★阿修羅♪ > マスコミ・電通批評4 > 134.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
【AML 10570】 大マスコミはなぜ反対しないのか〜教育基本法改悪〜 【higashimoto takashi】
政府与党によって教基法改悪法案が衆院の特別委員会で強行採決された翌日、マスコミはいっせいにこの問題について社説を掲げました。読売、産経の社説は、いつものことながら与党を擁護し、野党を批判するたぐいのものですが、地方紙を含むその他の新聞の社説はおおむね与党の「単独採決」を憤り、批判するものでした。本来、第4権力として政府の行いをチェックする役割を担っているはずのマス・メディアとしては当然の論説のありようだと思います。
しかし、ネット上では、教基法改悪法案が委員会で強行採決された日からその翌日にかけて(この日、本会議でも強行採決)、本来、政府与党に向けて発せられるはずの怒りの声がメディアに向けて発せられることが多かった。「大マスコミはなぜこれまで教基法改悪反対の論陣を張ってこなかったのか」と。その怒りの声はいまも続いています。
例1:インディペンデント・メディアの怒りの声
■大マスコミはなぜ反対しないのか〜教育基本法改悪〜
(日刊ゲンダイ、2006.11.15)
http://eritokyo.jp/independent/nikkangendai-col111.html
例2:市民(翻訳家)の怒りの声(1)
■池田香代子さんの発言(11/16国会前ヒューマンチェーン)
「過去の歴史を顧みるとき、当時の報道に勇気づけられることもあれば、暗澹とした思いに駆られることもある。/メディアのみなさん、歴史の検証に耐えうる報道を今してください」
例3:市民(市民記者)の怒りの声(2)
■あまりに“お手軽”な報道姿勢 教育基本法改正案をめぐって
(オーマイニュース、2006-11-17)
http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003177
例4:市民(WEB転載型ML)の怒りの声(3)
「マスコミの反応も悪いです。今頃になって、やっと反対者の発言をな(ら)べても、書かないよりずーとましとはいえ、『タイミングが悪い!どうして、先の週末に特集でもしなかったのか。結局与党の強行採決の責任の一つは、、反対の世論の抑えたこんだマスコミのせいだ!」と思いました。/もちろん、頑張って報道してくれた新聞等もありますよ」
例5:市民(通常ML)の怒りの声(4)
「『草の根メディア9条の会』(事務局・埼玉県内)より『教育基本法改悪』のまともな報道を一切しないマスコミ各社へ本日(11/18)要請文を送りました」
そうした市民の批判のあることを予想し、その弁明をあらかじめ考えていたフシもあります。大マスコミの一翼を担う「朝日」と「毎日」は、教基法案強行採決の翌日の社説に一様に次のように書きました。
「私たちは社説で、政府の改正案には疑問があることを何度も主張してきた」(朝日、16日付)
「これまで私たちは再三、『何のために改正するのか、原点が見えない』と指摘してきた」 (毎日、16日付)
ほんとうにそうでしょうか? まさか、大新聞がウソをつくとも思えません。調べてみました。下記は、強行採決のあった翌日の16日以前、11月1日から15日までの「朝日」「毎日」「日経」の各社説調べです。
■朝日11月度(16日以前)社説なし
■毎日11月12日付に社説あり(教育基本法改正 一から論議をやり直す時だ)
■日経11月(11日から16、17日を含めて)社説なし〔11日以前は不知〕
ちなみに読売、産経の16日付社説は次のようなものです。
■「教育」衆院採決 野党の反対理由はこじつけだ(読売)
■教育基本法改正 やむをえぬ与党単独可決(産経)
なんとも散々たるありさまです(「毎日」はそれでも12日に教基法案の問題点を問う社説を掲げています。「朝日」には11月度に教基法案に関する社説はありません)。
教基法案が政府与党によって強行採決されるかどうか。先週の6日から今週にかけて、私たちの「国」は、まさに民主主義のポイント・オブ・ノーリターン(帰還不能点)の位置に立っていたはずです。この一線を越えるともはや取り返しがつかない、という… 戦前がそうであったあの歴史の分節点。そのとき、その時期に、警鐘を乱打するどころか、一打もしないで、果たしてメディア=ジャーナリズムということができるでしょうか?
「教育基本法、来週、衆院委可決へ」「審議時間80時間」「野党抵抗、近づく限界」
といった類の報道ならばこれまでもたしかにありました。一見「価値中立」的な「客観報道」のようではあります。しかし、「価値中立」的とは、現状を動かさず、「そのままの状態で視る」ということの謂いでしょう。そうであってみれば、「価値中立」的な報道は結局のところ「体制」維持の装置として機能するほかありません。それでメディアは「権力に対するウォッチドッグ(監視者)」を自称することができるでしょうか?
前出の日刊ゲンダイの記事によれば、「(教基法)特別委筆頭理事の町村前外相は『野党の主張通りに審議を進めてきた。《強行採決》という見出しをつけないように』と記者にクギを刺していた」(2006.11.15付)といいます。そういうこともあってか(そういうことではない、と思いたいのですが)、上記の大手マス・メディアは「強行採決」(野党4党の反対を押し切ってのことですから、当然「強行採決」でしょう)というべきところを揃って「単独採決」と実相を隠蔽し、ミスリードする表現をあえて使用しました(「強行採決」というタイトルを打ち出した地方メディアも少なくないというのに)。
辺見庸はかつて上記のような事態を「報道用語はほとんど脱臼してしまっていて、状況の危機を危機として位置づけることができない」と喝破しました。つけ加えて、「それが、今日的な日本型のファシズム」(『単独発言』)の姿だとも言いました。
最近上梓されたばかりの『いまここに在ることの恥』の中では次のようにも書いています。「2003年12月9日、自衛隊のイラク派兵が閣議決定された日」のことに触れ、その日は「平和憲法にとっての『Day of Infamy』でした」、と。
その屈辱の日の「翌日の新聞は一斉に社説を立てて、このでたらめな憲法解釈について論じたでしょう。ひどい恥辱として憤激したでしょうか。手をあげて、『総理、それはまちがっているのではないですか』と疑問をていした記者がいたでしょうか。いない。ごく当たり前のように、かしこまって聞いていた。ファシズムというのは、こういう風景ではないのか」と、再度「ファシズムの風景」に思いを致しています。
今回、教基法改悪法案の強行採決の翌日の16日、マスコミはたしかに一斉に社説を立てはしました。しかし、大手マスコミの社説は「強行採決」を「単独採決」と脱臼させた言葉を言い募るものであり、ポイント・オブ・ノーリターンの日々に主張していなかった社説をあるがごとくに言い募る趣のものでしかなかったように思います。
大メディアに勤めるジャーナリストたちよ。あなたたちは、会社員である前にひとりのジャーナリストであろうとしてメディアを志望したのではなかったか? そうであれば、私はあなたたちに奮起を求める。真は難しいから、芯のあるジャーナリストであって欲しい、と。
あなたたちが新聞記者という世間体のよい会社員を望んでメディアを志望したのであっても、それは、いまの社会ではまあふつうのことだ。それについて私はどうこういうつもりはないし、その資格もない。ただ、世の中も末だなあ、と嘆きはするでしょうが。
なお、教基法の問題については、地方紙はなかなか奮闘していたように思います。
これを書いておかなければ不公平になるでしょう。たとえば以下のごとし。
■[教育基本法改正] 強行採決は避けるべきだ
(沖縄タイムス、2006.11.14)
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20061114.html#no_1
■教育基本法改正背後に潜むもの 立花隆氏に聞く
(東京新聞、2006.11.10)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20061110/mng_____tokuho__000.shtml
■教育基本法改正 当面の課題解決が先だ
(中国新聞、2006.11.15)
http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh200611150168.html
■教育基本法案*採決急ぐ状況ではない
(北海道新聞、2006.11.05)
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/backnumber.php3?&d=20061105&j=0032&k=200611053822
■教育基本法の改正 仕切り直しが筋だろう
(岩手日報、2006.11.15)
http://www.iwate-np.co.jp/ronsetu/y2006/m11/r1115.htm
■教育基本法改正/学校現場の問題解決が先だ
(河北新報、2006.11.11)
http://www.kahoku.co.jp/shasetsu/2006/11/20061111s01.htm
そのほかインターネット新聞JANJANにも市民記者のよい記事が掲載されていました。なぜかオーマイニュースには昨日までは教基法の記事なし。不可思議。
東本高志@大分
taka.h77@basil.ocn.ne.jp
▲このページのTOPへ HOME > マスコミ・電通批評4掲示板
フォローアップ: