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□百目鬼恭三郎 『新聞を疑え』 [書籍之海 漂流記]
http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/e/7f4a19e0aa66602b70c9b3ed62c14dfc
2007年03月05日
百目鬼恭三郎 『新聞を疑え』
“これまでの新聞は、実際はともあれ、真実を追求することを建て前にしてきた。少なくとも、その格好だけはしないと沽券にかかわるとしてきた。ところが、近ごろは、その建て前が崩れはじめているようにみえる。
いまは、小説やテレビをみても、人生を深刻に考えるといったものは古くさいとされ、無意味とか悪ふざけの傾向が台頭してきている。この傾向の基層になっている思想は、フッサールの現象学に代表される、事物の背後にある真実などというものは、人間にわかるはずはない、人間が知ることができるのは事物の表面に現われた現象だけだ、という考えかたである。これが科学的合理主義の反動であることはいうまでもないが、こうなると、ニュースで何が真実であるかをということを追うのはまちがいで、表面に現われた現象を追うほうが、正統的なニュースということになるのである” (「新聞を疑え――序にかえて――」 本書18頁)
“いまいった新聞記者の識見無用をつきつめて考えてゆくと、本来新聞には事物の価値判断など必要ない、という抜きがたい通念にぶつかるのである。この研究は学問的に価値があるのか、この絵は美術的にすぐれているのか、といったその事物が本来問われるべき価値を、新聞は避ける。いま流行の現象学の用語を借りるなら、「判断停止」ということになろう。そして、新聞が専ら問うのは、ニュース価値という得体のしれぬものなのである。(略)ニュース価値とは、広く世間の話題になるかどうかということであるらしい。平たくいうと、みんながおどろくか、みんなの関心を呼ぶような事物が、ニュース価値があるということになる” (「飛ぶ鳥の記(上)」 本書31-32頁)
これらの文章は1984年に書かれたものである。時代柄、槍玉に上げられる対象が新聞のみに限られているが、これはこんにちでは「マスコミ一般」、あるいは「メディア全般」とでもすべきところであろう。現に他の箇所では、著者も「マスコミ」と言い換えている。
“マスコミにとっては、世論をわきたたせるのが報道の目的であって、真実の究明などは邪魔でしかないということなのである” (「飛ぶ鳥の記(下)」 本書67頁)
最新の例で言えば、たとえば安倍首相の従軍慰安婦発言をめぐる国内、および国外(なかでも韓国)の報道がそれに当たる。
●「朝鮮日報」2007/03/05 11:31、「慰安婦:『韓国人女性は強制と詐欺で慰安婦に』」 →http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/03/05/20070305000032.html
●「朝鮮日報」2007/03/05 11:21、「慰安婦:『動員には強制性あり』=米政府機密文書」 →http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/03/05/20070305000030.html
本来の“強制性”(=軍の関与、国家権力による強制的な拉致)の存在証明は、この記事のいずくにやある。「世論をわきたたせるのが報道の目的であって、真実の究明などは邪魔でしかない」典型のような煽動・誘導記事である。
参考:「池田信夫 blog」2007-03-03、「『従軍慰安婦』の政治決着は見直すべきだ」
→http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/56c1b3873ea7cf5ad9680d6cbf754a9e
(講談社 1985年1月第4刷)
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