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(回答先: 雑誌にコメントしたライター 5,000万円賠償請求される [J-CASTニュース] 投稿者 white 日時 2006 年 12 月 19 日 22:02:47)
烏賀陽さんによると99年には朝日新聞の体質が変わってしまっていたという。
マードックが全国朝日放送(テレビ朝日)株を買収したのが1996年で、朝日新聞が大あわてで約417億円で買い戻したのが97年4月らしい。その朝日新聞の買い戻し資金がどこから出たのか知りたい所だ。
ともあれ、買収劇から2年後には「こちらが提案するネタを誌面化する決裁権は編集長と編集長代理、5人の副編集長が握っているのだが、その判断が理解できないことが急に多くなった」らしい。
http://ugaya.com/column/taisha1.html
環境が変化したのは、91年にアエラ編集部に異動してからである。このころのアエラはまだマネージメント側も記者も自由な集団で、ぼくが会社を休職して自費留学すること(92〜94年)も快諾してくれた。趣味で始めた音楽記事の取材も「おもしろいからもっと書け」と励ましてくれた。95年、地下鉄サリン事件に始める一連のオウム取材に長くかかわったときも、松本サリン事件の捜査の検証をやったらどうだ、オウムとアニメの関係を取材してはどうか、オウム世代というものは何者か、などなどこちらが出す八方破れなアイディアをすくい上げて誌面にしてくれた。98年から99年まで、ニューヨーク駐在記者の仕事もやらせてくれた。
このころ、「自分がやりたいこと」対「会社がぼくにやらせたいこと」比率は80:20くらいになっていたのではないかと思う。サラリーマンとしては、つくづく「ありがたいこと」である。仕事がおもしろくて仕方がなかった。当然、日々の作業のなかでは編集長やデスク(編集部に5人いる副編集長)との衝突や対立はしょっちゅうあったが、意見の対立は、お互いにおもしろい誌面を作りたいからだという共通理解がこちらにも向こうにもあった。上司は信頼できた。先輩や同僚も能力が高く、しかも個性的なライターがたくさんいて、毎日何かひとつは教わることがあった。幸福な日々だった。あのころの編集長やデスク、先輩だった人たちがその後も自分の上司だったらどんなによかったかと今でも思う(みんな人事異動でいなくなってしまった)。
どうも様子がヘンだと思い始めたのは、99年春にニューヨークでの駐在記者生活から東京に戻ってきたあたりからだ。こちらが提案するネタを誌面化する決裁権は編集長と編集長代理、5人の副編集長が握っているのだが、その判断が理解できないことが急に多くなったのである。雑誌が基本方針を見失って、迷走しているなあ、とぼくの目には見えた。提案したネタが採用にならなければ、当然、上が命じる取材をしなくてはいけない。「自分がやりたいこと」比率は急速に低下し、最終的に0:100に振り切れて針が止まった。2001年、ぼくはパソコン誌の編集者になることを命じられたのである。つまり「書き手」から降ろされたわけだ。
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http://news.2ch.net/newsplus/kako/1022/10228/1022835551.html
・メディア王のルパート・マードック氏らが買収した全国朝日放送(テレビ朝日)株を、
朝日新聞社が不当に高額で買い取ったとして、同社OBが当時の経営陣18人に
約190億円の賠償を求めた株主代表訴訟の上告審で、最高裁第二小法廷
(河合伸一裁判長)は31日、請求を退けた二審判決を不服とする株主の上告を
棄却する決定をした。朝日新聞社側の勝訴が確定した。
一、二審判決などによると、マードック氏とソフトバンク社は1996年、テレビ朝日株
5136株を保有する旺文社メディア社を約417億円で買収。
朝日新聞社は97年4月、会社ごと同額で買い取った。
1株当たりの換算価格は約810万円だった。
株主側は、株の適正価格は当時約440万円で不当に高額だったと主張していた。
http://www.kahoku.co.jp/news_s/20020531KIIAEA24710.htm
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