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□NHKへの放送命令、「国営放送化」にまた一歩 [JANJAN]
▽NHKへの放送命令、「国営放送化」にまた一歩(上)
http://www.janjan.jp/media/0612/0612160565/1.php
NHKへの放送命令、「国営放送化」にまた一歩(上) 2006/12/17
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安倍首相への“おべっか”
菅義偉総務相は2006年11月10日、NHKに対し短波ラジオの国際放送で拉致問題を重点的に放送するよう放送法に基づいて命令した。公共放送に対し政府権力が特定のテーマを放送するよう強制するのは世界的にも極めて異例であり、放送内容について外部から干渉されない「自由」「自主」を保障し、「公正」を求める放送法の根幹に関わる問題である。
民間放送連盟、主要キー局、主要新聞がこぞって反対したにもかかわらず菅総務相は強行した。命令の諮問を受けた電波監理審議会はわずか1時間の審議であっさり諮問を認めた。委員たちには報道の自由にかかわり、公共放送の存在基盤を揺るがす重大な問題であることが理解できなかった。何のための審議会か、である。
総務相は批判に対して「命令権は放送法で認められている当然の権利だ」と開き直り、「番組内容に立ち入るつもりはないから報道に対する介入ではない」と繰り返してきた。
これは明らかに誤りであり、ねじ曲げた憲法解釈である。かつて小泉純一郎首相(当時)が日本国憲法前文の平和主義を持ち出して自衛隊の海外派遣を正当化しようとしたのと同類のロジックだ。
何を、どのように、どの程度伝えるかとともに、伝えるか、伝えないかもメディアの自主判断にゆだねるのが報道の自由である。内容に立ち入った強制がなければ自由侵害ではないなどという強弁は通らない。こんなことは憲法論のイロハである。「拉致問題に留意して」「重点的に」報道せよという命令は、国家の方針にそった放送を命ずるものであり、報道の自由を明らかに侵害する。
確かに放送法は放送に対する外部からの干渉排除に「法律に定める権限に基づく場合でなければ」との留保をつけている。したがって例外はあり得る訳で、それが「総務相はNHKに対し、国費負担により放送事項を定めて国際放送で放送するよう命じることができる」としている第33、35条である。
同様な制度を持っている国は他にもあるが、一部の国営放送ならともかく、視聴者が経営基盤を支える公共放送で今回ほど露骨な介入はない。英国BBCは政府から距離を置き、政府の方針に反することを決して自粛しないことでよく知られている。
NHKに対する命令もこれまでは報道の自由に配慮して「ニュース、解説、必要に応じて音楽」などと抽象的、包括的なものだった。06年4月の竹中平蔵総務相によるそれは「時事、国の重要な政策、国際問題に関する政府の見解」とやや踏み込んでいるが、それでも緩やかな大枠を示したに過ぎない。拉致問題という具体的テーマを指示し、「重点的に」「留意して」放送することを求める命令は、放送内容に立ち入っていることと変わりがない。
菅総務相は「拉致問題は国の重要事項だから」と命令発出の理由を説明する。実は総務省幹部は3月末、当時総務副大臣だった菅氏の意向を受けて橋本元一NHK会長を呼び、「テロ」「自然災害」と並んで「拉致問題」を重点的に扱うよう口頭で要請していた。「命令がなくてもきちんと放送している」というNHKに、口頭で、さらに正式な命令で拉致報道強化を求めるのは、安倍晋三首相への“おべっか”使いのように見える。
安倍首相は拉致問題に関する強硬姿勢で国民的人気を得てあっという間に自民党総裁、首相の座に躍り出た。当然のように拉致問題の解決が内閣の重要な政策課題に据えられた。首相の側近といわれる菅氏は、自分を大臣にしてくれた安倍首相に大臣権限を利用して忠勤を誓ったとみられる。
しかし、それだけではない。むしろ安倍内閣の本質そのものといった方が正しい。それは首相が拉致問題解決にことのほか熱心だからというだけでなく、NHKに対する介入を当然と考えている政治家だからである。総務相が放送命令にこだわったのは首相の気持ちを知っているからこその権限行使と見る方が自然だ。
旧日本軍従軍慰安婦制度をめぐって天皇の戦争責任を裁く民衆法廷を扱ったNHKの特集番組が、政治家の介入で放送直前に改変された問題は、周知のように05年1月、朝日新聞の報道によって明るみに出た。介入し、圧力をかけたのは報道当時自民党幹事長代理だった安倍氏(介入当時は内閣官房副長官)と同経済産業相の中川昭一・現自民党政務調査会長(介入当時「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表)だった。
報道された際、2人は介入したことを認め、「当然のことを言ったまで」「(放送を)やめてしまえ、(修正して放送するのも)だめだ、と言った」(中川氏)「国会議員として言うべき意見を言った」(安倍氏)と悪びれる様子はなかった。政治権力を利用してNHKの放送内容をチェックし自分たちの意向に従わせることに何の疑念も持っていなかった。まして放送命令は条文上の根拠が一応あるだけに「何が悪い」というのだろう。
このように見てくると、NHKに対する放送命令は菅総務相の思いつきなどではなく内閣としての方針と見た方が納得できる。発足当初は対中韓関係で柔軟な姿勢を見せるなど、豹変と言われた安倍氏が本質を現してきたのである。
(飯室勝彦)
▽NHKへの放送命令、「国営放送化」にまた一歩(中)
http://www.janjan.jp/media/0612/0612160567/1.php
NHKへの放送命令、「国営放送化」にまた一歩(中) 2006/12/18
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前回記事:(上)安倍首相への“おべっか”
本質を見抜けないジャーナリズムの幼稚さ
こんな報道の自由無視がなぜまかり通るのか。以下、(1)報道の自由に関するマスメディアの姿勢、(2)ここ数年の日本社会の雰囲気、(3)NHKの体質、の3点から考えてみたい。
まず報道機関の分裂、対立が激しい日本では公権力を批判するマスメディアの力が衰退し、公権力が緊張感を持たなくなっている。従軍慰安婦問題の番組改変をめぐる新聞報道は、報道の自由に関する日本のマスコミの認識不足を象徴している。
自民党から番組改変報道に対して厳しい攻撃を浴びた朝日新聞が、報道を検証した第三者機関の見解と社長コメントを発表した翌日の05年10月1日、毎日新聞朝刊に載った社説がいい例だ。
「朝日見解 事実解明なしで新聞社ですか」といささか感情的なタイトルの社説は、全編これ朝日攻撃といっていい。「朝日新聞は、どこか勘違いしているのではないか」「(取材資料の)流出元を突き止められないというのは、まず取材のプロとして失格ではなかろうか」「どうして、この期に及んでも、すべてを明らかにしないのか。報道機関自らが事実を覆い隠していては次の議論には到底進めない」などと手厳しい。
「国民が知りたいのは有識者の評価などではない。かねて疑問が寄せられてきた『取材記者はNHKと政治の関係より、本当は安倍氏らの歴史認識を批判したかったのではないか』といった取材意図も含めた事実だ」などというくだりは、安倍氏の意を受けて執筆したのではないかと勘ぐられかねない。
他方、この社説ではNHKと政治のあるべき関係について何も触れられていない。どんな局面であれ、NHKと政治の関係に触れずに番組改変問題の本質を論じることはできないはずである。
読売新聞や産経新聞も同様である。読売社説のタイトルは「朝日新聞『見解』 裏付けのない報道は訂正が筋だ」(10月2日付け)であり、産経は「朝日NHK問題 なぜ潔く訂正できないか」(10月1日付け)だ。
記事に不確実な情報が含まれたとしながら訂正しない朝日を、前者は「無責任」「謝罪し訂正するのが筋だろう」と、後者は「理解に苦しむ」と批判している。三紙に共通なのは「何が問題の本質か」を見抜けないジャーナリズムとしての幼稚さである。
三紙の社説はいずれも(1)安倍、中川両氏はNHK幹部を呼び付けたのかどうか、(2)中川氏がNHK幹部に会って番組に注文をつけたのは放送前だったか否か、の2点を番組改変問題の核心と位置づけている。
最初の報道当時、両氏はNHK幹部と面談して注文をつけたことを認めていたが、報道後、中川氏は「NHK幹部と会ったのは放送後だった」と言い出し、安倍氏は「呼び付けたのではなく、向こうからアポイントメントを求めて来た」と呼び付けを否定した。
ところが、中川氏も同氏に会ったNHKの松尾武・放送総局長(当時)も放送前日だったことを前提に朝日の記者に説明し、安倍氏、松尾氏も「呼び付け」を否定せずに答えている。これは雑誌『現代』05年9月号で紹介され、その後、朝日も報道した取材資料でも明らかだ。
まして、この問題で最も重要なのはNHKの番組内容について政治家が圧力をかけたこと自体である。中川氏、安倍氏ともにNHKに対する介入は当然との態度で取材記者に話している。これも取材資料に表れている。両氏の談話は介入が日常的に行われていたことを推測させる。
一連の流れを見ると、権力監視を使命とするジャーナリズムが、政治に対して毅然たる態度を示していないことは明らかだ。表現の自由を侵そうとする政治権力の思うつぼにはまったといえよう。
この問題の一連の報道では、多くのメディアがNHK、政治家、自民党、朝日などの言い分を「平等」「公平」に報じた。そのため、読者、視聴者の目には「朝日対NHK」「朝日対政治家(自民党)」の争いとしか映らなかった。「政治権力と表現・報道の自由」という本当の図式を誤報問題にすり替え矮小化して責任をごまかそうとする、政治の側の思惑が効を奏した。
朝日に対する同党の取材拒否を「取材拒否は本質ぼかし」と批判し、「問題の本質は政治と放送の関係である」「政党も政治家も常に国民の監視、チェックを受けるのが民主主義の大原則だ。取材拒否は、メディア差別というだけでなく、そのメディアを通じて情報を知ろうとする人びとの知る権利を侵害する」と論じた東京・中日新聞グループの社説(8月4日)が突出して見えるメディア状況は異常だ。このような足並みの乱れに乗じて権力がさらに一歩踏み込んできたのが放送命令である。現に今度もメディアの論調には報道の自由擁護のための団結がみられない。
第2の問題は近年の日本社会に蔓延している大勢順応ムードである。とりわけ拉致問題ではナショナリズムが燃え上がり異論を唱えにくい雰囲気がある。横田めぐみさんの娘とされるキム・ヘギョンさんのインタビューが放送された際には、フジテレビに「国策に反する」などの抗議が殺到したという。それ以後は、拉致問題について、とりわけ被害者家族の主張に疑問を挟んだり反対したりすることには勇気を要するのが実情だ。
自民党内には放送命令に慎重な声も多かったが、11月2日の通信・放送産業高度化小委員会で審議会への諮問を了承してしまった。最も強く反対していた片山虎之助小委員長も「違和感はあるが、しょうがないなと思う」と採決もしなかった。出席者の中には「拉致問題を持ち出されては何も言えない」と語る人もいた。政府側はそのあたりの事情を当然読んでいただろう。
拉致、ミサイル発射、核実験と暴走する北朝鮮を国際社会と調和できる国に変えるのに、さまざまな手段が必要なのはもちろんだ。だが、その手段は幅広い国民の議論によって練り上げられてゆくべきだ。政府や被害者家族の言うことを黙って聞くしかないのでは、民主主義社会の基盤である表現、報道の自由が圧殺され、戦前、戦中の暗黒社会に戻ってしまう。
(飯室勝彦)
▽NHKへの放送命令、「国営放送化」にまた一歩(下)
http://www.janjan.jp/media/0612/0612160570/1.php
NHKへの放送命令、「国営放送化」にまた一歩(下) 2006/12/19
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初回記事:(上)安倍首相への“おべっか”
前回記事:(中)本質を見抜けないジャーナリズムの幼稚さ
政治家の意向を反映するシステム
最後はNHKの態度である。命令に抵抗する姿勢は全然見せず「必要な放送はこれまでもしてきた。命令が出ても番組は自主的に編集して放送する」というのみである。この「自主的」が問題である。
民衆法廷の番組改変でもNHKは「自主的な判断による編集」と言い張って圧力を否定し、政治的圧力による改変と報じた朝日に抗議した。口裏合わせしたかのように安倍晋三氏らと主張は重なった。
裁判で明らかになった実態はどうだったか。政界工作を職務とする国会担当の職員が安倍氏ら国会議員を訪ねて番組への意見を聞き、制作部門の幹部に伝えた。この職員は番組制作に関与する立場にはないのに試写に同席し、見終わってから「全然だめだ。話にならない」などと高圧的な調子で内容に介入した。
職員の発言が国会議員の威を借りたものであることはいうまでもない。その結果、既に完成して放送するばかりになっていた番組が改変され、国会担当職員は修正内容にまで口を出した。NHKのいう「自主編成」「自主的な編集」とはこうだったのである。
予算の承認権を国会に握られているNHKは専門の職員が説明と称して日常的に議員の事務所を回りご用聞きのようなことをしている。番組改変はその延長線上の出来事であり、強引に圧力をかけなくても政治家の意向は反映できるシステムになっている。
完成している番組の内容を政治家の介入で放送直前に変えることを「自主編集」といえるのなら、命令に従った、政府の意向に従順な番組編集でも「自主的」と言えてしまう。自主編集という名の自主規制、自粛により、政府に忠実な事実上の国営放送が出来上がってしまう。
本当に自主的に編集しているのなら命令には反対の意見を表明するのが報道機関としてなすべきことであろう。NHKは政府に素直に従うと分かっているから公権力は命令に踏み切ったのである。
視聴者の信頼こそが公共放送であるNHKを支える基礎である。今回のような動きに対しては、「法律で決まっているから」と受容するのではなく、報道の自由の侵害は許さないという姿勢を毅然として示すべきだ。「自主編集」であると客観的にも分かる状態にならないと、視聴者からますますそっぽを向かれるだろう。
命令問題はジャーナリストにとって、いや日本人一般にとっても他人事ではない。ジャーナリストが報道に対する政治の圧力を「他社の問題」と座視したり、「相互批判」と称して権力のメディア攻撃に荷担していると、半世紀余りかかって築き上げつつあった日本の民主主義は根底から崩れるだろう。
(飯室勝彦)
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