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まあ、どうでも良いが、阿修羅では「論議・雑談板」以外は情報の保存のための掲示板であるから、基本的には「個人の意見」というのは、論議板か雑談板に投稿するべきではないか?とKは思うのだが・・・
今回
【全体主義一色に向かう日本。 heart】
http://www.asyura2.com/07/senkyo29/msg/990.html
と言う投稿が目に入った。
少し気になる意見なので考えて見たいと思う。
>【個人主義という言葉は、利己主義と誤解され悪いイメージを持たれている(これも権力者側の陰謀?)。】
権力者側の陰謀が全くないとは言い切れないが、個人主義(=自由主義)と利己主義というのは区分けが非常に難しい部分である。
ここの区別は【自分も他者も両方尊重しなければならない】という部分で区切るしかないだろうとも考えられる。
>【他者を尊重し合う多様な個が集まって社会を形成している】
と言う部分はかなり重要である。
「社会は個人を守り。個人は社会に貢献する」ということで社会という集団は維持されるのである。
>【他方、全体主義、集団主義は、全体、集団のためには個を埋没させることが要求される。そこでは、皆同じ行動を取るため、他者を区別する必要もない。】
ここは少し違っていると言う気がする。全体主義(=国家主導)と集団主義(一定のグループでの目的達成の行動)は、区別すべきであるという気がする。
また、グループというのは役割分担という部分があり、必ずしも個を埋没させる事が良いと言うわけではないだろうと思う。
宴会の席では、幹事は「その時は大変であっても、自分はあまり飲まないでサポート役に徹し、みんなに楽しんでもらうという損な役回りをする。」
これは、基本的には回り番で行われるべきである(中には幹事が好きなのでいつでも幹事という人もいる時もある。大抵は飲めないので幹事として参加すると言うことである。)が、いざ自分の幹事の時になったら「こんな損な役割やっていられるか!」と駄々をこねる人の自由を尊重したら「集団は機能しなくなる」
>【今の日本は、個人主義、全体主義、どちらだろうか】
ここは難しい部分であるが「今の日本は個人主義に振れ過ぎた状況の反動で全体主義に振れようと言う状況下」ではないか?と言う思いもある。もっとも、この辺はKの主観であるから、場合によっては「反動で既に全体主義の方に振れ過ぎている状況」かもしれない。
まあ、振り子と言うのは丁度良い位置には止まり難い物で、振れすぎると反動も大きくなる性質を持っている。
>【集団行動は、他者、他の個性を尊重するという心を育まない。尊重するも何も、皆同じ行動をしているだけなのだから、尊重しようがないのだ。】
この辺は、色々と問題がありそうである。
学校教育とは「知識を育てる場」であると同時に「集団生活の中でのルールを守れる人を作る」という意味もあるだろうと思う。
行列に割り込まずにキチンと並んで順番を待つという常識を同級生との共同生活の中で学習するという部分は不要とは言えないだろう。
本来なら「躾け」というのは「家庭の仕事」なのかもしれないが、それを「学校に求める」という風潮もあるので、学校もそれに応じようという部分もあるだろう。
要は「家庭の責任放棄」によって「学校側も規律・道徳教育を強化せざるを得ない」という場面もあるだろうと言うことである。
その中で大きな問題に「式典行事」という部分がある。
良い事か?どうか?その方式が正しいか?は別にして
式典行事と言うのは「人に評価を受けるという性質を有している」
極論すれば「作品の品評会」と同じである。
父兄に対しては「お預かりしたお子さんは、この様に躾を行いました。」という部分を公開する場という要素もあるのであるだろうと思う。
担任が「作者」であり、品評者は校長であり、教育長であり、PTA役員であり、父兄、生徒、そして「来賓」である。
この来賓という部分は「仲間内ではない」ので、この部分で誤魔化しが出来なくなっているのである。
仮に、この時に対外的に「問題のある」という状況を見せるという事が「何を意味するのか?」という事も考える必要がある。
校長・教頭は「職員指導に問題がある」という評価を受け、学校自体の評価も下がる。
場合によっては、予算と言う部分にも響くという事もあるだろう。
前に「結婚式で賛美歌の不起立は問題だろう」と書いた事があるが、そのような非常識な友人を持っているという評価が新郎か新婦のどちらかに生まれる事を知っているから行えないと言う部分もあるだろう。
まあ、大抵はそこまで深く考えずに「自分に非常識という評価が生まれないように回りにあわせる人」が多いと思うが、仮に賛美歌不起立を実行したなら、「実行者個人の恥」では納まらないという部分もあるだろう。
>【社会の束ね方には二種類ある。】
>【一つは、人々が互い(の個性)を尊重し、尊重し合う人々が社会を構成していく、という個人主義によるやり方。】
>【もう一つは、上から人々を有無を言わせず命令によってまとめていく、全体主義によるやり方。】
他にもあるかもしれないが、まあ、間違いと言うほどではないかもしれない。
>【「上」の立場に立つ権力者がどちらのやり方を好むかは、火を見るより明らかであろう。】
この部分の「上」と言うのが、どのクラスであるかは問題であるが、結構な比率で「人のつながりの中で、人を動かす」という人も多い。
「気持ちは分かるが、ここは一つ、私を助けると思って、式典の成功に協力してくれよ」という説得である。
「協力してくれなければ処分します。」と最初から強硬な命令になる人の方が、むしろ少ないのではないか?とも思うが、この辺は分からない。
>【国旗・国家法制定当時、日の君を国旗・国歌と認めていた人は半数程度だったそうだが、それを国民の大半が認めていると強弁した。】
ここは、どうだか分からない。
福島瑞穂氏の国会質問の時の数字は63〜65%
http://www.cebc.jp/data/education/gov/jp-gi/fuku01.htm
これは「大半」は言い過ぎだろうが「半数程度」も問題だろう。「約3分の2弱の人」が妥当な線だろうか?
いずれにしても「運動・闘争」は目的の達成を目指すべきもので、その為には工夫が必要であろう。
「この闘争しかない」という事は疑う必要があるだろうと思う。