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ここ阿修羅では価値観について多くの議論が交わされているように思いますが、戦前の人々の価値観、江戸の頃の価値観、そして遡って縄文の価値観などは、多くの文献から類推するか、個人の想像に頼るしか我々には手段がありません。ただ、戦前もしくは維新後に関しては、まだ、御存命の方もいらっしゃいますし、お身内の方からの口伝えによって、当時についてより確かな情報、感覚を得られるかもしれません。
さて、物の本質を捉える時に我々は忘却と執着を考慮するべきではないでしょうか?
執着から生まれる言葉は、復讐、仕返し、イジメ、意地悪、、。
段々、下世話な言葉に変化してしまいますが、、。
人は、忘れる事によって先に進める様な気もいたします。
今の自分の立ち位置を、あくまで自己のみに集中するのであれば、多よりもむしろ自己に注意が行きその他の事象に対しては、自己の糧とする道を選び、後ろに後ろに忘れ去られてゆくことでしょう。
しかし、立ち位置を他に求めれば、今ある自己の理由を他に求めるので、固執、執着、こだわり、が生まれ、今の自分からの解脱はその対象である他の除外、除去に依らなければならないと考えるでしょう。
人は、忘却の中で自己の成長を選ぶ人と、執着の中から結果を出そうとする人と道が分かれる様な気がいたします。
二元論にはしたくはないのですが、痛みに鈍感な人もいれば、敏感な人もいるのです。
テレビで、残酷なシーンを見て、怒りを覚える、興奮する、悲しみに暮れる、何も感じない。人は様々な反応を示します。
また、梅干しを食べてもいないのに、つばが出てきたり、という日本人のみの条件反射。
これは、経験が生み出す反射なのでしょう。
つまり、立ち位置、基盤が違えば同じ事象に対する反応も変わるということなのだと思います。
我々は六十年前に戦争によって多くの人々を失っております。
そして、我々は理不尽な加害者でもあり、被害者でもあったのです。
私は思うのです。忘却は平和の道に通じているのでは、、と。
今の私たちが、何もかも忘れてしまっているように。
執着ではなく、学びとしてあの時代を再考する作業が現代の我々に課せられているのだと思っております。
異論反論、お願いいたします。
失礼いたしました。