」、「老舖組」等と呼ばれる上流家庭はあるが、尤も
熱を入れて取り組むのは中流家庭と云ふのが常識だ。無論、中流と云つても經濟的な餘裕が
ある中の上クラスだが、中流だからこそ「意識だけは上流」を目指すのだと云はれる。
詰り、中流の中で分斷が起きてゐる、と私には感じられる。同じやうな價格のソファーを
贖入出來る經濟力の家庭が、ソファー飯派とソファー上品使用派とに分かれ、結果的に子供
の「育ち」が大きく違つて來るのは何故だらう。
敢へて云へば、親の意識の差が考へられる。白分が樂をし度い、自分の都合を優先させ度
いと云ふ親は、子供の育ちについ無意識のまま、「樂なら何でもアリ」と云つた姿勢で日々
を過ごす。實際に、幾ら手拔きをしても十分暮らして行ける便利な物が溢れてゐて、親は自
分の無意識、無頓着に氣附かない。
だが、自分の子供を「出來る子」「優秀な子」にし度いと熱望する親は、意識的に子供を躾、
其の育ちを徹底して管理、干渉する。
云はば、放任主義對監督主義と云つたところだが、どちらにしても子供達は、本來の「子
供らしさ」を奪はれてはゐないか。畑に實る野莱を想像さへ出來ない子供は慥かに食に恵ま
れてゐないが、だからと云つて其の産地や葉の樣子迄勉強しなくてはならない子供は、心か
ら食を樂しみ、味はへるものだらうか。
云ふ迄もなく子育てとは、人間の基礎を育む場、掛け替えの無い時間である。物を與へる
だけ、技を仕込むだけで育てた氣に成つてゐるなら、其れは家畜やペットにも劣る事だらう。
「誰でも出來て當たり前」と考へられてゐた子育ては、昏迷の中にある。其の背景は複雜、
原因は多岐に亘るものであらうとも、結果を負はされるのは唯一つ、子供達に他ならない。
「下層教育に與へる教育は尤も貧弱な質にとどめよ」(!!)
(『沈默の兵器』、より)
更新 平成18年12月14日23時42分
平成十八年(二〇〇六年)十二月十四日(木)
(第一千八百九十四囘)
○以下に
「沈默の兵器」(太田龍著、データーハウス、一九九五年刊)
七十七、八頁、から引用する。
○ 「全面的に豫測可能な經濟を達成するためには、社會の下層
階級要素を全て統制下に置かねばならぬ。
「(其のためには)下層階級の家族を兩親の共働きが増える
過程で分解し……ねばならぬ(詰り家庭の崩潰)
「下層階級に與へる教育は……尤も貧弱な質にとどめなけれ
ばならぬ」(『沈默の兵器』第五節「エネルギー」)
「メデイア―成人大衆の關心を眞の社會問題からそらさせ、
少しも重要でない事に縛り續ける。
「娯樂―大衆娯樂は小學校六年の水準以下にとどめ續けよ」
(同、第三十八節「陽動作戰の要約」)。
○此の[極祕]「沈默の兵器―プログラミング・マニユアル序説」
には、オペレーシヨン・リサーチ、テクニカル・マニユアル
TM‐SW7905.1 と記されてある。
○TMは、テクニカル・マニユアルの略稱と解される。
○7905.1 は、
一九七九年五月一日、と推定される。
○此の極祕文書は、一九八六年、全く偶然に、公共の目に觸れる
ところと成つた。
○筆者が「沈默の兵器」第一章で述べて居るやうに、
ジヨン・コールマン博士は、此の極祕文書の作者は、英國の
タヴイストツク研究所である、と曝露して居る。
○「下層階級に與へる教育は、……尤も貧弱な質にとどめねば
ならぬ」
○此の表現は、現在進行中の日本の教育破壞の、本當の仕掛け人が、
タヴイストツク研究所である事を暗示して居る。
○「アーロン收容所」(會田雄次著、中公新書)は、
大東亞戰爭敗戰後、ビルマで英軍の捕虜となつた著者の捕虜收容所
體驗記である。
○此れは名著として、多分、今でも讀まれてゐるであらふ。
○此處に、戰勝國英軍の兵隊の智能水準が語られて居る。
○收容所に時々日本軍捕虜用食料品が、英軍トラツクで運ばれて來る。
○其れを受け取る英軍の兵隊が、
○罐詰の數を計算するのだが、
○其れが、何時間もかかつてしまふ。
○詰り、英軍の兵隊には、尤も簡單な足し算も出來ない。
○日本軍の兵隊なら、一箱に罐詰何コ。
何十箱だから一箱の個數に何十をかけて、一分もかからずに暗算で
答へが出てしまふ。
○と、此の本の著者は書く。
○詰り、其の著者は、
英國はエリート階級と一般大衆の間に、日本では迚も考へられぬ
格差がある、其の實例を見たと言ふ。
○然し、今や日本人は、此のときの英軍兵士を笑つてゐられぬ。
○日本を占領するイルミナテイサタニスト世界權力は、
○其のドレイたる
○日本の「政府」に對して、
○日本の一般大衆を、徹底的にバカにせよ!!
○と、嚴命してをり、
○そして、日本の極惡賣國奴國賊官僚どもは、其のご主人樣の命令を
實行に移しつつあるのだ。
(了)
【參考文獻】
○ジヨン・コールマン著、太田龍監譯
「タヴイストツク洗腦研究所」成甲書房 (二〇〇六年)
○ジヨン・コールマン著、太田龍監譯
「300人委員會 凶事の豫兆」成甲書房 (二〇〇〇年)
○太田龍著
「沈默の兵器―靜かなる第三次世界大戰の宣戰布告」
附録『沈默の兵器』日本語譯
データーハウス
一九九五年刊
本文二五四頁
飜譯 七三頁
●日本義塾出版部でも取り扱ひ
一部 千三百圓 送料 二九〇圓
關聯書籍
中央公論新社刊
正高信男氏著「考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人」
中央公論新社刊
正高信男氏著「ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壞」
PHP研究所刊
丸橋賢氏著「退化する若者たち―齒が豫言する日本人の崩壞」
條ヤ書店刊
小原秀雄氏著「街のホモ・サピエンス―自己家畜化するヒト」
明石書店刊
小原秀雄氏著「人類は絶滅を選擇するのか」
人文書院刊
尾本恵市氏著「人類の自己家畜化と現代」
成甲書房刊
林秀彦氏著「この國の終はり 日本民族怪死の謎を解く」
をはり